第26話 会頭の息子を追放してほしい
コンコン、と。
〈クビキリ堂〉の重い扉が、控えめだが確かな重圧を伴って叩かれた。
入ってきたのは、仕立ての良い豪奢な外套を羽織った初老の男だ。王都の流通を牛耳る商業ギルドのトップ、会頭のマルクスである。
「……ダン殿。本日は、ギルドを通さない個人的な依頼で参った」
マルクスは深く頭を下げ、しわがれた声で言った。
「実の息子である、レオンを追放してほしいのだ」
身内案件。しかも、商業ギルド会頭の息子となれば、影響力は計り知れない。
俺は眉をひそめ、マルクスにソファを勧めた。
「十年だ。十年もの間、私はあいつを商業ギルドの要職に就かせ、いつか後継ぎとして大成すると信じて庇い続けてきた。だが、もう限界なのだ」
マルクスは苦渋に満ちた顔で語った。
レオンは重要な商談に遅刻し、帳簿の計算を間違え、取引先との約束を平気で反故にするという。
だが、問題はそれだけではなかった。
「……なるほど。無能なのは分かりました。ですが、なぜそこまで放置を?」
「誰も、あいつを叱れないのだよ。私の威光があるせいで、部下たちはレオンのミスを先回りして隠蔽し、取引先も会頭の息子だからと愛想笑いで許してしまう。あいつ自身も、自分が優秀だと勘違いしたまま腐りきっている」
典型的な、環境が生み出した怪物だ。
失敗を失敗として扱われず、叱られることもない。誰もが腫れ物に触るように扱い、本人だけが気づいていない。
「……ご依頼、引き受けましょう。ですが、俺のやり方は容赦しませんよ。それでも構いませんか?」
「構わん。私の目の前で、あいつに現実を突きつけてやってくれ。でなければ、あいつは一生気づかない」
マルクスは血の滲むような思いで、そう告げた。
◆
マルクスが帰った後、事務所は異様な静けさに包まれていた。
「……こいつの無能は才能ではなく、環境でできている」
俺が調査資料に目を通しながら呟くと、斜め向かいの席でフィオナが羽ペンを止めた。
彼女の紫紺の瞳が、珍しく微かな揺らぎを見せている。指先がほんの少しだけ震えていた。
「……『見られない失敗』ほど、恐ろしいものはありません。エラーを指摘されず、修正の機会すら与えられないまま、システムの中に組み込まれ続ける。それは、存在を否定されているのと同じです」
かつて周囲を変数扱いして孤立していたフィオナにとって、周囲がすべてを忖度して隠蔽する状況は、別のベクトルで背筋が凍るような恐怖を感じるのだろう。
「家を継ぐ者の責任か……」
隣の部屋から顔を出したロッタが、複雑な表情で腕を組んだ。
「私も騎士団の隊長令嬢として、親の威光で見られることの息苦しさは知っている。だが、それに甘えて腐るなど、人としても最低だ。ダン、今回はお前の容赦ない手口が必要かもしれないな」
ロッタは珍しく俺のやり方を肯定し、強く唇を噛み締めた。
「レオン氏が関わった事業の損失額を算出しました」
ノーチェが感情の抜け落ちた声で、一枚のレポートを机に置いた。
「過去十年間で、彼のミスを補填するために商業ギルドが支払った違約金、および隠蔽工作に使われた経費の総額……およそ金貨三千枚に上ります。彼の存在そのものが、ギルドにとって巨大な負債です」
数字は残酷なまでに事実を浮き彫りにする。
十年という歳月と、金貨三千枚。これだけの損害を出しながら、誰にも叱られなかった男。
「親の威光という無菌室で育ったヘイトか。……一体どんな味がするのか、楽しみだな」
俺は依頼書を握り潰すように丸め、口角を深く吊り上げた。
◆
数日後。
俺はマルクスに指定された、商業ギルドの豪華な応接室の前に立っていた。
中には、マルクスと、彼の息子であるレオンがいるはずだ。
「ここが、現場か」
俺の背後には、フィオナ、ロッタ、ノーチェの三人が無言で並び立っている。
それぞれが独自の理由で今回の案件に強い関心を抱き、俺の追放通知を観測するために同行してきたのだ。
「行くぞ。十年物の膿を搾り出しに」
俺は応接室の重い扉に手をかけた。
扉の向こうからは、レオンの傲慢で軽い笑い声が漏れ聞こえてくる。
「親父、今度の東部との取引なんだけどさ。俺の顔を立てて、少しばかり条件を緩めてやってもいいんじゃないか? どうせ俺が次期会頭なんだし、これくらいの裁量は……」
その言葉を遮るように、俺は扉を勢いよく開け放った。
「――残念ながら、その権限は君にはない」
応接室に踏み込んだ俺を、レオンが不機嫌そうに睨みつける。
マルクスはソファに深く腰掛けたまま、目を閉じていた。
「なんだお前は。親父の客か? ノックもせずに失礼な奴だな」
「初めまして、次期会頭殿。俺は追放通知代行人のダンだ」
俺はレオンの前に進み出ると、懐からノーチェがまとめた分厚い損害レポートを取り出した。
「今日は、あなたのお父上の依頼で、あなたに現実という名の通知をお届けに上がりました」
レオンの顔に、戸惑いと苛立ちが交差する。
彼がこれまで十年間、周囲から与えられ続けてきた甘い毒。それを俺が、今から劇薬に変えて胃袋に流し込んでやる。
まだ火を入れる前だが、この部屋にはすでに、濃密で極上のヘイトの匂いが充満し始めていた。
【本日のヘイト評――まだなし。親子案件は火を入れる前が一番臭う。★保留】
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