2-8
扉が、静かに開いた。
ほとんど音はしないのに、
それでも分かる。
来た。
規則的な足音。
止まる位置も、もう覚えてしまっている。
——ここ。
ベッドの横。
詩は、目を閉じたまま動かない。
呼吸だけを、必死に整える。
起きてるって、ばれないように。
「……寝てるか」
小さく落ちる声。
昼間と同じ声なのに、
どこか力が抜けている。
ベッドの脇で、
衣擦れの音がする。
座った、気配。
少しだけ、
間。
「……ごめんな」
ささやくみたいな声。
その一言に、
胸の奥が、強く跳ねる。
違う。
謝るのは、わたしなのに。
でも、
動けない。
動いたら、
全部こぼれそうで。
そっと、
何かが触れる。
驚くくらい、
やさしい指先が、
髪を避けて、
額に触れた。
びく、と反応しかけて、
慌てて抑える。
「……起きとるやろ」
不意に落ちた声に、
呼吸が止まる。
ばれてる。
でも、目は開けられない。
「その顔で寝れるわけないやん」
くす、と小さく笑う気配。
責めるでもなく、
ただ、分かってるみたいに。
それでも、
何も言えないままの詩に、
小さく、息を吐く音。
「……ええよ」
ぽつりと落ちる。
「無理せんで」
そのまま、
今度は、少しだけ距離が近づく。
「怖いんも、わかっとる」
低くて、
でもやわらかい声。
昼間みたいな強さじゃなくて、
ちゃんと、抑えてる声。
「けど」
一瞬、間。
「……逃げんといて」
その言葉だけが、
静かに、残る。
触れていた手が、
ゆっくり離れていく。
本当は、
引き止めたかった。
でも、
動けなかった。
扉が閉まる音がして、
完全にひとりになってから、
ようやく、
息がこぼれる。
「……っ」
ぎゅっと、シーツを掴む。
——逃げんといて
その言葉が、
何度も、何度も繰り返される。
怖いのに。
なのに、
離れたくないって、
思ってしまう自分がいる。
扉が閉まってから、
どれくらい経ったのか分からない。
——逃げんといて
その言葉が、
ずっと残っている。
胸が、落ち着かない。
でも、
行けない。
身体は、思うように動かない。
布団の上で、
指だけが、何度も動く。
伸ばして、
止まって、
また、握り込む。
来るかもしれない。
来ないかもしれない。
それだけで、
こんなにも息が苦しくなるなんて思わなかった。
「おはよう」
朝は変わらずにやってくる
いつも通りの声が続く
「タオル、もらってきた」
顔拭こか
「起こすで」
背中に回る手。
その瞬間、
びく、と揺れる身体。
「……ごめん」
反射みたいに緩む腕。
でも——
離れない。
ほんの一瞬だけ迷って、
そのまま、引き寄せた。
「っ、」
近い。
思っていたより、ずっと。
呼吸が触れそうな距離。
「大丈夫や」
低く落ちる声。
どこか、逃がさない響き。
詩の肩が、
わずかに強張る。
それに気づいて、
ほんのわずかに、腕の力が緩む。
「うた、息、して。ゆっくり」
昂汰の手が、ゆっくりと上下に動く
どうしていいか分からない
「……無理やったな」
苦笑みたいな声。
その手がゆっくり緩む。
でも、完全には離れない。
ほんの一瞬だけ、
その距離を残したまま——
指先が、頬に触れる。
離れる理由を探すみたいに、ほんの一瞬だけ止まる。
「ほんま、すぐその顔すんな」
小さく、息がこぼれる。
それが笑いなのか、
何なのか分からないまま。
次の瞬間、
すっと離れる。
何事もなかったみたいに。
「ほな、ベッド起こそうか」
いつも通りの声。
でも、
指先だけが、残っていた。
……違う。
残していたのは、自分の方で。
気づいたときには、
シャツの端を、掴んでいた。
「……うた」
低く落ちる声。
その一言で、
はっとして、力を抜こうとする。
でも——
抜けない。
指が、言うことをきかない。
「離すん?」
昨日と同じ言葉。
でも今度は、
少しだけ温度が違う。
昂汰の手が、
その上から、重なる。
逃がさないみたいに。
「……ほんまに?」
試すような声。
一瞬だけ、
間。
俯いたまま首が横に振られる
それを合図にするかのように
ゆっくりと、引き寄せられた。
——離すなよ
掴まれたシャツの感触が、
やけに、熱い。
自分から触れたときは、
あんなに気をつけてたのに。
——なんでやねん
喉の奥で、苦く笑う。
腕に、思ったより力が入っていることに気づいて、
一瞬だけ、躊躇う。
離した方がいい。
分かってる。
怖がらせる。
——でも
指に絡みつくみたいに、
離れようとしないその感触に、
もう一回だけ、と
自分に言い訳する。
「……ごめん」
落ちてきたこの温もりを、
ただ、手放したくなかった。
「……離すなよ」
かすれた声。
いつもみたいな余裕が、ない。
いつもと、何かが違う。
落ちてくる温もりが、
少しだけ強い。
逃がさないみたいに、
絡め取るみたいに。
一瞬だけ、
息が詰まる。
でも
怖いのに、動けなかった
離せなかった
「しんどいよな」
なにかを振り切るように、
大きく息を吐いた彼が、少しだけ距離をとって顔を覗き込む。
「ご褒美タイムやったわ」
いつも通りの軽さ。
冗談みたいな言い方。
なのに。
視線を外した一瞬で、
それが少しだけ崩れた。
目元。
一瞬だけ光ったもの。
次の瞬間、
それが“落ちた”。
ほんの一滴。
遅れて気づく。
胸が、変なふうに止まる。
さっきまでの言葉が、
全部裏返るみたいに。
息が浅くなる。
守る側みたいな顔で、
いつも前に立ってたこの人が。
一番、怖がってる。
この人にとって、私は“失いたくないもの”なんだと思ったら、
その事実だけが、
身体の奥に落ちてくる。
手が、勝手に動いた。
伸ばした指の先
くすぐったそうに
首をすくめながら
されるがままに目元を拭われている
その姿に…
切なくて
苦しくて
なにより
愛おしくて
痛みも、傷も、全部抜けて
その頭を抱え込んだ
「逆やろ…」
しばらく固まっていた彼が
我に返ったようにあげた声は
震えていて
私たちはそのまましばらく動けなかった
「詩」
ポンポンと叩かれる背中に
イヤイヤと頭を振って応える
「…うーたー」
身を捩って抜け出した彼が
「痛かったやろ」
そう言って
お腹の傷も
ギブスが嵌められた
腕も
足も
全身をチェックしている間
されるがままでいる
なんだか心地よくて
「大丈夫か?痛いとこ…」
顔を上げた彼が
一瞬目を見開いて
嬉しそうに笑う
薄くなってきた顔の傷跡を
労わるようになぞりながら
だんだんと近づいてくる
その距離に
大きな両手が頬を包んで
愛おしそうに目を細めたのを
見ながら
懐かしい感触を期待して
そっと目を閉じた
——今度は、
逃げなかった。




