6-1
「ちょっとコンビニ寄っていい?」
「それか、パン屋寄ってく?」
“パン屋行って、コンビニ”
「はいはい」
最近見つけたパン屋、
朝、サラダくらいなら作れるかも
明日の朝食が頭の中で完成していく
「期待してるで、奥さん」
全快、ではない
不安な事が多すぎて
帰れない、と泣いた
「正直俺も怖いけど」
2人で、あの家に帰りたい
詩の事、抱きしめて眠りたい
“また、始めてみいへん?
一緒に”
それは、
2度目のプロポーズのようだった
朝。
冷蔵庫を開ける。
昂汰がシャワー行ってる間に、
サラダ作ろうかな、ってなる。
まだ長く立てないから、
簡単な事だけ。
トマト切るとか。
きゅうりとか。
包丁を手に取る。
その瞬間。
指が止まる。
呼吸が、一瞬だけ浅くなる。
(……あ)
感覚が、
急に遠くなる。
金属の冷たさ。
手の中の重さ。
刃先。
視界の奥で、
何かがちらつく。
音。
嫌な汗が浮く。
手が動かない。
“切る”の動作が、
頭の中で止まる。
(……できない)
その理解だけが、
遅れて落ちる。
握っていたはずなのに、
力が抜ける。
カシャンッ
包丁がシンクに落ちる。
その音に、
詩の肩が跳ねる。
呼吸が乱れる。
(なんで)
(なんで、これ)
前は普通に使ってた。
毎日。
考えもしなかった。
なのに。
身体が、
“危ないもの”だと認識してる。
動けない。
そこへ、
音を聞いた昂汰が戻ってくる。
「今のなに……うた?」
詩は振り返れない。
シンクに落ちた包丁。
強張った背中。
それだけで、
昂汰の顔から少し笑みが消える。
でも、
すぐには近づかない。
まず、
静かな声。
「大丈夫」
詩の呼吸が揺れる。
昂汰はゆっくり近づく。
震える詩の手をそっと上から包む。
「……無理せんでええ」
その一言で、
詩の身体から少し力が抜ける。
その頼りない背中を
後ろから抱きしめる
「…ちょっと座ろ」
抱き上げてソファに移動する
ソファ。
昂汰の腕の中、
詩の呼吸がまだ少し浅い。
視線は落ちたまま。
「……びっくりしたな」
静かな声。
責めない。
励まさない。
詩の指が、
昂汰の服を少し掴む。
「包丁、怖かった?」
小さく聞かれて、
詩は少しだけ迷う。
怖い、
だけじゃない。
できなかった。
それが苦しい。
ぽろり。と涙が流れる
出来ない。なんて
思いもしなかった
「……そっか」
背中をゆっくり撫でる。
詩の呼吸が、涙と一緒に
少しずつ早くなっていく
「うた」
“息、して”
「大丈夫だから」
ショックを受け止めきれない
なんで、どうして
止まらない感情は
呼吸を難しくしていく
「詩、ちょっと助けてもらおう」
手早く準備を整えた昂汰。
どこかに電話をかけると
ブランケットで詩を包んで
抱き上げた。
車の中
「まだきついな」
シートに降ろされる
息はまだ荒い
“うた”
顔を覗き込まれる
「心臓の事もあるからな」
それに、
“ダメ、じゃない”
「これは、ほんまにきついやつやから」
先生とこ行って、
しんどい、ってちゃんと言おう
「俺も試合あるしな」
少しだけ笑う
「で、落ち着いたらまた帰ってこよ、な」
応えるように小さく動いた指
「ん…ほな行こか」
病室。
カーテンが少しだけ揺れている。
詩の呼吸は、もう落ち着いていた。
さっきまでの乱れは、薄くなっている。
ドアが開く。
「どう?」
主治医の声は、いつも通りだった。
詩は少しだけ視線を上げる。
そのまま小さく頷く。
先生は軽くカルテを見てから、
何も大きくは言わない。
「うん、大丈夫だね」
責めるでもなく、
評価するでもなく、
それで十分だった。
病院の外。
昂汰は短く電話を切る。
「大丈夫ですか?」
看護師の声に、
軽く頷く。
「大丈夫です」
それだけ言って、
一度だけ病室の方を見る。
ドアの向こう。
詩はもう落ち着いているはずだと分かっている。
それでも少しだけ、
息を吐く。
「……ほな、よろしくお願いします。」
スタジアム。
歓声の中。
ユニフォームの袖を直しながら、
昂汰は一瞬だけ空を見上げる。
(大丈夫やな)
すぐに顔を戻す。
試合の音が戻ってくる。
病室。
回診が終わる前に、先生が一度だけ足を止める。
詩のカルテを閉じて、
少しだけ視線を向ける。
「さっきのことなんだけど」
いつもの落ち着いた声。
詩の指が、シーツの上でわずかに動く。
先生は続ける。
「ちゃんと、助け呼べたの、偉かったよ」
詩のまぶたが、ほんの少しだけ揺れる。
責められると思っていた部分に、
違う言葉が落ちる。
「一人で抱え込まなかったっていうのはね」
「治療の中ではすごく大事なことだから」
淡々としてるのに、
ちゃんと“肯定”になっている。
先生は軽く頷く。
「むしろ、今回で一番いい反応だったと思う」
詩の指先が止まる。
(いい反応)
その言葉が、少しだけ遅れて落ちる。
先生はそれ以上は踏み込まない。
「今日はゆっくり休んでね」
「落ち着いたら、帰れるからね」
それだけ言って、
部屋を出ていく。
1人になった空間。
広げた手のひらを見つめる
目を瞑るとあの日の映像が流れて来そうで
(怖い…な)
落ち着いた今なら
パニックになった気持ちもわかるのに。
使えない、なんて考えもしなかった
あと幾つ、あるんだろう
見えない爆弾を抱えているようで
気持ちが沈んでいく。
腕に繋がれた点滴が妙に懐かしい
(早かった、のかな…)
だけど
始まった2人の生活は
少しぎこちないけど
幸せで。
抱きしめられながら眠る夜
いってらっしゃいと送り出す朝
2人で囲む食卓も
ただぼんやりと過ごす時間も
酷いあの事が薄くなるくらいに
満ち足りていた
“明日、寄る”
届いたメールは同じ温度な気がして
大きく深呼吸をすると
目を閉じた。




