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そのまま。  作者: こまこま
2章
10/44

2-6

ピッ、ピッ。


静かな部屋に、その音だけが一定に流れている。


詩はベッドの上で、少しだけ目を開けている。

昨日より意識ははっきりしているはずなのに——どこかで“違和感”が残っている。


昂汰がいつものように手を握る。


「詩、おはよう」


詩のまぶたがゆっくり動く。


口も、少し動く。


「……」


音が、出ない。


昂汰は最初、それを“寝起きの掠れ”だと思う。


「喉、乾いてるんか?」


詩は小さく首を振る。

もう一度、口が動く。

でもやっぱり——声にならない。


その瞬間。

昂汰の表情が止まる。


「……詩?」


詩はもう一度試す。


「……っ」


空気だけが抜ける。


声帯が働いていないわけじゃない。

“出そうとしているのに、出ない”。


昂汰の指先が少し強くなる。


「ちょ、待って」


看護師を呼ぼうとする前に、ドアが開く。

いつもの看護師が入ってくる。


「おはようございます」


詩はそちらを見る。

反射的に、肩が少しだけ強張る。


でも今日はそれより先に——


また、口が動く。

音は出ない。


看護師はすぐに違和感に気づく。


「……声、出てないですね」


その一言で、部屋の空気が少し変わる。


昂汰がすぐに詰める。


「さっきから、何回か喋ろうとしてるんですけど」


看護師はゆっくり近づく。

無理に距離を詰めない。


「詩ちゃん、今、声出そうとすると苦しい?」


詩は小さく頷こうとして、止まる。

代わりに、目が揺れる。

“違う、でも違うとも言えない”


看護師は少しだけ間を置く。


「声出ないの、いつからですか?今朝?」


昂汰がすぐに反応する。

「それは——」


いつ?

そういえば詩の声、最後にいつ聞いた?


「…まだ聞いてない…?」

慌てて顔をあげて看護師と目を合わせる


「…でも、今朝は声を出そうとしてたんですね」


詩の指が、シーツを少しだけ握る。

看護師はそれを見て、少し声を柔らかくする。


「詩ちゃん、あとで先生に診てもらおうね」


昂汰は詩の顔を見る。


詩は何か言おうとしている。

でも、やっぱり出ない。

その“焦り”だけが先に伝わってくる。


看護師が一歩下がる。


「今は、無理に出そうとしなくて大丈夫です」


詩のまぶたが少しだけ揺れる。


理解しているのか、安心しているのかは分からない。


看護師が出ていったあと。


昂汰はしばらく黙る。

詩の手を握ったまま、視線を落とす。


「…詩、気づいとったん?」

指が手の甲をさする

「もしかして、教えてくれようと…?」



主治医が回診に来る。

いつもより短い足音。


昂汰はすぐに状況を伝える。


「先生、声が…」

“気づいてなくて”


医師は昂汰を一度見てから頷く。

「ちょっと診せてくれる?」


詩と向かい合い、慎重に診察を終える。


「声帯そのものというより、“出す動作の一時的停止”ですね」


「戻りますか」


医師は少しだけ間を置いてから言う。


「多くの場合は戻ります」


その“多くの場合”に、昂汰は少しだけ反応する。


医師は続ける。


「ただ、焦らせないことが大事です」

「声を出さなきゃ、という圧が一番戻りを遅くします」


詩の方を見る。

詩は静かに聞いている。

“喋れないことを理解している目”をしている。


医師は最後に一言だけ添える。


「今は、ちゃんと反応できているので問題ありません」





詩が眠っているのを確認して、

昂汰は静かに手を離す。


少しだけ迷ってから、

立ち上がる。


ドアを開ける。


閉まる音が、

やけに重い。


廊下に出た瞬間、


力が抜ける。


そのまま、

壁に背中を預ける。


「……はぁ」


息が、深く吐けない。


頭の中が、

うまく回らない。


“気づかなかった”


その一言だけが、

何度も繰り返される。


ソファまで歩く。


座るというより、

落ちる。


手で顔を覆う。

「……俺、何やってんねん」


手のひらを見る。


さっきまで、詩の手を握っていた感触が残っている。


ずっと、ここにいたのに。

毎日、見てたのに。


「……なんでや」


小さく漏れる。


声は出てたはずやのに。

出そうとしてたはずやのに。


それを——


見逃した。


「……気づけよ」


自分に向けた声。


強く言ったつもりなのに、全然響かない。


守るって、なんや。

そばにおるって、なんや。

そんなことばっかり言うて——

一番大事なとこ、抜けてるやん。


喉の奥が詰まる。


でも、泣くほどの余裕もない。

ただ、重たいものだけが残る。


顔を覆う。


「……あかん」


低く吐き出す。

このまま戻ったら、顔に出る。

詩に見せる顔じゃない。


分かってる。


でも——


立てない。



戻れるんだろうか…


湧き上がる不安を払いのけるように

背中を預けて天を仰ぐ


目を閉じれば

当たり前だと思っていた

普通の毎日が浮かんでくる


——「おはよう」


——「ただいま」


何でもない声。


何でもない会話。


それが、こんなに遠い。



「……あかん」


小さく首を振る。


今は、

考えたらあかん。

——あいつの前では。


ここで崩れたら、

戻れなくなる気がした。


深く息を吸う。


うまく入らない。


もう一度。


無理やり整える。


顔を上げる。


視界の端に、

病室のドアが見える。


あの向こうに、

詩がおる。


さっきの顔が浮かぶ。


声にならないまま、

何かを伝えようとしていた顔。


深く息を吸う。


吐く。


もう一度。


顔を上げる。


「……よし」


誰に言うでもなく、小さく。


完全には戻ってない。


でも、それでいい。


立ち上がる。


扉に手をかける前に、一瞬だけ止まる。


それから、


何事もなかったみたいな顔を作って、


中に入る。








ベッドの上、詩がぼんやりと天井を見つめている。


「うた」

ごめん、起きとったか


額にかかった前髪を避けてやる


自分は今、

ちゃんとしてるだろうか

見逃してないだろうか



昂汰が枕に手を伸ばす。


「ちょっと高いか?」


返事はない。


でも、そのまま少しだけ枕を持ち上げる。


位置を直す。


「これでええやろ」


満足そうに頷く。


その瞬間。


詩のまぶたが、わずかに寄る。


ほんの少しだけ。


でも明確に。


「……え、違う?」


昂汰が止まる。


詩は動けない。

声も出ない。


でも——


その顔だけが、“違う”って言ってる。


「うそやん」


もう一回、枕を直す。

さっきより少し低く。


「これ」


様子を見る。

詩のまぶたが、ほんの少しだけ緩む。


「……合ってる?」


今度は、ほんのわずかに頷く。

昂汰が息を吐く。


「むず……」


小さく笑う。


「要求高ない?」


詩の指が、少しだけ動く。


抗議みたいに。


「え、今の絶対文句やろ」


ちょっと笑う。


詩のまぶたが、ほんの少しだけ細くなる。


さっきより柔らかい顔で。



昂汰はそれを見て、少しだけ笑う。


「はいはい」


それだけ言って、

もう一度だけ枕を直す。

今度は迷わない。


「どうや」


その調子に詩の表情が崩れる


“ありがとう”


「ん…」


その顔を見て——


さっきまで、自分が何を考えていたのか、

一瞬だけ分からなくなる。


胸の奥にあった重たいものが、

少しだけ、ほどける。


「……なんや、それ」


小さく笑う。


気づかないまま、

いつもの距離で、

いつもの調子で、


もう一度、手を握り直していた。







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