第23話 保険会社からの黒い依頼
カリッ……。
〈クビキリ堂〉の応接ソファに座るノーチェの手が、不自然に止まった。
「……合いません。何度計算しても、数字が矛盾を起こしています」
黒髪ボブに銀縁眼鏡の査定員は、手元の分厚い書類の束を見つめたまま、感情の抜け落ちた声でそう呟いた。
業界の敵である俺を監視するという名目で、彼女が毎日この事務所に張り込むようになってから数週間。彼女が仕事中にこれほど露骨に手を止めるのは初めてのことだった。
「どうした、優秀な査定員殿。俺の返り討ち成功率が百パーセントのままで、いよいよ保険会社の経営が傾いてきたか?」
俺が皮肉交じりに声をかけると、ノーチェはゆっくりと顔を上げた。
「あなたの案件データは完璧です。依頼主の被害は激減し、追放対象者の再起率も非常に高い。……ですが、私の手元にある『もう一つのデータ』が、それを全力で否定しているのです」
「もう一つのデータ?」
「はい。現在、私の所属するざまぁ保険会社の上層部が作成中の、あなたに関する『被害申告書』の草案です」
ノーチェが机に広げたのは、まだ正式な印が押されていない裏書類だった。
そこには、俺がこれまで手がけた案件の対象者たちが『不当な言葉の暴力で精神を破壊され、社会復帰できなくなった』という、事実とは真逆の捏造された被害報告が並んでいた。
「なるほど」
俺は書類を一瞥し、思わず口角を吊り上げた。
「俺のやり方が正当すぎて《逆境祝福》が発動しないから、保険の需要が減って困る。だから、俺を『不当に人を傷つけ、社会不安を煽る危険人物』に仕立て上げ、社会的に抹殺しようというわけだ」
「……その通りです。これは明らかに、数字を無視した暴挙です」
ノーチェの灰色の瞳が、微かに揺らいでいる。
常に数字と記録だけを信じてきた彼女にとって、会社が利益のために事実を捏造しようとしている事態は、論理的なエラー以外の何物でもないのだろう。
しかし、俺にとってはこれ以上ないほどの朗報だった。
「素晴らしいじゃないか。ただの逆恨みじゃない、巨大な組織ぐるみで俺を陥れようとする真っ黒な悪意! ああ、たまらない。ゾクゾクしてきた」
俺が歓喜に打ち震えていると、事務所の空気が急激に冷え込んだ。
ピキキキッ!
斜め向かいの席で、フィオナが握っていたインク瓶の表面に霜が張る。
「極めて不愉快です」
フィオナが紫紺の瞳を細め、ノーチェを冷ややかに睨みつけた。
「彼の精神を不当に揺さぶり、私の観察データにノイズを混ぜようとする巨大な変数。排除対象として記録します」
「待て、フィオナ」
隣の部屋から壁を叩くような足音と共に、ロッタが剣の柄を握りしめて現れた。
彼女は鋭い碧眼で、机の上の捏造書類を睨みつける。
「こいつのやり方が外道なのは事実だ。だが、存在しない罪を作り上げてまで監視対象を貶めようとする組織の腐敗は、私の正義が絶対に許さない!」
「……あなた方のダン氏への過剰な執着こそ、論理的なエラーです」
ノーチェが眼鏡を押し上げながら、淡々と反論する。
三人の少女たちの間に、バチバチと激しい火花が散った。
(いいぞ、もっとやれ)
俺をどうやって裁くか、誰が一番俺へのヘイトを正しく管理するかで争っているのだ。俺という極上のヘイト避雷針を巡る、三つ巴の冷たい敵意。
組織からの圧力を受けて冷え切ったノーチェの眼差しも、嫉妬に似たフィオナとロッタの反発も、すべてが最高のスパイスだった。
「まあ、好きに争ってくれ。俺は俺を憎んでくれる奴なら、個人だろうが組織だろうが大歓迎だからな」
俺は冷めた茶を喉に流し込みながら、これから王都で巻き起こるであろう『巨大な逆恨みの祭り』の予感に、心底心地よく酔いしれていた。
【本日のヘイト評――保険会社の黒い香り。まだ瓶の中だが、よく熟れている。★4.5】
◆
昨夜のことだ。
ざまぁ保険会社の調査部長室に呼び出されたノーチェは、直属の上司であるベルディ部長から、冷酷な業務命令を下された。
『いいか、ノーチェ。あの追放代行人は我が業界の敵だ。奴のせいで、ざまぁ保険の需要が激減している。……お前は今、奴に張り付いているな?』
ベルディは分厚い葉巻の煙を吐き出しながら、ノーチェに分厚いファイルを突きつけた。
『虚偽でも構わん。奴が不当に人を傷つけ、社会不安を撒き散らしているという被害申告を集めろ。慈愛審問庁ともすでに話はついている。奴を公開審問の場に引きずり出し、完全に社会から抹殺するのだ』
それは、会社の利益を守るための絶対的な命令。
査定員であるノーチェは、それに従うのが『正しい歯車』としての役割だ。
だが。
「……数字は、嘘をつきません」
ノーチェは一人、自分の手帳に書き込まれたダンの追放案件のデータを見つめ直す。
依頼主の損害低下。対象者の高い再就職率。
彼が背負った憎悪の量に比例して、社会の腐敗は確実に浄化されている。その数字の並びは、ベルディ部長の醜い捏造書類よりも、遥かに美しかった。
命令に従うべきか、美しい数字の側につくべきか。
ノーチェは眼鏡の奥の灰色の瞳を伏せ、自らの内に生じた『葛藤』という名の未解明な感情を、静かに記録した。
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