2-3
カーテンの向こうは、
相変わらず機械の音だけが続いていた。
ピッ、ピッ。
規則正しいリズム。
それが逆に、
何も変わっていないように錯覚させる。
でも、さっきとは違う。
詩の反応はもう、ない。
指も動かない。
まぶたも揺れない。
ただ、そこに“いるだけ”。
その状態を見つめたまま、
時間だけが少しずつ削れていく。
どれくらい座っていたのか分からない。
ドアが開く音で、
やっと現実に引き戻される。
白衣。
医師だった。
一瞬だけ、背筋が固まる。
「少し、お話よろしいですか」
その言葉で、
何を言われるかは分かっていた。
でも、分かってるのに動けない。
椅子から立ち上がるのが、
やけに重い。
「……はい」
病室の外。
廊下の端。
人の気配はあるのに、
そこだけ音が薄い。
医師は少しだけ言葉を選ぶように間を置いたあと、
ゆっくり口を開いた。
「現在、意識レベルはかなり低い状態です」
その一言で、
すでに呼吸が浅くなる。
「脳への明確な損傷は今のところ確認されていませんが」
“今のところ”。
その言葉だけが引っかかる。
「ただ、強いストレス反応と外傷の影響で、
深い鎮静状態に近い状態が続いています」
理解はできる。
でも、意味として落ちてこない。
「……戻りますよね」
気づいたら聞いていた。
医師は一瞬だけ視線を落とす。
その沈黙がすべてやった。
「予測は、難しいです」
その言葉で終わる。
終わり方だけがはっきりしている。
「……難しいって」
声が少しだけ掠れる。
「戻る可能性、あるんですよね?」
もう一度聞く。
医師はすぐには答えない。
その間が、
一番しんどい。
「可能性、という意味では否定はできません」
でも、と続くのが分かる。
「ただ、今の状態は“回復を待つ”というよりも、
“維持できていること自体が非常に繊細”な状態です」
その瞬間、
頭の中の何かが音を立ててずれる。
維持。
回復じゃない。
維持。
それはつまり、
戻ること前提じゃないということや。
「……そう、ですか」
声が自分のものじゃないみたいに遠い。
医師は少しだけ間を置いて続ける。
「今後、呼びかけや刺激に対しても、
反応が戻る保証はありません」
保証。
その言葉がやけに冷たい。
「ただ、完全に閉じているわけではないので、
微細な変化は観察していきます」
微細。
その言葉も、もう届かない。
説明は終わっているはずなのに、
頭の中だけが遅れて追いついてくる。
“戻らないかもしれない状態”
それを今、
静かに渡された。
「……分かりました」
そう言うしかなかった。
分かったわけじゃないのに。
廊下に立ったまま、
しばらく動けない。
病室に戻る足が、
異様に重い。
扉の前で一度止まる。
中に入れば、
また同じ光景がある。
ピッ、ピッ。
変わらない音。
変わらない身体。
でもさっきと違うのは、
それが“未来ではないかもしれない”ってことや。
ゆっくり扉を開ける。
白い光。
ベッド。
詩。
全部、同じ。
でも全部が違って見える。
椅子に座る。
手を握る。
反応はない。
「……なぁ」
声が出る。
「戻るかもしれへんって言うてたけどな」
返事はない。
当たり前やのに、
それがやけに刺さる。
「でも、保証はないってさ」
少し笑う。
笑えてない。
「なんやねんそれ」
握った手に少し力を込める。
「なぁ、詩」
声が震える。
「ちゃんと、帰ってくるって言えや」
返事はない。
ただ、ピッ、ピッという音だけが続く。
そのリズムが、
さっきよりも冷たく聞こえる。
医師の言葉が、
頭の中で何度も繰り返される。
維持。
保証はない。
戻るとは限らない。
「……はは」
息が漏れる。
「そんなわけないやろ…」
そう言った瞬間、
胸の奥がきゅっと締まる。
手を握ったまま、
しばらく動けない。
詩はそこにいる。
でも“帰ってくる詩”がいるかどうかは分からない。
その境目だけが、
はっきりしていく。
ピッ、ピッ。
音だけが、
静かに続いていた。
病室のドアが静かに開く。
入ってきたのは看護師じゃない。
スーツの男が二人。
「○○署の者です」
低い声。
その一言で空気が変わる。
「犯人は身柄を確保しています」
「動機は、妄想的執着によるものと見られています」
それだけだった。
「……分かりました」
そう言うしかない。
警察は一礼して出ていく。
扉が閉まる。
音がやけに大きい。
残された部屋に、
