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そのまま。  作者: こまこま
3章
21/45

3-8

白い天井が、

ぼんやりと揺れている。


ぴ、ぴ、という音だけが一定に続く。


「……起きたね」


すぐ近くから声が落ちる。

主治医だった。


白衣のまま、

モニターを一度確認してから視線を上げる。


「まだ少しぼんやりしてるかな」


昔から知っている声。


詩は、

すぐには返せない。


というより、

返す理由がうまく掴めない。


主治医は軽く頷いて、

カルテに視線を落とす。


「昨日はちょっと、色々慌ただしかったね」


“説明”というより、

事実の整理みたいな言い方だった。


詩の中ではまだ、

昨日がうまく繋がらない。


ただ、

重さだけが残っている。


「昂汰くんはね」


少しだけ間。


「今は少し休んでもらってるよ」


その言葉は、

静かで、当たり前みたいだった。


(……休んでる)


意味は分かる。


でも、

すぐには実感にならない。


「少し無理が続いてたからね」


主治医はそう言って、

わずかに目元をやわらげる。


責めない。


でも曖昧にもさせない声。


「だから今は、調整中」


“調整”。


昔から何度か聞いた言葉。


それが、

少しだけ遠く感じる。


詩は天井を見る。


(……いない)


ようやく、

それだけが形になる。


胸の奥が、

わずかに動く。


でも、

名前はまだ付かない。


主治医はそれを見てから、

静かに言う。


「今は体力を戻すことが優先ね」


それだけ言って、

扉へ向かう。


「無理に考えなくていいから」


最後の声は、

少しだけ柔らかかった。


扉が閉まる。


また、

音だけが残る。


ぴ、ぴ、という規則だけ。


詩はしばらく、

天井を見ていた。


指先が、

ゆっくりと動く。


何かを探すみたいに。


でも、

どこにも触れない。


残っているのはただ、


「いない」


という感覚だけだった。




点滴室。


白い天井がぼんやりと滲む。


「……っ」


喉が乾いているのに声が出ない。


腕に、重さだけが残っている。


(……ここか)


遅れて理解する。


身体が動かない。


「……うた」


呼ぼうとして、息だけが漏れる。


すぐに足音。


「起きたね」


主治医の声だった。


モニターを一瞥してから、

静かに近づく。


「かなり無理してたね。限界、少し越えてるよ」


淡々とした声。

でも責めてはいない。


「……詩は」


かすれた声で、それだけ。


主治医は一瞬だけ間を置く。

「大丈夫。今は落ち着いてる」


それから少しだけ視線を落とす。

「君はしばらく安静ね」


静かな断言。


「一回、調整しよう」


昂汰の指がわずかに動く。

でも力にはならない。


「……戻る」


掠れた声。


主治医は否定しない。

代わりに、少しだけやわらかく言う。


「戻るよ。ちゃんと戻れる状態でね」


間。


「今は、そのために止める」

調整だよ。


昂汰は何も言えない。

ただ天井を見ている。


指先だけが、

ほんの少しだけ動いたままだった。






点滴が終わる頃には、

部屋の空気は少しだけ落ち着いていた。


針が抜かれて、

腕に小さな違和感だけが残る。


「もう大丈夫ですよ」


看護師がやわらかく声をかける。


そのまま、そっとカーテンを整えて出ていく。

しばらくしても、

主治医はすぐには帰らなかった。


ベッドの横に立ったまま、

少しだけ間を置く。


「……ちょっとだけ、いいかな」


声は静かで、

どこか遠慮が混ざっている。


昂汰が視線を向けると、

主治医は軽くうなずいて椅子を引いた。


座る動きも急がない。


「しんどかったね」


まずそれだけ。

責める気配はまったくない。

ただ、知っている人の言葉。


昂汰の指先が、

ほんの少し動く。


「……すみません」


かすれた声。


主治医は、少しだけ困ったように笑う。


「謝らなくていいよ」


間。


「そういうふうに動くの、分かってたから」


「むしろ僕らももう少し気を配るべきだったね」


ゆっくりと続ける。


「きみは、守りたいものがあると、止まれなくなる子だね」


視線が少しだけ柔らかい。


「でもね」


少し間を置いて、


「ちゃんと止まれたのは、よかったことでもあるよ」


その言い方は、

評価じゃなくて安心の方向に寄っている。


昂汰は黙ったまま聞いている。


主治医は続ける。


「今はね、“外に出られない”んじゃなくて」


少しだけ言葉を選ぶ。


「整える時間に入っただけ」


間。


「戻れないわけじゃないからね」


その一言は、

少しだけ軽い。


でも、ちゃんと現実。


視線がふっと上がる。


「詩ちゃんのことも、心配だよね」


やさしく置く。


昂汰の呼吸が一瞬だけ止まる。


主治医はそれを追いかけない。


ただ、静かに続ける。


「今は別々に休んでるだけ」


「離れてる、ってよりは……整えてる途中、かな」


そう言って、

少しだけ立ち上がる。


「また顔出すよ」


軽く肩に触れて、

そのまま出ていく。


扉が閉まると、


部屋はまた静かになる。


ぴ、ぴ、という音だけが残る。


昂汰は天井を見たまま、

しばらく動かない。


(……整える)


その言葉だけが、

ゆっくり残っていく。








やっと許可が出た。


点滴室を出て、

廊下の空気が少しだけ冷たく感じる。


白い光が続いているのに、

どこか現実感が薄い。


(……整える)


さっきの言葉が、

頭の中で何度か反響する。


「戻れないわけじゃない」


その続きはないのに、

勝手に意味だけが残る。


歩く足は、止まらない。


まだ本調子じゃない身体なのに、

不思議と引き返す選択肢だけが消えている。


曲がり角。


その先に、

見慣れた病棟の空気。


ぴ、ぴ、という音が、

遠くから重なって聞こえる。


(……詩)


名前を呼んだわけじゃないのに、

そこにある感覚だけが先に来る。


胸の奥が、

少しだけ締まる。


そのまま、

足が止まる。


廊下の真ん中。


誰もいないわけじゃないのに、

音だけがやけに遠い。


(今、行ったら)


そこで一度だけ考える。


でも答えは出る前に、

もう決まっている。


行かない、はない。


ただ——


どう戻るかだけが、

まだ掴めていない。


ゆっくり息を吐く。


一歩。


もう一歩。


病室の前。


ドアは閉まっている。


何も変わってないはずの扉なのに、

少しだけ重く見える。


(……いる)


当たり前のことなのに、

妙に確認してしまう。


指先が、

わずかに動く。


ノックするかどうかで、

一瞬止まる。


その間だけ、

全部の音が薄くなる。


ぴ、ぴ、という遠い規則音。


自分の呼吸。


それと、


向こう側にいるはずの気配。


(……戻るだけ)


声にならないまま、

一度だけ心の中で言う。


そして——


指が、扉に触れる寸前で止まる。

まだ、開けない。


ただそこに立っている。


戻る直前のまま。



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