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そのまま。  作者: こまこま
2章
9/43

2-5


朝と昼の境目は、あいまいだった。

光は入っているのに、世界はまだ少しだけ遠い。


ピッ、ピッ。


その音だけが、ずっと現実に繋ぎ止めている。

詩はベッドの上にいる。


身体は動く。

でも、思った通りには動かない。


手を少し持ち上げてみる。


重い。

落ちる。

それだけで息が浅くなる。


「……詩」


横から声。

ゆっくり、視線がそちらに向く。


扉が開く音。

看護師の声。


「おはようございます、失礼しますね」


その瞬間。


空気が変わる。

詩の身体が、先に反応する。

意識より先に。


肩が強張る。


呼吸が浅くなる。


胸の奥が、ぎゅっと縮む。


「……っ」


声にならない。

視線が、そちらに向いた瞬間。

何かが“分かってしまう”。


女性の声。足音。気配。


頭では分かっている。


ここは病院で。

この人は看護師で。

何もする人じゃない。


それでも身体だけが拒否する。


息が、詰まる。

指が、勝手にシーツを掴む。

逃げる準備みたいな動き。


昂汰の声が聞こえる。


「大丈夫や」


その言葉で、少しだけ戻る。

でも完全には戻らない。


看護師が近づくたびに、

身体のどこかが“覚えている”。


あの日の光。


あの日の影。


あの日の痛み。



詩の視界に、人の手が入る。


女性の手。


心臓が跳ねる。


「っ……!」


息が止まる。


視界が一瞬だけ白くなる。


「うた…!」


昂汰の声。


その声で、ようやく“今”に戻る。


でも遅い。

身体の反応だけが先に走ってしまったあとだった。


看護師は一歩引く。


「すみません、少し外します」


その声は静かで、責めていない。


それでも詩の身体には届かない。


“優しさ”と“怖さ”は、まだ別の場所にある。


昂汰がそっと手を握る。


「大丈夫」


その手の温度だけが、現実の側に引き戻す。


震える指が、ゆっくりその手を探す。

掴む。

離さないように。



呼吸が少しずつ戻る。

でも、残る。

消えないものがある。


女性の声。


女性の気配。


それに対する、説明できない反射。



看護師が部屋を出ると、空気が少し軽くなる。


それでも詩はすぐには戻らない。


視線がまだ、ドアの方に残っている。


昂汰が小さく言う。


「怖かった?」


詩は答えない。

でも、指が少しだけ強く握り返す。

それが答えだった。


昂汰はそれ以上聞かない。

ただ、少しだけ手を撫でる。


「…そっか」




カーテンの向こうで、足音が止まる。


ピッ、ピッ。


その音は変わらないのに、人の気配だけが少し柔らかい。


ドアが開く。


入ってきたのは、新しい誰かじゃなくて

いつもの看護師だった。


詩が何度も見てきた顔。

名前も、声も、もう身体が覚えている人。


「詩ちゃん、おはよう」


その声に、詩の肩の力がわずかに抜ける。

すぐには安心しきれない。

でも、“知らない怖さ”はそこにない。


「びっくりさせちゃったね、ごめんね」


昂汰が小さく息を吐く。


「……変えてくれたんすか」


看護師は軽く頷く。


詩の指が、シーツの上で少し動く。

探るように。

でも逃げる動きじゃない。


昂汰はそれを見て、少しだけ笑う。


「よかったな」


詩の方に向けた言葉なのか、自分に向けた言葉なのか分からない。



看護師が少し距離を取る。


必要なことだけ、静かに行う。


声のトーンも、動きも、全部“詩の中に残る怖さ”を刺激しないように揃えられている。


詩は横になったまま、目を開けている。

さっきの出来事の余韻がまだ残っていて、呼吸は少し浅い。


そこへ、ドアが静かに開く。


入ってきたのは、詩の主治医。


最初からずっと診てきた医師。

声のトーンは変わらないのに、部屋の空気だけが少し締まる。


「おはよう、今朝はどうかな」


いつも通りのあいさつ。

いつも通りの診察。


「ちょっと苦しいね」

浅い呼吸

ぼんやりとした視線


昂汰が小さく息を吐く。


「女性の看護師さん、途中で怖がって……」


言い切れないまま、視線を落とす。


「うん、そうみたいだね」


また少し、詩の反応を観察する。


「それはね、悪い反応じゃなくてね」


昂汰の目がわずかに上がる。

医師は続ける。


「むしろ、回復の過程でよく見られる反応です」


詩の方を見る。


「“記憶の危険信号”に対して、身体がちゃんと反応しているということなので」


その言葉は、少しだけ丁寧に落ちていく。