またピッ、ピッの音だけが戻る。
昂汰はしばらく動かない。
ただ見ている。
詩の顔を。
小さく笑う。
笑えてない。
「頑張ってるもんな」
声が震える。
その瞬間。
詩の指が、
ほんの少しだけ動く。
さっきよりはっきり。
でも弱い。
それでも確かに。
昂汰の目が見開く。
「……詩?」
呼ぶ。
今度はさっきより静かに。
壊さないように。
詩のまぶたが、
ほんのわずかに動く。
開きかけて——
止まる。
でもそこには確かに“戻ろうとする意志”があった。
昂汰は息を止める。
「……うた」
小さく呟く。
「マジで聞こえとるやん」
震えながら笑う。
「ありがとう」
「ゆっくりでええからな」
その声だけが、
やけに優しく響いた。
病室の隅に置かれたテレビは、消されていなかった。
音は小さいまま流れ続けている。
画面の中では、また同じニュースが繰り返されていた。
《人気プロ野球選手の妻 白昼に刺される》
その文字を見るたびに、胸の奥がざわつく。
もう十分やろ、と思っても、世間は止まらない。
「結婚生活との関係は——」
「ファンとの距離感が——」
切り取られた言葉だけが、勝手に形を作っていく。
昂汰はリモコンに手を伸ばしたまま、止まっていた。
消せばいいだけやのに、指が動かない。
そのときだった。
画面が切り替わる。
ニュースの流れの途中で、別の映像が挟まる。
《過去の映像です》
球場の外。
明るい日差し。
その中に、自分がいた。
ユニフォーム姿の昂汰。
その横で笑っている詩。
白衣じゃない。
栄養士の服でもない。
ただ、普通にそこにいる詩。
弁当のような小さな袋を持って、
少し困ったように笑っている。
「これ、ちゃんと食べてくださいね」
そんな声が聞こえた気がした。
昂汰の方は、少し照れくさそうに笑っている。
今の自分からは想像できないくらい、軽い顔やった。
画面が次の瞬間、別のカットに変わる。
食事指導の現場らしい場所。
白衣の詩。
真剣な顔。
でも時々、こっちを見て、少しだけ表情が緩む。
その“緩み方”が、やけに自然やった。
誰かのために頑張る顔でもない。
仕事としての顔でもない。
ただそこにいる、という感じや。
画面の中のナレーションが続く。
《当時、チームを支える栄養管理スタッフとして——》
その言葉が遠くなる。
画面の中の詩は、ただ普通にそこにいた。
昂汰の隣に。
それだけやった。
「……そっか」
声が漏れる。
誰にも向けてない。
リモコンを持つ手の力が抜ける。
テレビの音はまだ流れているのに、もうどうでもよくなっている。
画面の中の自分が笑っている。
その隣で、詩も笑っている。
それだけでよかったやん。
喉の奥が詰まる。
医師の言葉が頭をよぎる。
“戻る保証はありません”
でも、その言葉より先に、別の記憶が浮かぶ。
そばにおるだけでよかった日々。
何も起きてなかった日々。
特別じゃなかった時間。
それが一番特別やった。
昂汰はリモコンを握り直す。
ゆっくり、テレビを消す。
画面が暗くなる。
ピッ、という小さな音。
その瞬間、病室の音だけが戻る。
ピッ、ピッ。
機械の音。
詩の呼吸。
それだけ。
昂汰は詩の手を見つめる。
動かない。
さっきまでの不安は残ってる。
でも、少し違う。
「……そっか」
もう一度だけ、小さく言う。
「元々、これやったな」
詩が戻るかどうかじゃない。
今ここにいるこの手も、
あの時と地続きや。
昂汰はそっと手を握り直す。
今度は強くない。
離れないくらいの力だけ。
「詩」
呼ぶ声はさっきより静かや。
「焦らんでええわ」
少しだけ笑う。
「元々、そばおるだけでよかったんやしな」
その言葉のあと、
詩の指が、ほんのわずかに動いた。
さっきみたいな反射じゃない。
逃げる動きでもない。
ほんの、微細な“応え”みたいな揺れ。
昂汰は息を止める。
でも、今度は崩れない。
ただ、その揺れを受け取るだけや。
「……うん」
小さく頷く。
「それでええ」
ピッ、ピッ。
音は変わらない。
でも、そのリズムの中に、
さっきまでなかった“余白”が戻っていた。
昂汰はようやく息を吐く。
ずっと止めていた息を。
「……よかった」
本当に小さく。
今度は、ちゃんと。
あの頃の思いは今も変わらず、いやずっと強く根付いている。
でも
探してたんやなくて
ずっと隣におったんやな
「きっと、詩もだよな」
傷だらけのその頬をそっと撫ぜる昂汰の顔は微笑んでいた




