第24話 寝返りの査定員
バシャァァァッ!
激しい雨が王都の石畳を叩きつける深夜。
営業を終えていた〈クビキリ堂〉の重い木扉が、乱暴な音を立てて開かれた。
「……こんな夜更けに、何の用だ。うちの営業時間はとっくに終わってるぞ」
俺が呆れたように声をかけると、入り口に立っていた人影が一歩、室内へと踏み込んだ。
ずぶ濡れになった黒髪のボブカットから、雨滴がポタポタと床に落ちる。ざまぁ保険会社の査定員、ノーチェだ。
彼女はいつも着ている地味なスーツを雨で重く濡らしながらも、その胸には分厚い皮装丁のファイルを、まるで赤子を守るように大切に抱え込んでいた。
「ダン氏。至急、確認していただきたいデータがあります」
ノーチェは息を切らしながら俺の机まで歩み寄ると、抱えていたファイルをドサッと音を立てて置いた。
俺の背後で、事務所に常駐しているフィオナとロッタが、微かに警戒の気配を漂わせる。
「なんだ、これは」
「私の所属するざまぁ保険会社、出版ギルド、王立訓練院の一部、そして特定貴族の間の資金の流れを追った内部資料です。通称、『祝福市場』の全容」
ノーチェが感情の抜け落ちた声で淡々と語る。
「彼らは結託し、意図的に理不尽な追放を演出することで《逆境祝福》を暴発させています。覚醒した若者を英雄として売り出し、保険の需要を煽り、社会不安を管理費用に変えて利益を得ているのです。あなたが行っている『正当な追放』は、彼らのエコシステムを根底から破壊する行為です」
なるほど。エルマンの件でうっすらと見えていた利権の繋がりが、これで完全に裏付けられた。
俺を公開審問に引きずり出そうとしているのは、この巨大な『祝福市場』そのものというわけだ。
「それで? 会社の命令で俺の粗探しをしていたお前が、なぜこんな重要機密を俺のところに持ってきた」
俺が目を細めて尋ねると、ノーチェは濡れた眼鏡を中指で押し上げ、俺を真っ直ぐに見つめ返した。
「数字はあなたの側にあります」
「……ほう」
「会社の利益は論理的ですが、真実ではありません。あなたの残した『依頼主被害の激減』と『対象者の再起率』という数字こそが、絶対的に正しい。私は査定員として、正しい数字の側につくことを選択しました」
コンコンコンッ!
その時、事務所の窓ガラスを鋭く叩く音がした。
ピノが恐る恐る窓を開けると、雨に濡れた青い鳥の使い魔――急ぎの魔術便が、一通の封書を口から落として飛び去っていった。
封書の宛名はノーチェ。差出人は、保険会社のベルディ調査部長。
「開けてもいいか?」
「構いません」
俺は封を切ると、中に書かれていた仰々しい文面を、まるで演劇のセリフでも読むように声に出して代読した。
「『貴様の背信行為は発覚している。機密持ち出しの罪により、当刻をもって貴様を解雇する。業界を敵に回した思い上がりに、相応の絶望を与えてやる』……だってさ」
読み終えた俺は、歓喜のあまり震えそうになる肩を必死に抑え込んだ。
「最高じゃないか」
俺は満面の笑みを浮かべ、ノーチェを見下ろした。
「巨大な利権組織からの濃厚なヘイトを、ご丁寧にテイクアウトしてきやがった。お前、ただの無表情な査定員かと思ったら、とんでもない極上の敵意の運び屋だな!」
「……私は、あなたの役に立つ数字になるため、ここに来ました」
ノーチェが静かに宣言する。
完全に会社を裏切り、俺の陣営へ寝返るという意思表示。
「業界敵対型の冷製ヘイトだな。大歓迎だ。俺の盾になって、存分に巨大組織からのヘイトの矢面に立ってくれ」
俺がそう言って上機嫌で笑った瞬間。
事務所の空気が、物理的な重さを持って軋んだ。
チカッ、チカチカッ!
フィオナの頭上にある魔力灯が激しく明滅し、彼女が握りしめた羽ペンを持つ指先が、白くなるほど微かに震えている。
「……随分と、図々しい変数が入り込んできましたね。私の観察対象のすぐ傍に、これ以上不純な数値を並べるのは許しません」
「勘違いするな、保険屋。ダンを一番近くで監視しているのは私だ。お前のような新参者に、こいつの隣は譲らない」
ロッタもまた、剣の柄に手を当てながら、ノーチェに対して鋭い碧眼を向けていた。
三人の少女たちが、俺を囲むようにしてバチバチと火花を散らしている。
(素晴らしい。俺という極上の避雷針を巡って、アンチ同士の陣取り合戦が激化している)
俺は三方向から突き刺さる熱烈な視線を、それぞれ独立した『新種のヘイト』と誤読し、今日という日を完璧に締めくくる一杯の茶を淹れるよう、ピノに機嫌よく命じたのだった。
【本日のヘイト評――裏切りたての冷たい敵意。なぜか忠誠の香りがする。★測定不能】
◆
ピノから渡されたタオルで濡れた髪を拭きながら、ノーチェは手帳の真新しいページを開いた。
最初のページに書かれていた『所属:ざまぁ保険会社』という文字列を、彼女はペンで二重線を引いて黒く塗りつぶす。
そして、その横に新しく書き込んだ。
『所属:ダン側の数字』
自分は査定員だ。数字以外の、不確かで論理的でないものは信じない。
だが、あそこで「数字はあなたの側にある」と言い切った時。そして、彼が「最高じゃないか」とあの歪な笑みを浮かべて自分を受け入れた時。
胸の奥で、数字には絶対に変換できない、不思議な温かさが弾けたのを感じた。
(……このエラーは、しばらく修正できそうにありません)
ノーチェは無表情のまま、少しだけ曇った眼鏡のレンズの奥で、その削除できない感情の記録をそっと手帳に挟み込んだ。
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