2-7
ピッ、ピッ。
静かな部屋に、その音だけが一定に流れている。
詩はベッドの上にいる。
いつの間にか、背中を起こしたまま過ごす時間が増えていた。
最初は「特別なこと」だったはずなのに、
今はそれが当たり前みたいにそこにある。
視界が少し上がるだけで、
世界の輪郭が変わる気がした。
それでも——
その変化を、うまく“良いこと”として受け取れないまま、時間だけが進んでいく。
窓から入る光も、いつもより近い。
それなのに——
詩の中には、説明のつかない揺れが残っていた。
ブン、という音がする。
乾いた空気を裂くような、いつもの音。
知っている音だった。
でも、それを「知っている」と思うまでに、少し時間がかかった。
離れていく温もり。
微かに揺れる布団と、遠ざかる足音。
そして、響き始める音。
懐かしくて、嬉しくて。
なのに、
なぜか胸が苦しくて
布団の中に潜りこんだ
「おはよう」
変わらない朝
いつもと同じ笑顔
ただ、
「詩…?どうしたん」
覗き込むその瞳に映る自分は
ひどく不安気に見えた
声が、聞こえた気がした
ユニフォーム姿。
グラウンドを走る姿。
真剣な瞳。
——全部が、急に押し寄せてくる。
泥だらけで
汗まみれで
誰よりも輝いてる
あの場所は
確かに
あなたのものだった
次々と蘇る光景に
呼吸が浅くなる
遠のく意識の中
誰かが走り込んでくるのが見えた
ぼんやりと戻ってきた光の中
心配そうに覗き込む顔が見える
「詩、わかるか?」
確かめるように頬に手を当てるのは
彼の癖だ
…わかってる。
いつか。
この手を離さなくては
でも今は。
あと少し
少しだけでいいから…
そっと目を閉じて、まだここにある温もりを感じた。
昼下がりの病室。
窓から入る光がやわらかくて、
その光の先、
いつもよりほんの少し背中が上がったベッド。
「リハビリ終わった?」
その声に、詩は小さく頷く。
まだ声は出ないけど、
それでも“通じてる”気がしていた。
「ん、おつかれ」
いつも通りの優しさ。
「おやつ来てるで」
食べる?
…うん
躊躇いながら頷く様子に笑顔が返ってくる
手術の跡が引き攣る
庇おうと出す反対の手はまだギブスのままだ。
痛みで歪む顔と心が
「あーん、してやろか?」
揶揄うようなトーンに、引き上げられる
軽く睨みつけて再び伸ばされる腕に
「すごいやん」
すぐ近くで笑う声。
嬉しそうで、
誇らしそうで。
一緒に笑顔になりかけた、
——その瞬間。
ぐらり、と視界が揺れる。
近い。
近すぎる。
「うた、どうした」
逃げられない距離。
「息、できるか」
包み込まれるみたいなその体勢。
頭の奥で、何かが弾ける。
——怖い
理由なんてない。
わかってる。
この人は違う。
絶対に違う。
なのに
身体が、拒否する。
「……っ」
息が詰まる。
手が震える。
視界が一気に狭くなる。
「詩?」
その声が、さらに近づく。
——やめて
言えない。
でも、
次の瞬間。
詩の手が、思いきり昂汰を押した。
「……っ!?」
ガチャン、と音が落ちて時間が動く。
呼吸が荒い。
涙が勝手に溢れてくる。
「……詩、大丈夫か」
すぐに近づこうとする足音。
その気配に
びく、と肩が跳ねる。
声は、出ていない。
でも
確かに届いた。
昂汰の足が、止まる。
空気が止まる。
詩は顔を上げられないまま、
ただ震えている。
なんで
なんでこの人に
自分でも分からないのに
止められなかった。
「……ごめ、」
声にはならない
空気だけが抜けていく
謝りたいのに
うまく言えない。
沈黙。
そのあとで、ようやく
昂汰が、小さく息を吐いた。
「……うん」
それだけだった。
責めるでもなく、
近づくでもなく。
落ちた食器達を片付け始めた。
「ごめんな…」
静かな声。
その言葉で
詩の呼吸が、余計に乱れる。
違う
違うのに
違うのに…!
何も言えない
ただ、涙だけが落ちていく。
立ち上がる彼が、片付けにいくだけだとわかるのに
このまま離れていきそうで
やだ…行かないで
縋るように必死に伸ばした腕が
届いたのかわからないまま
そこで途切れた
ブンッ
空気を切り裂くような音に意識が引き戻された
汗でへばりついた髪と息苦しさが、嫌な夢を思い出させる。
どうしてだろう
広げた手のひらをかざしながら
昼間の光景を思い出す
この手が。
大好きな人を突き飛ばして
あんな顔、させた
コントロールを失った身体は、いつも自分のものじゃない。
だけど
彼にだけは
その刃は向かないと…
「…はぁ」
傷、つけたよね
ブンッ ブンッ ブンッ
かなりスピードのあるそれは。
なんだかとても遠く聞こえた。
「うた、朝やで」
夢と現実を行ったり来たりしながら
ゆっくりと覚醒していく
眠れたんだっけ
夜中、確かめに来た彼に気付かれないようにやり過ごして
「今日はしんどいな」
もう少し寝るか?
