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そのまま。  作者: こまこま
5章
33/45

5-6

朝。


病室の空気はいつもより少しだけ慌ただしい。


「今日は車椅子で行くといいよ」

「看護師が付き添うから」


先生の言葉は、前と同じ落ち着いたトーン。

でも詩の中では、その言葉が少し違って響いている。


(外に、行く)


「無理になったらすぐ戻るから」


いつも通りの声。

でも少しだけ、慎重。

詩は頷く。


その指が、シーツの上でゆっくり動く。

まだ昂汰の手を探すみたいに。

昂汰が気づいて、すぐに手を出す。


「はいはい」


軽く笑って、指を絡める。


「奥様、そのままこちらに」


ふざけながら車椅子に誘導されると


「じゃ、行ってきます」


そのまま車椅子が動き出す。


病室のドアが開く音。

廊下の光。

エレベーターの沈黙。


全部が少しずつ“外側”に近づいていく。


玄関。

病院の外の扉。

一瞬、空気が変わる。


詩の肩がわずかに強張る。


(……音)


車の音。

風の音。

人の気配。


全部が一気に入ってくる。

昂汰が横で小さく言う。


「大丈夫、ゆっくりな」


車椅子が一歩出る。


外。


空気が、肌に触れる。

詩は息を止める。

冷たさでも、痛さでもない。

視界が一瞬だけ揺れる。


(……広い)


音が多すぎる。

遠くの車。

誰かの足音。

風が葉を揺らす音。


全部が重なって、体の奥が少し遅れる。

昂汰がすぐに気づく。


「うた」


小さく名前を呼ぶ。

詩の指が、反射みたいに動く。


昂汰の手を探して掴む。

ぎゅっと、強めに。


昂汰はそれを見て、少しだけ息を吐く。


「ええよ、そのままで」


車椅子がゆっくり進む。



病院の前の小さなスペース。

ベンチ。


「ここ、座るか」


詩は一瞬迷ってから、小さく頷く。

車椅子から移るときも、昂汰の手は離れない。


座る。


空気が少し変わる。

立っている時より、もっと“外”が近い。


詩はゆっくり周りを見る。


建物。

空。

人の声。


全部があるのに、どこにもぶつからない。


(……ちゃんと、世界だ)


息を吸う。

吐く。


少しずつ、体が追いついてくる。


勇人が隣に座る。


「どう?」


軽く聞く。


詩はすぐには答えない。

でも、少しだけ肩の力が抜ける。

それが返事みたいになる。


しばらくして。


詩の視線が空に向く。

雲が流れている。

音があるのに、静か。


(怖いのに)

(大丈夫でもある)


その両方が、同時にある。


指が、まだ手を離せない。

でもさっきより強くはない。

“掴んでる”から“触れてる”に近い。


昂汰がぽつりと言う。


「思ってたより、大丈夫そうやな」


詩は少しだけ目を細める。


(ほんとに?)


でも、否定はしない。


代わりに、ほんの少しだけ昂汰の方に寄る。

昂汰はそれに気づいて、小さく笑う。


「そろそろ戻りますか」

そっと声をかけられて頷く。


病室に向かう車椅子の上、

少しだけ振り返る。

さっきまでいた外。


そこに“戻れない場所”という感じは、もうない。



病室に戻ると、先生が迎えにきてくれていた。

「お帰り」

「いい散歩になったみたいだね」

少しの診察で確認すると、

安心の混ざった声。


詩の目が先生を見上げる。


長めに息を吐いて、

納得するように小さく二度、三度と頷いた。





数日後。


医師がカルテを見ながら言う。


「一時帰宅の件だけどね」

「短時間で行ってみようか」


詩の指が、シーツの上で止まる。


「そうだな、2時間くらい」


(2時間)


長いのか、短いのか、

すぐには分からない。


「移動は車で」

「何かあったら、すぐ戻る」


淡々と、条件が並ぶ。


夢じゃなくなる。

現実として、形になる。


詩は表情を変えない。

でも、聞いてる。


「詩ちゃん、こんな感じでちょっと考えてみて」


小さく頷く。



また数日。

看護師が来る。

「外出の時持っていくもの、考えましょうか」


メモ用紙が目の前に置かれる。

「なにがいるかな…」

“詩ちゃん書いてね”

・薬

・水

・体温計

・外出用の服

・靴


並んでいく文字。


ひとつ増えるごとに、

“帰る”が近くなる。



遠征先から帰ってきた昂汰がメモを見つける。


「おーそっか、服も靴もいるよなぁ」

「家もちょっと片付けないとな」


いえ…


頭の中に、

ぼんやり浮かぶ。


ソファ。

テーブル。


視線が少しだけ落ちる。


(帰る場所)


詩はベッドの上で、

ぼんやりとしている。


(2時間)

(車)

(家)


単語だけが、浮かんでは消える。


嬉しい、とは違う。

怖い、だけでもない。


胸の奥が、

落ち着かない。


指が、無意識にシーツをなぞる。

止まる。


(……行けるかな)


「…っしょ」

ギシッという音と共に

向かい合うように

ベッドに少し乗り上がってくる。


「うた」

頭をぐしゃぐしゃと撫ぜた後

両手で詩の両手を握りしめる。


「どうした?」


詩はすぐに反応しない。


少しだけ間。

視線が落ちる。

指が、ほんの少し動く。

昂汰は続ける。


「…怖い?」

“気持ち、付いてこん?”


あんな…?

「無理やったら、行かんでいいんやで」


首が横に振られる


「怖いのは、怖いよな」


まぁ、行ってみて、

「玄関で帰ってもええし」

「車乗って終わりでもええ」


逃げ道を置く。


詩の呼吸が、

少しだけ変わる。


張っていたものが、

ほんの少し緩む。


沈黙。

数秒。

完全じゃない。


ゆっくり、

小さく頷く。


決意じゃない。


でも、

拒否でもない。


「…ん、わかった」


おいで。

少し腕を引かれると

ポスンっと大きな胸にぶつかる。


背中に回る腕

ギュッと込められた力

言葉はいらない



少し緩む力

覗き込まれた視線

頬を包んだ手



「…あかん、足痺れたわ」

ふざけた調子で身体を離す。


そして真面目な瞳。

“うた、俺な、”

「悪いけど、もう今更お前から離れてやれない」

「だけど」

これは俺の我儘だからな、

代わりに詩の我儘も聞いてやる


だからさ、

「嫌なものは嫌」「行きたくない」って駄々こねたっていいんだ


それくらいの事、ちゃんと受け止めてやるから


「なっ」


彼がそう笑顔を見せた時には

返せるくらいには

気持ちが上向いていた。






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