5-3
夜。
昂汰は一度だけ家に戻る。
玄関を開けた瞬間、
空気が違う。
静かすぎる。
(……こんなんやったっけ)
靴を脱ぐ音がやけに響く。
電気をつける。
何も変わってないはずなのに、
少しだけ“前”に見える。
ソファ。
テーブル。
どこにも、
詩の気配がない。
(そら、そうなんだけど)
昂汰はソファに座る。
無意識にテレビをつける。
でも、すぐ消す。
(ちゃうな…)
(…前は)
ここで普通に喋ってた。
詩の手料理を食べながら
その日の色々を話して
ダラダラと過ごす
それが、当たり前やった。
ソファに背中を預けて、
天井を見上げる。
(静かやな…)
その静けさが、
今は少しだけ引っかかる。
立ち上がる。
冷蔵庫を開ける。
水以外、何もない。
扉を閉めて、
そのまま少しだけ考える。
2人で過ごしていた日々があまりにも遠くて。
…戻って、来れるんだろうか。
1日でも帰れないか…
「無理やな…」
外に出られない詩に、
ここに戻ってくるのは難しい。
「はぁ、帰るか…」
そう口にして。
(……どこが家なんやろな)
その問いだけが、
静かに残った。
病室の空気は落ち着いている。
詩はベッドの上。
昂汰は椅子に座ったまま、
スマホをいじっている。
(1日くらいなら)
さっき考えていたことが
また、頭をよぎる。
病院の説明は頭に入っている。
「外出はまだ慎重に」
「無理はさせないこと」
分かってる。
でも、それとは別のところで考えてしまう。
(1日だけ帰るとか、本当にできへんのかな)
詩はまだ家に戻れていない。
“戻る”という言葉すら、曖昧なまま。
でも、
ここでの生活は、もう安定してきている。
車椅子での移動。
どうでもいい時間。
少しずつ進んでいる。
(なら、もう少しだけ)
昂汰は立ち上がる。
ナースステーションに向かう。
「すいません」
少しだけ声を落として話す。
「一時帰宅って、今の状態で可能ですか?」
看護師が顔を上げる。
昂汰は続ける。
「1日だけでいいんです」
「無理させるつもりはなくて」
少し間。
「ちょっとだけ、戻したくて」
看護師はすぐには答えない。
カルテを見る。
詩の状態を思い返す。
「まだ、安定しているとは…」
現実的な返答。
昂汰は頷く。
(そらそうか)
でも引かない。
「じゃあ、条件付きでもいいです」
少し間。
「俺が全部ついてる前提で」
その言い方は強引じゃない。
「お願いします。検討だけでも」
でも。
(焦ってる…)
そんな思いが掠めた
午前。
病院の廊下はいつも通り静かだった。
詩は車椅子ではなく、
ゆっくりと手すりを頼りに立っている。
(いけるかな)
看護師が横にいる。
「今日少しだけ、外行ってみる?」
その言葉に、
詩は一瞬だけ目を上げる。
外。
あの日以来、踏み出していない世界。
そこは、
足が止まる場所だった。
ただの「少し」。
…でも、勇気は出なかった
躊躇うわたしを見て、
「うん、またにしよう」
軽い調子に救われる。
“外、出られなかった…”
遠征先に、珍しく落ち込んだLINEが届いた。
昂汰はスマホを握ったまま、
ベッドに座る
“どうしたん?”
“リハビリの時、誘ってくれたの”
“でも、怖くて”
“そうなんや”
“うん…”
“で、落ち込んでるんや?”
“…うた?”
“おーい、うたちゃん”
“昂汰さんに会いたい“
「おぉ、だいぶやられてんな」
躊躇う間も無く、押した通話ボタン
応えてくれた詩は少し俯き加減で
こっちを向いて欲しくて、
「うた、昂汰さん、やで〜」
茶化す俺を、恨めしそうに見る
滅多に弱音を吐かない彼女が
くれた
SOSを逃したくなくて
どうして今そばに居られないのかと、
恨めしくもあって
「なぁ…、うた」
急にトーンが変わったのに気づいて
顔をあげる。
「外、誘われた時だけどさ、」
「どうしようかなって、思ったり、した?」
“うん”
「考えて、やっぱり怖いなって、思ったんや」
“うん”
「そっか。」
なら、ええやん。
そう言った俺に不思議そうな顔をする。
「考えたんやろ?」
「それでやめたんやろ」
「……それでええやん」
泣くのを堪えて噛み締める唇
「それに、詩の最初は俺が一緒がいい」
堪えきれず溢れる涙
「おーい、泣くなよ…」
今は拭ってやれない。
抱きしめてもやれない。
泣き続ける詩を
ただ見守っていた。
廊下。
昂汰が呼び止められる。
「昂汰くん、今少し、いいかな」
振り返ると、主治医が立っていた。
「一時帰宅の件なんだけどね」
まっすぐな声。
責めるでもなく、
止めるでもない。
「リハビリの際に少し、聞いてもらったんだ。それは聞いてるかな?」
「はい」
「結論から言うと」
そこで少しだけ言葉を切る。
「今の詩ちゃんの状態だと、
“外に出る”こと自体が、まだ負担になりそうだよね」
軽く頷く。
「はい。僕もそう思いました」
「身体の回復に、
気持ちが、まだ追いついていない」
その言い方は静かで、
でも曖昧じゃない。
昂汰の視線が、少しだけ落ちる。
「無理に進めると、戻ってしまう」
短い言葉。
でも重さはある。
少しの沈黙。
「ただ」
先生が続ける。
「“帰りたいと思えている”のは、とてもいい状態でもある」
昂汰の目が、少しだけ上がる。
「なので」
「いきなり“帰る”ではなくて、
“一時帰宅を目標にする”のが現実的かと」
昂汰はその言葉を、そのまま受け取る。
「段階を踏めば、大丈夫」
「その時に——」
少しだけ、柔らかくなる。
「一緒に帰ってあげてください」
一瞬、間。
昂汰は小さく息を吐く。
「……お願いします」
先生は軽く頷く。
「焦らなくていいからね」
「我々も同じ所を向いてるから」
病室。
カーテン越しの光。
詩はベッドの上。
ノック。
主治医が入ってくる。
「体調、どうかな」
詩は少しだけ頷く。
カルテを軽く確認してから、
ベッド脇の椅子に腰掛ける。
「リハビリは順調?」
詩の指が、少しだけ動く。
「頑張って歩いてるって聞いてるよ」
そうじゃない、とでも言うように首を横に振る
「外に出られなかったんだって?それの事?」
詩は小さく頷く。
少し間。
「怖かったのかな」
詩は少しだけ迷ってから、
もう一度、頷く。
先生はそれを見て、
一度だけゆっくり頷く。
「それでいいよ」
短い言葉。
でも、はっきりしている。
詩の視線が、少しだけ上がる。
「今の状態で外が怖いのは、自然な反応だからね」
「無理に出なくていいんだよ」
「ただね」
一拍。
「“出ようかなと思えた”ことは、前に進んでる」
詩の指が、少しだけ止まる。
「昨日の段階で止めたのも、正しい判断だったね」
「次に進む時は」
少しだけ声が柔らかくなる。
「一人じゃない方がいいね」
一瞬、間。
昂汰の顔が、頭をよぎる。
詩の呼吸が、少しだけ変わる。
先生はそれを見て、
少し笑う。
「昂汰くんと、行くといいよ」
カルテを閉じる。
「少しずつ段階を踏んでね」
それだけ言って、
静かに部屋を出ていく。