昂汰は黙って聞いている。

医師は詩の指先の状態を見ながら続ける。


「たとえば、まったく反応がなかった時期よりも」


「怖がる・避ける・固まる」


そういう反応が出るのは、むしろ周りが見えてきたからだよね」


昂汰は詩の手を見たまま、小さく言う。


「さっき、崩れかけたんですけど」


医師は頷く。


「びっくりしたでしょ」


気遣うような笑顔。


「看護師さん、しばらくは知ってる人に来てもらおうね」


詩に話しかける。


その言葉で、昂汰の肩の力がわずかに抜ける。


医師の視線が昂汰に戻る。


「看護師に対しての反応はね、人を変えても、今後も波があります」


「問題はね、怖がることじゃなくて、

その後、落ち着けるかどうかなんだよね」


詩の指が、昂汰の手をほんの少し握る。

医師はそれを見て、少しだけ目を細める。


昂汰が小さく頷く。

医師は続ける。


「でも、この波は“誰かが危険じゃないと学び直す機会”になります」


「だから、今はゆっくりね」


詩の呼吸が、少し落ち着いてきた。


「また見に来ますね」


それだけ言って、病室を出ていく。



ドアが閉まると、また静けさ。


ピッ、ピッ。


昂汰は詩の手を握ったまま、少しだけ笑う。


「怖がったの、悪いことちゃうんやって」


詩は答えない。


でも、指先が少しだけ動く。


離れないまま。


昂汰はその手を軽く握り直す。


「戻る途中やってさ」


「ゆっくりでええらしい」


詩のまぶたが、ほんの少しだけ揺れる。


それだけで、部屋の空気が少し軽くなる。


ピッ、ピッ。


音は変わらないのに、


さっきより“戻ってきていい場所”みたいに聞こえていた。





ピッ、ピッ。


規則正しい音が、今日は少しだけ遠く感じる。


詩の目は開いている。

でも、焦点が合うまでに時間がかかる。


ベッドのそばに立つのは、いつもの看護師。


柔らかい声。


「詩ちゃん、おはようございます」


その瞬間。


詩の呼吸が、止まる。

肩が跳ねる。

手がシーツを強く掴む。


昂汰がすぐに気づく。


「え…詩」


握る手に力を入れる。


でも詩の視線は、看護師の白いユニフォームから離れない。


“女性”。


その認識が、先に立つ。

「バイタルだけさせてね」


その声も、もう届いていない。


詩の喉が鳴る。

息が浅くなる。

視界が狭くなる。


ピッ、ピッ。


モニターの音だけが、やけに大きい。


昂汰が詩の肩に手を置く。


「大丈夫や」


その声で、少しだけ揺れる。

でも崩れは止まらない。

詩の指がシーツを強く掴む。


逃げたいのに逃げられないまま、

身体だけが固まっていく。


看護師はそれ以上近づかない。


様子を観察しながら、

一歩、二歩、距離を取る。


「うん、今はやめておこうか。また後でくるね」


その言葉が落ちた瞬間。


詩の目から、涙が一気に溢れる。


音もない。

ただ、止まらなくなる。


昂汰が息を飲む。


「詩……」


手を握る力を強める。

詩の身体が小さく震える。

“またあの感じになる”直前の、崩れ方。


「一度出ます」

看護師はすぐに退出する。


ドアが閉まる音。

その瞬間、空気が変わる。


ピッ、ピッ。


一定のリズムだけが戻る。


昂汰は詩の涙を拭いながら低く言う。


「終わった、もう終わった」


呼吸はまだ乱れている。

視線は宙を泳いでいる。


でも、昂汰の声だけは少しずつ届き始めている。


「うた、ここや」

「見て」


教えてもらった通り

できるだけ、ゆっくり。


視線を外さない。

手を離さない。


詩の視線が少し動く。


昂汰の顔に焦点が合うまで、時間がかかる。


それでも——合う。


その瞬間、詩の指が、ほんの少しだけ昂汰の手を握り返す。


弱い。


でも、離れない力。


昂汰の肩から力が抜ける。


「……息、できる?ゆっくりな」


詩はまだ泣いている。


でも崩れたままではない。


呼吸が、少しずつ整っていく。


看護師がいなくなった空間で、

“怖さの余韻”だけが残る。


それでも詩は、昂汰の手を握ったまま離さない。


ピッ、ピッ。


音が、少しだけ優しく聞こえる。



“うた、ここや”


低い声。

さっきも聞いた声。


“知ってる”


その感覚だけが、わずかに残る。


息がうまくできないまま、

詩の意識は揺れる。


“見て”


優しい声。

でも背中を押す声。


怖い。

でも——


指先に、触れている

離れていない手。


冷え切った手が

その部分だけ

“あったかい”


そう、気づいた


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