第37話 フィオナの観察記録、証拠採用
「静粛に。弁護人、次の証拠を提出しなさい」
グラデルの重々しい声が、同情的な空気に包まれた大法廷に響き渡った。
群衆からの「自己犠牲の英雄」という的外れな善意認定を受け、俺は被告席で青ざめながら絶望の底に沈んでいた。この甘ったるい空気を一刻も早くぶち壊さなければ、俺のアイデンティティが死んでしまう。
その時、俺の背後からスッと立ち上がったのは、銀灰の髪を揺らしたフィオナだった。
彼女は両手で抱えきれないほどの分厚いノートの束を、証拠品提出の台へとドンと積み上げた。
「これより、被告人ダンの日々の行動と、彼が意図的に社会のヘイトを管理している構造について、私の個人的な『観察記録』を提出します」
グラデルがパラパラとノートをめくり、やがてその目に驚愕の色を浮かべた。
「これは……。被告人が依頼主への復讐を未然に防ぐため、どのように相手の弱点を突き、計算ずくで憎悪を自分へ誘導したかの詳細なプロセス……」
そこには、俺がいつ、誰に、どんな暴言を吐き、どれだけのヘイトを稼いだかが、魔力波長の変動値と共に秒単位で記録されていた。
だが、グラデルの顔を引きつらせたのはそれだけではなかった。
「……ん? 『朝食時の茶の最適温度』『睡眠時の寝返りの回数』『雨の日に無関心な環境に置かれた際の、微細なストレス反応』……? 弁護人、これは一体……?」
「彼という極めて特異なシステムを完全に理解し、不測のエラーを防ぐためには、対象の生態を二十四時間体制で観測・記録する必要がありました。私は、ただ事実を書き留めただけです」
フィオナは紫紺の瞳を瞬き一つさせず、無表情のまま堂々と言い放った。
傍聴席がざわめく。
「あの娘、まさかそこまで彼に付き添って……」
「世間から嫌われる彼を、一番近くでずっと支えていたんだな……」
「なんて献身的なんだ……!」
おい、ちょっと待て。
傍聴席の群衆が、目を潤ませてフィオナを見つめている。彼女の常軌を逸したストーカーまがいの記録を、『世間から石を投げられる男を健気に支え続けた、愛人による涙の証言』として受け取っているのだ。
(ふざけるな! どこをどう読めばそうなる!)
俺は背筋を悪寒が駆け抜けるのを感じた。
俺のプライベートを秒単位で監視し、食事の好みから寝相、精神的な隙に至るまで完全に丸裸にする。これは、いつか俺を破滅させるための弱点を探る、極めて執念深く粘着質な監視ヘイト以外の何物でもない。
「私は、彼を一番見ています」
フィオナの凛とした声が、法廷に響き渡る。
「彼がどれだけのものを一人で背負い、誰も見ようとしなかった社会の歪みを引き受けてきたか。この記録が、すべてを証明しています」
群衆からすすり泣く声が漏れ始めた。
駄目だ。また俺の『いい人』ゲージが爆上がりしている。このままでは本当に聖人君子として無罪放免されてしまう。
「……強烈だな」
俺は冷や汗を流しながら、フィオナの背中を睨みつけた。
「俺の評判を美化してまで、俺という観察対象を自分だけのものにしようとする執念。あの記録ノートの束、恐ろしいほどのヘイトの塊だ」
俺が身震いしていると、フィオナがゆっくりと振り返り、俺を真っ直ぐに見つめた。
その紫紺の瞳の奥で、無表情な彼女の感情が微かに熱を持って揺らいでいる。
彼女は小さく息を吸い込み、口を開いた。
「ダン。私は、あなたを――」
俺は身構えた。
なんだ? ここで堂々の宣戦布告か? それとも俺の所有権を主張する敵対宣言か?
だが、フィオナの言葉はそこで途切れた。
彼女の指先が微かに震え、真っ白になるほど強くスカートの裾を握りしめている。
彼女は何かを呑み込むように深く唇を噛み締めると、ふっと目を伏せ、静かに言い直した。
「――ずっと、観察し続けます。誰にも、邪魔はさせません」
「……上等だ。その監視ヘイト、受けて立とうじゃないか」
俺が不敵に笑い返すと、法廷内は「愛を誓い合う二人」という最悪の勘違いで、感動の渦に包まれてしまった。
俺はただ一人、群衆の温かい拍手の中で、四面楚歌の絶望を味わっていた。
【本日のヘイト評――観察記録由来の粘着ヘイト。甘い。なぜ甘い。★測定不能】
◆
「私は、あなたを――」
あの時、フィオナの喉元まで出かかっていたのは、間違いなく『愛している』という一つの真実だった。
だが、彼女はそれを言葉にしなかった。いや、できなかった。
彼の日々の行動を最も近くで観測し、誰よりも彼の心の欠落を見てきたからこそ、フィオナには分かってしまう。
今の彼にその言葉をぶつけても、彼はそれを『自分を縛り付ける新種の殺意』だと解釈して、喜んで受け入れてしまうだろう。それは、彼女が望む形ではない。
(言葉にすれば、すれ違う。……彼の認識回路は、ひどく歪んでいるから)
フィオナは手元の分厚い観察記録をそっと撫でる。
ならば今は、この歪んだ認識のままでいい。
『あなたを一番憎んでいる』という名目で、一番近くにいる権利を独占できるのなら。
フィオナは紫紺の瞳を静かに伏せ、自分の心の中に生まれたこの未解明な感情を、まだ言葉にならない熱として記録の片隅に留め置いた。
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