表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
そのまま。  作者: こまこま
6章
36/44

6-2

病室の朝は、少しだけ早く動いていた。


「じゃあ、先生と話してもらって、問題なければこれで退院になりますね」


看護師の声はいつも通りだった。


淡々としているのに、

今日だけはやけに遠く聞こえる。


詩は小さく頷く。

シーツの上で、指が一度だけ動く。


(帰る…)


その実感は、まだ薄い。


荷物はもうほとんどまとめられていて、

ここにいた時間だけが、少しだけ残っていた。


ノックの音。


「おはよう」


主治医が入ってくる。


軽くカルテを確認してから、

詩を見る。


「体調は問題なさそうだね」


「昂汰くん、今日帰ってくるんだっけ」


コクン、と小さく頷く

「1人で帰るって聞いてるけど」

コクン

「行けそう?」

…コクン


「よし、じゃあ、帰ろうか」


その言葉は静かに落ちた。


安心、というより

“区切り”のような音だった。



病室の空気が少しだけ慌ただしくなる。


「薬はこれね」

「次の外来はこの日」


説明が続く。

でも詩の頭にはあまり入ってこない。


(帰る)


その言葉だけが、何度も浮かぶ。



スマホが震える。

「こっち、これから帰りの移動」

「迎え行けんくてほんまごめん」

「タクシー大丈夫そうか?」


詩は少しだけ間を置く。

指が、画面の上で止まる。


(迎え、来れない)


分かっていたことなのに、

少しだけ胸の奥が揺れる。


「大丈夫」


それだけ送る。


送ったあと、ゆっくり息を吐く。



病院の玄関。


手すりに軽く触れながら、

ゆっくり進む。


一歩外に出る。

空気が変わる。


冷たさじゃない。

でも、少しだけ“広い”。


(……外)


音が一気に入ってくる。


車の音。

風。

誰かの足音。


一瞬、呼吸が浅くなる。


その時。


「うたちゃん」


後ろから声。


昂汰じゃない。

でも、名前が呼ばれたことで少しだけ落ち着く。


看護師が横で軽く頷く。


「大丈夫」


そのままタクシーのドアが開く。



車の中。


ドアが閉まった瞬間、

音が少し遠くなる。


(静か)


それが、逆に怖い。


詩は窓の外を見る。

病院が遠ざかる。


スマホが震える。


「今どこや?」

「ちゃんと乗れた?」


詩はすぐに返せない。


少し考えてから


「うん」


だけ送る。


その直後、またメッセージ。


「ちゃんと帰る場所やからな」

「しんどなったら止まってええ」


詩の指が止まる。


(止まってええ)


その言葉が、

少しだけ胸の奥に落ちる。


タクシーは静かに走る。


窓の外は流れていく。


病院の景色が完全に消えると、

少しだけ“現実”が増える。


家へ向かっているだけの時間。


なのに、

その距離がやけに長く感じる。


詩は自分の手を見る。


何もしていないのに、少し疲れている。


タクシーが止まる。


「ここでいいですか?」


詩は小さく頷く。


ドアが開く。

空気が変わる。


(ここ)


何度も来た場所。


なのに、今日は少し違う。


鍵を出す手が、一瞬止まる。


玄関。


鍵を回す音。

カチ、と小さく鳴る。

ドアが開く。


中の空気が流れ出てくる。

静か。

でも“空っぽ”ではない。


(帰ってきた)


その実感は、遅れてくる。


靴を脱ぐ。

一歩上がる。



リビング。

ソファ。

テーブル。

キッチン。


全部そのまま。


でも少しだけ違う。

そこに“誰もいない時間”が混ざっている。


詩はその場に立ったまま、

すぐには動けない。



スマホが震える。


「着いたか?」


詩は画面を見る。


少しだけ間を置いて


「うん」


すぐに返事が来る。


「そっか」

「よかった」

「俺も出来るだけ早く帰る」

「休んでろよ」


その一言で、

少しだけ肩の力が抜ける。



詩はソファに座る。



窓の外は普通の昼間。

音もある。

静かすぎるわけじゃない。


(ここにいる)


その感覚だけが、

ゆっくり残っていく。






夕方。


窓の光が少しだけ傾いていた。


詩はソファに座ったまま、

何をするでもなく時間を見送っている。


音はある。

でも、どれも遠い。


病院の静けさとは違う、

“生活の静けさ”。


その中で、

スマホが一度だけ震えた。


「今、戻る」

「もうすぐ着く」


詩の指が止まる。


画面を見たまま、

しばらく動かない。


(もうすぐ)


その言葉が、

ゆっくり胸に落ちる。


玄関の外。


鍵の音がする前に、

足音が先に聞こえた気がした。


カチャ、と小さな音。

ドアが開く。


「ただいま」


短い声。

でも、その一言で部屋の空気が少し変わる。


詩はすぐに返事ができない。

立ち上がることもできない。

ただ、見ている。



昂汰は一瞬だけ止まる。


次の瞬間、

少しだけ息を吐いて笑った。


「……ちゃんとおるやん」


その声は、軽いのに

少しだけ震えていた。


詩はゆっくり立ち上がる。


一歩だけ。

それ以上は進まない。

でも、それで十分だった。


昂汰が近づく。


そして——


詩の前で止まる。


一瞬、間。


「……うた」


その名前だけで、

詩の肩が少し揺れた。


次の瞬間。


昂汰が手を伸ばす。


抱きしめる、というより

“確かめる”みたいな腕の動き。


詩は抵抗しない。

むしろ、少しだけ寄る。


「ちゃんと帰ってきたな」


低い声。


それだけで、

詩の呼吸が少しだけ緩む。


詩の指が、昂汰の服をつかむ。


強くはない。

でも、離れない力。


昂汰はそれに気づいて、

少しだけ笑う。


「……ん、おかえり」


それ以上は言わない。


ただ、背中をゆっくり撫でる。



時間が少しだけ止まる。


外の音も、

部屋の音も、

全部薄くなる。


残るのは体温だけだった。






詩の息が、少し乱れる。


嬉しいのに、

少しだけ苦しい。


(戻ってきた)


その実感が遅れてくる。


昂汰が小さく言う。


「ひとり、どうやった?」


詩はすぐに答えられない。


でも少しして、

小さく首を振る。


“なんでもない”じゃなくて、

“いろいろあった”の振り方。


昂汰はそれを見て、

少しだけ目を細める。


「そっか」


そのあと、軽く笑う。


「頑張ったな」


詩の肩から、少しだけ力が抜ける。




昂汰は手を離さないまま、

部屋を見回す。


ソファ。

テーブル。

キッチン。


そして視線が詩に戻る


「……ちゃんと戻ってきたんやな」

“よかった”


嬉しそうに目尻を下げる


“喜んでくれてる”

その事実だけで、

胸が少しだけ熱くなる。


そういえば、

“腹減ってる?”

「ちゃんと買ってきたで」


いつもみたいな声。

日常の入り口の声。



詩は少しだけ考えて、

小さく首を横に振る。


昂汰が笑う。


「じゃあ、もうちょいゆっくりしよ」

「……コーヒーでも飲むか」

軽く言いながらキッチンへ向かう。


詩はその背中を見る。


動く音。

水の音。

冷蔵庫の音。


全部が戻ってくる。


でもそれは、

“全部元通り”じゃない。


少しだけ違う形で、

続いている日常だった。


詩は昂汰の背中を追いかける。

キッチンに立つその背中に

頭をつけて

後ろから手を回す。

昂汰の体温を感じながら、

ゆっくり息を吐く。



窓の外はいつも通りの夕方。


でも今日は、

少しだけ違って見えた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