いつも通り頬を撫ぜる大きな手
その温もりに安心して
また、目を閉じた
やっぱり眠れなかったか…
穏やかな寝顔に小さく息を吐く
思いがけない反応に傷ついてたのはむしろ詩の方で。
今日はリハビリも中止にしようと言う医師の言葉に頷いた。
「大丈夫ですか?」
かけられる言葉に首を傾げる
大丈夫、ってなんだろう
まだ行けますか?って事か?
「どうですかね…」
出てきた言葉に
自分もダメージを受けていたんだと苦笑いする
「怖いっすね…正直」
ひとつでも
間違えたら
もうこの手に戻ってこないんじゃないかって
「意外と強いものですよ」
メガネの奥、柔らかな曲線が描かれる
「簡単には折れません」
人生の大半を診てきたその人の言葉は、
知らない彼女の歴史そのものだった。
そしてそのしなやかな強さを
「ですね」
信じたい、そう思わせてくれた
「うた、ほら」
差し出された大きな手に
意図が分からなくて顔を上げる
「触ってもいいで」
今日は大サービスや
そう言った指が促すようにパタパタと動かされる
どうしたらいいか分からなくて
身動きの取れないわたしを
黙って見守っている
触れたくて
なのに
あの光景が焼きついて
怖くて
「うた」
穏やかな声に顔を上げると
頬杖をついた彼が目の前で手を振った
「これは」
知ってる手ぇや
「怖くてもええ」
けど
そう言っていつものように伸びてきた手にビクッと反応する
一旦ためらうかのように動きを止めた
それが
頬を包んだ時
「その顔」
ぽつりと落ちた声は、どこか掠れていた。
「……俺のこと、大好きって顔」
からかうでもなく、
ただ確かめるみたいに。
指先が、頬をなぞる。
「気ぃ抜いたとき、ようその顔すんねん」
逃がさないように、
でも壊さないように。
ほんの少しだけ、力がこもる。
「俺しか知らん顔」
小さく、笑う気配。
「……やから、触ってまう」
ボタ、ボタ、と溢れる涙を拭いもせず、
詩の指が、彼の、シャツの袖を掴んだのは
きっと無意識で。
その指に、わずかに力が込もる
うつむいて、嗚咽を堪えながら
離そうとして、
でも離せなくて。
そのまま、布越しに体温を確かめるみたいに掴んだ。
それに気づいたのは、昂汰の方が先だった。
「……うた」
呼ぶ声が、いつもより低い。
逃がさないように、その手の上から自分の手を重ねる。
ハッと気づいて抜け出そうと力が込もる
「自分で掴んどいて、離すん?」
軽く笑う気配。
でも、そのまま指はほどかない。
むしろ、ゆっくり絡め取る。
「ほら」
視線を合わせるように、顔を近づける。
「またその顔や」
一瞬、間。
詩が何か言おうとして、言葉にならない。
その隙を埋めるみたいに、
親指が頬に触れる。
「気ぃ抜いたら、すぐこれ」
逃げ場なんて、最初から用意されてない距離。
「……そんな顔、他で見せんなよ」
さっきまでの柔らかさとは違う、
少しだけ、重たい声。
指先が、離れない。
「俺の前だけでええ」
息が触れるくらい近くで、
ふっと笑う。
「……俺のもんや」
夜は、静かだった。
昼間みたいに誰かが来ることもなくて、
機械の音だけが、一定のリズムで響いている。
目を閉じても、
消えてくれない。
あの距離。
あの声。
あの指先。
——俺のもんや
胸の奥が、ぎゅっとなる。
怖かったはずなのに。
息が詰まったはずなのに。
どうしてか、
嫌じゃなかった。
むしろ、
離れていく方が、
怖かった。
「……っ」
自分の考えに、
息が引っかかる。
違う。
違うのに。
あんなこと、
思っちゃだめなのに。
布団の中で、
ぎゅっと手を握る。
昼間、
掴んだまま離せなかった感触が、
まだ残っている気がして。
「……ごめん」
声にはならない。
あの人を、
突き飛ばしたのも。
怖がったのも。
縋ったのも。
全部、自分なのに。
“……わかんない”
好き、なのに。
怖い、のに。
離れたくない、のに。
ぐちゃぐちゃだ。
整理なんて、できるわけがない。
——でも
ゆっくりと、
目を閉じる。
さっきの声を、
思い出す。
優しかった声と、
少しだけ、強くて、
逃がさないみたいな声。
胸が、また締め付けられる。
「……ごめんね」
小さく、
本当に小さく、
声にならない声で呟いて。
布団の中で、
そっと丸くなった。
どこかで
あの温もりを探していた。




