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第19話 雨の日、無関心だけがまずい

バチバチバチッ!

王都を覆う分厚い灰色の雲から、滝のような豪雨が降り注ぎ、事務所の窓ガラスを激しく叩き続けている。


「……今日は、誰も来ないな」


パタン、と。

俺は手元の帳簿を閉じ、深く椅子に背もたれを預けた。

朝から誰一人として〈クビキリ堂〉の扉を叩かない。雨音だけが響き渡り、誰からも俺の名前が呼ばれない時間が、もう半日も続いていた。


「この大雨じゃ、わざわざ人のクビを切りにくる依頼人もいませんよ」


向かいの席で、ピノが退屈そうに頬杖をついている。

彼女は俺の顔をジッと見つめ、ふと不思議そうな声を上げた。


「前から思ってたんですけど。所長って、なんでそこまで嫌われたいんですか?」


「ん?」


「だって、腕も立つし頭も回るんだから、普通の冒険者とか商人になれば、誰かに感謝されて普通に生きられたはずでしょ。なんでわざわざ、世界中の恨みを買うような商売をしてるんですか」


ピノの素朴な疑問に、俺は少しだけ目を丸くした。

そして、冷めかけた茶の入ったマグカップを手に取り、肩をすくめる。


「別に、複雑な理由があるわけじゃない。俺の性癖だよ」


俺は、前世の記憶――いや、遠い昔の出来事を、まるで他人の赤字の収支報告書でも読み上げるように、感情を交えずに淡々と語り始めた。


「俺の親は、俺という存在を風景や家具と同じように扱う人間だったんだ。殴られもしないし、怒鳴られもしない。ただ、そこに見えないものとして扱われた」


前世のコンクリートジャングルでも、あそこまで息の詰まる空間はなかっただろう。

薄暗い台所。俺が何をしても、どんな成績を取っても、振り向かれない背中。

誰も俺に関心を持たない。空気のように透明な存在。


「あの『無関心』ってやつは、本当に最悪だ。誰にも見られていないと、自分が生きているのか死んでいるのか分からなくなる。息をするのも面倒になるし、何より――飯の味が、全くしなくなる」


俺はマグカップの茶を一口啜り、口角を上げて笑った。


「その点、俺に向けられる悪意や殺意ってのは素晴らしい。彼らは全神経を集中させて俺を見て、俺という存在を強烈に意識してくれている。……無関心は飯がまずくなる。憎悪はうまい。それだけの話だ」


俺はカラカラと笑いながら、もう一口、茶を飲み込んだ。

だが、その瞬間。


――ズゥゥン。

胃の底が、氷を飲み込んだように急激に冷え切る感覚があった。

あれ、おかしいな。さっき淹れたばかりの茶なのに、舌先が麻痺したように味が全くしない。

脳裏に、あの薄暗い台所の情景がフラッシュバックする。

雨音にかき消されて、世界から俺の存在が消えてしまったような錯覚。


「……今日は、気圧が悪いな。どうにも胃の調子がおかしい」


俺は軽口で自分を誤魔化し、マグカップを机に置いた。


ピノは、完全に引きつった顔で沈黙していた。

笑えない、とでも言いたげな痛々しい目。


ふと気配を感じて周囲を見渡すと、事務所の片隅で作業をしていた三人の動きも、完全に止まっていた。

斜め向かいの席で、フィオナの羽ペンが止まっている。

隣の部屋への扉の隙間で、ロッタが剣を磨く布を止めている。

応接ソファの端で、ノーチェが計算機を叩く指を止めている。


誰も、一言も発しない。

ただ、重苦しい沈黙だけが事務所を満たしている。


「なんだお前ら。俺の歪んだ性癖に引いたか? 遠慮せずにどんどん軽蔑して、罵倒してくれていいんだぞ」


俺が明るく振る舞ってみせても、彼女たちは誰一人として俺を責めなかった。

雨音だけが、やけにうるさく響いていた。



翌朝。

雨が上がった王都の広場に、一枚の真新しい布告が張り出されていた。


『慈愛審問庁による、優しさ憲章の改正について』


そこには、昨今の「配慮に欠ける通告」や「対象者の尊厳を傷つける不当な解雇」を重く見た審問庁が、辛辣な言葉による追放を法的に厳格化し、事実上の違法行為として取り締まるという内容が記されていた。


明らかに、俺の〈クビキリ堂〉を狙い撃ちにした法改正だ。

グラデルの奴、さっそく仕事をしやがったな。


「違法の嫌われ者、か。いよいよ肩書きが仕上がってきたな」


俺は広場の布告を見上げながら、久しぶりに腹の底から笑った。

昨日までの味のしない雨が嘘のように、極上のヘイトの匂いが王都に満ち始めている。


【本日のヘイト評――雨天休業。無関心の臭いが混じって不味い。★0.8】



昨日、雨の降る事務所でダンの過去を聞いた瞬間。

フィオナ、ロッタ、ノーチェの三人は、それぞれの胸の奥で、かつてないほど暗く、静かな炎が燃え上がるのを感じていた。


『彼を透明な存在として扱った、過去の愚かな人間たち。……許せません。彼を観測する権利は、私だけのものです』

フィオナはノートの端を強く握り潰した。


『あいつに、あんな空虚な顔をさせた世界を……私は騎士として、絶対に認めない』

ロッタは剣の柄を、血が滲むほど強く握りしめた。


『対象の過去における、致命的なエラー。……私が、彼側の数字になってその損失を補填します』

ノーチェは、手帳の『個人的関心』の文字を指先でそっと撫でた。


この男の欠落を、飢えを、埋められるのは自分しかいない。

三人の少女が抱いたその重すぎる感情は、もはや「敵意」や「監視」という言い訳では到底隠しきれない領域へと、静かに、だが確実に足を踏み入れていた。


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