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第18話 ヤンデレ魔術師の観察日記

バタンッ!


事務所の斜め向かいの席で、分厚い革張りのノートが乱暴に閉じられた。


「これで十冊目、完了しました」


フィオナが銀灰の髪を揺らし、達成感すら伺えない無表情で宣言した。

机の上に山積みにされているのは、すべて彼女が書き溜めた『ダンの観察記録』だ。


「おい、いくらなんでもペースがおかしくないか? お前がうちに来てから、まだ一ヶ月も経ってないぞ」


「当然です。対象の食事の咀嚼回数、睡眠時の呼吸ペース、通知時の罵倒語彙の傾向と頻度、さらには一分間の瞬きの回数まで網羅していますから。これでもまだ情報が足りないくらいです」


「……お前、俺の瞬きなんか数えてどうするつもりだ?」


「あなたを完全に解体し、私の管理下に置くためです」


相変わらず堂々としたストーカー宣言である。

俺の一挙手一投足に張り付き、異常なまでの労力を割いて敵意の記録を残そうとする執念。実に素晴らしい。俺は上機嫌で茶を啜った。


その時、事務所の扉が開き、涙目の女性冒険者が駆け込んできた。


「た、助けてください! どうか、うちのパーティーの支援術師を追い出して……!」


女性はそのまま俺のデスクにすがりつき、俺の手をぎゅっと握りしめてきた。

彼女は新進気鋭の女冒険者パーティーのリーダーらしい。


「落ち着いてください。その支援術師が、何か問題でも?」


「はい……。戦闘中は後方で適当なバフをかけるフリをしてサボり、危険な前衛の仕事はすべて私たちに押し付けてきます。そのくせ、報酬やドロップ品は『俺の支援がないとお前らは死んでいた』と言って一番多く持っていくんです……!」


なるほど、典型的な寄生型の小悪党だ。女だけのパーティーに男一人で入り込み、恩着せがましい態度で搾取しているわけだ。

俺が調査の承諾をしようとした、その時だった。


――ピキキキッ。


俺と女性冒険者が握り合っていた手のすぐ横で、インク壺の中身が一瞬にして凍りついた。

室温が急激に低下し、白い息が出るほど空気が冷え切っている。


「……接触時間、長すぎます。ただちに離れてください。私の観察対象に不純な変数を混ぜないで」


フィオナが絶対零度の紫紺の瞳で女性冒険者を睨みつけていた。

女性冒険者が「ひぃっ!」と悲鳴を上げて飛び退く。


(素晴らしい。俺に頼る依頼人への八つ当たり。順調にヘイトの魔力温度が下がっているな)


俺はフィオナの冷ややかな嫉妬を極上の敵意と誤読し、ニヤリと笑って依頼を引き受けた。



寄生支援術師の追放は、実に呆気ないものだった。

ギルドの酒場で対象を呼び出し、これまでのドロップ品の横領記録と、戦闘中の魔力消費ログ(ほとんど魔力を使っていなかった証拠)を叩きつける。


「な、なんだと!? 俺はいつか覚醒する男だぞ! 俺を理不尽に切ったら後悔するぞ!」


「君は支援術師ではない。女の背中に隠れて小銭を拾う寄生虫だ」


核心の一刺しでプライドをへし折り、「――以上の理由により、貴殿を追放する」と宣言。

逆上して殴りかかってきたところを、歩法で躱して足払いで床に沈める。

ついでに「安全な王都の中で、迷子の猫探しでも請け負っていれば怪我はしないぞ」と皮肉の活路を提示して一件落着だ。


問題が起きたのは、事務所への帰り道だった。


「なあ、フィオナ。あの時のあいつの逆ギレの顔、最高だったと思わないか?」

「…………」

「おい。聞いてるのか?」

「…………」


フィオナが、一言も喋らない。

事務所に戻っても、彼女は自分の席に座ったまま、ひたすらノートに無言でペンを走らせている。

俺が何度話しかけても、視線すら合わせてくれない。完全に俺という存在が透明になったかのような扱いだ。


――ズゥゥン。


三時間が経過した頃、俺の胃の底が鉛を飲み込んだように重く、冷たくなってきた。

前世の、誰からも名前を呼ばれなかった暗い台所の記憶がフラッシュバックする。

息が詰まる。口の中がカラカラに乾き、周囲の音が遠のいていく。


「……ぐっ、はぁ……」


俺は顔面を蒼白にしながら、自分のデスクに突っ伏した。


「ちょ、所長!? 顔色ヤバいですよ! 死にそうじゃないですか!」


書類仕事から顔を上げたピノが、慌てて駆け寄ってくる。

たまたま様子を見に来ていたノーチェも「バイタルサインが異常に低下しています。救急の手配を」と眼鏡を光らせ、ロッタが「おいダン、しっかりしろ! まさか毒でも盛られたのか!?」と俺の肩を揺さぶる。


「ち、違う……」


俺は震える手で机を掴み、真顔を作って言った。


「これは……フィオナによる、無言ヘイトの高等技術だ……。完全に俺の存在を無視することで、精神的に圧倒的な苦痛を……見事な敵意だ……最高、だな……」


「所長、それ普通に寂しがってません?」


ピノの冷ややかなツッコミが、静かな事務所に響き渡った。


「ば、馬鹿を言うな。素人がヘイトを語るな……。俺は、極上の憎悪を味わって……」


「いや、どう見ても『誰か構って』って顔してますよ。フィオナさん、ちょっとは喋ってあげてください。うちの所長、面倒くさいウサギみたいに死んじゃいますから」


ピノに呆れられた俺は、これ以上の追及から逃げるように、机に顔を埋めた。


【本日のヘイト評――無言の圧。空腹に似ている。なぜか胸が冷えた。★測定不能】



事務所の斜め向かいの席で、フィオナは静かに羽ペンを置いた。

彼女が今日試したのは、簡単な実験だ。女性依頼人との接触が不快だったため、試しに『半日だけ彼への音声フィードバックを絶つ』という行動をとってみたのだ。


結果は、予想を遥かに超えていた。

彼は顔面を蒼白にし、冷や汗を流し、本気で生命力を低下させていた。それなのに、必死にそれを「無言ヘイトの高等技術」などという滑稽な理屈で自分を正当化しようとしている。


(……この人は、感情の受け取り方が根本から壊れている)


無関心を、死ぬほど恐れている。

自分に関心を向けてもらうための手段として、憎まれることしか知らない不器用で哀れな子供。だから、私のこの抑えきれない好意も嫉妬も、すべて「殺意」や「敵意」という自分にとって安心できる形に変換してしまっているのだ。


『観察記録、十冊目追記。

対象は、ひどい寂しがり屋である。

彼に愛情というものを理解させるのは、私の生涯をかけた研究テーマになるだろう』


フィオナは、机に突っ伏して微かに震えるダンの背中を見つめながら、無表情の奥でほんの少しだけ、愛おしそうに目を細めた。


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