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カーテンの向こうを離れたあとも、足はうまく動かなかった。
気づけば、さっきと同じ椅子に座っていた。
廊下は静かじゃない。
ざわついている。さっきとは違う種類の音。
広がっていく、不安みたいな音。
ポケットのスマホが震える。
一度じゃない。何度も。
画面を見た。
ニュース速報。
【人気選手の妻、刺される】
それだけで、息が詰まる。
タップする。
「白昼の犯行」
「熱狂的ファンによるものか」
「結婚生活に関する影響も」
文字が並ぶ。
意味より先に、目に入ってくる。
コメント欄。
《自業自得》
《奥さん可哀想すぎる》
そこで指が止まった。
視界がにじむ。
画面が歪む。
「見んでええ」
横から手が伸びて、画面が覆われる。
その声で、全部が現実になる。
世間に出た。
もう隠れられない。
詩のことも、全部。
胸の奥が重くなる。
犯人への怒りと同じくらい、自分に向くものがある。
もし、俺が。
もし、あの時。
考えても意味のない“もし”が、止まらない。
「……すみません」
気づけば立ち上がっていた。
廊下のガラスに映る自分の顔がひどい。
喉の奥が焼ける。
「……俺のせいや」
それだけは、はっきりしていた。
ロビーのテレビでも同じニュースが流れていた。
【人気プロ野球選手の妻 白昼に刺される】
「結婚生活との関連も——」
アナウンサーの声は軽い。
でも内容だけが重い。
隣で誰かが小さく舌打ちした。
「勝手なこと言うな」
その声すら遠い。
どこか現実感がない。
なのに、全部が現実や。
詩のことが、“ニュース”になっている。
病室の前で足が止まる。
扉の向こうにいるのは分かってるのに、開けられない。
さっき見た文字がまだ残っている。
自業自得。
息を吐いて、扉を開ける。
中は変わらない。
機械の音だけが一定に鳴っている。
ピッ、ピッ。
詩はそこにいる。
動かない。
でも、呼吸だけがある。
それだけで、少しだけ安心する自分がいるのが怖い。
「うた……」
声が出る。
「外、めちゃくちゃや」
「ニュースになってる」
言葉を重ねるほど、自分の声が弱くなる。
「俺のことも出てる」
笑おうとして、笑えなかった。
喉が詰まる。
「……ほんま、なんなん」
詩の手を握る。
その時だった。
指が、ほんの少しだけ動いた。
息が止まる。
「……詩?」
呼ぶ。
まぶたが揺れる。
開かない。
でも、そこに“反応”だけがある。
「……おるで」
小さく笑う。
「俺、ここおる」
その言葉だけが、やっと形になる。
⸻
夜。
病室の光は落ちている。
ピッ、ピッ。
その音だけが続く。
詩はまだ目を覚まさない。
でも、さっきより“何か”がある気がする。
指が動いた気がした。
それだけで、呼吸が少しだけ戻る。
「……詩」
呼ぶ。
「今日はな、外うるさい」
「でも俺はここにおる」
返事はない。
それでも続ける。
沈黙が怖いから。
夜が深くなるほど、音だけがはっきりする。
ピッ、ピッ。
そのリズムに合わせるように、息をする。
やっと少しだけ、生きている気がした。
朝なのか夜なのか、もう分からない。
ピッ、ピッ。
その音だけが、変わらず続いている。
詩はまだ目を覚まさない。
ただ呼吸だけがそこにあって、それが唯一の「いる証拠」みたいになって
「……おはよう」
声を出す。
返事はない。
それでも言う。
看護師が短く言う。
「状態は安定しています」
その言葉だけが残る。
安定。
安心じゃない。
ただ“変わらない”という意味。
昼。
夜。
その区別も曖昧になる。
スマホはもう手にしていない。
でもそれでも、勝手に情報は入ってくる。
テレビの音。
誰かの会話。
「奥さんまだ意識戻らないらしいですね」
その一言だけで、呼吸が浅くなる。
違う場所の話みたいで、どこか現実じゃない。
「……詩」
何度目か分からない呼びかけ。
返事はない。
それでも続ける。
「今日な、外めっちゃうるさいねん」
「俺の名前も勝手に使われてる」
言いながら、少し笑う。
笑えてない。
喉の奥が詰まる。
「ほんま、どうでもええのにな」
握っている手の力が少し強くなる。
離したくない。
でも、これが正しいのか分からない。
夜になる。
病室の光が落ちる。
ピッ、ピッ。
その音がやけに大きい。
静かすぎて、頭の中がうるさい。
「……なぁ」
声を落とす。
「俺な」
続きが出てこない。
喉が詰まる。
何を言うべきか分からない。
守るって言った。
でも、何も守れてない。
むしろ、近づくほど壊れていってる気がする。
モニターの音がわずかに揺れる。
ピッ。
間が空く。
ピッ。
「……っ」
反射的に顔を上げる。
すぐに安定する。
何も起きていない。
それなのに、心臓だけが嫌な速さで動く。
「……頼むから」
声がかすれる。
「置いていかんといてや……」
その言葉は、誰にも届かない。
⸻
廊下に出る。
ドアが閉まる音が重い。
息がうまくできない。
壁にもたれる。
「俺、何しとんねん」
声が漏れる。
それでも離れられない。
どっちにも行けない。
⸻
病室に戻る。
詩は変わらない。
でも——
少しだけ違う。
指先が、ほんのわずかに動いている。
気のせいかもしれない。
それくらいの小ささ。
それでも目が離せない。
「……詩?」
呼ぶ。
まぶたが揺れる。
開かない。
でも、そこに“反応”はある。
「……聞こえてるんか?」
声が震える。
詩の指が、ほんの少しだけシーツを掴んだ気がした。
ほんの一瞬。
それだけで、息が止まる。
「……あかん」
小さく笑ってしまう。
「これ、あかんやつやろ」
安心と不安が同時に来る。
壊れそうになる。
⸻
夜がまた深くなる。
ピッ、ピッ。
その音に合わせて、呼吸だけが続く。
「うた…」
もう一度呼ぶ。
今度は少しだけ弱い声。
「……戻ってきてや」
その瞬間、
モニターの音が一瞬だけ乱れる。
ピッ。
間。
ピッ。
心臓が跳ねる。
看護師がすぐに入ってくる。
詩の指が、
びくっと動いた。
反射みたいに。
でもそれは、
“逃げる動き”やった。
すぐに収縮して、
また動かなくなる。
「……詩?」
呼ぶ。
でも、もう違う。
さっきの“揺れ”じゃない。
ただの反応。
そこに意思はない。
それを理解した瞬間、
胸の奥が空になる。
「一度、刺激を減らします」
その言葉の意味が、
ゆっくり降りてくる。
つまり。
“届かない側”に寄せられた。
また一歩遠くなる。
詩から。
俺から。
全部から。
カーテンの向こうで、
機械の音だけが続く。
ピッ、ピッ。
規則的で、
何も変わらない音。
その音を聞きながら、
初めて気づく。
さっきまで握っていた手を、
離せていない。
でももう、
握ってる意味も分からない。
ただ、そこにあるだけや。
「……詩」
最後にもう一度呼ぶ。
返事はない。
当たり前やのに、
それが一番しんどい。
椅子に座ったまま、
動けなくなる。
時間だけが流れる。
そして気づく。
さっきまで確かにあったものが、
ひとつずつ消えていってる。
反応も。
まぶたの揺れも。
指の動きも。
全部。
最後に残ったのは、
ピッ、ピッという音だけやった。




