6-10
「じゃあ行ってくるな」
翌朝。
いつもと同じように軽くハグ
いつもと同じように額にキス
そして
離れる前に腕にグッと力が入った
彼を送り出した後
ソファに座り込んで部屋を見渡す
丁寧な仕事がされた
整った部屋
気配りの効いた
あったかい食事
自分だけではとても行き届かない
感謝
と同時に浮かんでは消える
焦燥感と虚無感
何度打ち消しても
仕舞い込んでも
忍び寄るその影は
自分の心の醜い部分を
突き付けられているようで
苦しくて
たまらなかった
外の空気が吸いたい
そう思ったところで
行けるわけもなく
せめても、と
窓を開けて
ベランダに出る
“こういうの好きやんな“
“かわいいやろ”
そう言っては
買ってきてくれる
草花が
ワンコーナーにまとめられていて
大切に手入れされていると
一目でわかるそれらに
目を細める。
自然とスマホをかざしながら
口角が緩んでいる事に
気づいて嬉しくなって
太陽の光の下
キラキラと輝く
生命達が眩しくて
一息ついて
全体を眺める
と。
わたしは。
“なにもしてない”と
囁く声が聞こえる
手をかけて
世話をしているのは
わたし、じゃない
“…やめて”
“やめて…っっ”
両耳を塞ぎながら
座り込む
この家は
わたしが
居ても
居なくても
回っていく…
額に冷たい感触がして目が覚める
「…起きたか」
目の前には
覗き込む優しい瞳
そっか、あの後
ソファに沈み込んだまま
動けなくなったんだ、と
思い出す
「花見てきたん?」
その声に意識が戻される
「いや、窓開いとったから」
不思議そうな顔をしていたのか、
慌てたように付け足した
“うん”
「そっか」
「写真撮ったか?」
“うん”
見せて、というように
出される手のひら
「…いいやん」
スクロールしながら
嬉しそうに写真を見る
その姿に
なぜか涙が溢れてきて。
なにがどうなったのか
説明なんかできない
急に泣き出したわたしに
慌てふためく彼を尻目に
理由もわからず
ただ泣き続けるしかなかった
横になったまま
急に泣き出した詩に驚いて
慌てて身体を起こしてやる
こちらの声は
なにも届いていない
その事に気づいた時
ただ黙って待つ事にした
腕の中
ここで泣けばいい、と。
声が出ない
後遺症として残ったそれは
未だ回復の兆しはなく
ただでさえ
気持ちを伝えるのが苦手な彼女にとって
大きなハンデになっていた
(溜まってたよな…)
しゃくりあげる背中を
さすりながら
そんな事を思う
難解な詩の心は
伝える術を持たなくなると
秘宝と言えるほどに
見つけられなくなる
散りばめられたヒントを頼りに
探るそれは
まるで宝探しのようで
今度はどんな難題かと
口角が上がる
絶対に、
見失ったりしないから
心配はいらない
(寝落ち、するやろうな)
訳もわからず泣き出すほど
張り詰めていた心
熱も、ある
きっと、限界だろう、と
腕の中
落ちていく寸前の、
大人しくなった詩を見遣る
“ベッド行こか”
声をかければ
いやいや、と首を振る
シャツを掴む力が
少しだけ強くなったのを見て
ソファの上
彼女を抱え直した
乱れた髪に手を通す
顔に張り付いた髪
滲んだ汗
涙の跡
小さく開いた唇
自分だけに許された
そのすべてが
誇らしい、と
優越感を感じているのを
“知るわけないよな”
夜中。
(おなかすいた…)
ふと目が覚める
何度擦ってもよく見えない視界に
(またやっちゃった…)
とガックリ。
そういえば今日はなにも食べていなかったと、空腹の理由に気づいて
久しぶりのこの感触が
嬉しくなる
起きあがろうと身じろぎすれば
お腹に回る腕に気がつく
「どうした…?」
いつの間にかベッドに運ばれて
後ろから抱えられていて
顔が見えない事にホッと息を吐く
「うた?どないしてん」
パンパンに腫れた
目も顔も
“お腹空いた”も
恥ずかしくて
自分の方に身体を向けようとする力に
必死に抵抗してみる
「え?なにしてん」
あっけなくついた勝敗に
今度はその胸元に潜り込んでみる
仕方ない、
空腹は明日まで我慢しよう
「…ったく」
真夜中のベッドの上。
無駄な抵抗をする彼女に苦笑いして
冷たいタオルを持ってきて
顔に当ててやると
大人しくなる
恥ずかしいのか
少し距離を取るように
ベッドの端に寄る姿に
“許さない”
とばかりに引き寄せて。
目を隠したままの
詩の頭に唇を落とした
「うた」
“うん”
頭が動く
「…しんどかったな」
唇が、歪んだ。
“…うん”
小さく頭が動いて
堪えるように唇に力が入った
「喉、渇いたやろ」
“ちょっと待っとき”
立ち上がろうとした時
手が伸びてきて、引き止めた
目を覆っていたタオルが外されて
腫れぼったい瞼と
真っ赤な瞳が現れる
“自分で、行く”
未だそう言う彼女に
大きくため息をついて見せて
「…ええよ」
そう言って抱え上げると
冷蔵庫まで運ぶ事にした
「落とすで」
真っ赤な顔で暴れる彼女を
一言で大人しくさせて
冷蔵庫の前
飲み物と果物を選んだ詩に
嬉しくなる
「甘いもんもあるで?」
そう言うと少し考えて、
1つ押し付けてくる
「はいはい、残り物は引き受けますよ」
促すように背中に手をやれば
素直にテーブルにつく
あれだけ泣いたんだ、
喉が渇いていないはずもなく
勢いよく飲み物を口にするのを見ながら
果物が詰められた器に手をかけた
「おぉ、すげえな」
瞬間。
目の端で微かな異変を捉えた。
それは
初めてではない
何度か目にしてきたはずの
でもあまり
気に留めていなかった
動きが、止まった…。
すぐに、なにもなかったかのように
動き出す彼女を
今度は正確に捉えていて
頭の中が急ピッチで動き出す
(なんや、今の…)
この違和感の正体を
俺はまだ
知らなかった




