3-8
白い天井が、
ぼんやりと揺れている。
ぴ、ぴ、という音だけが一定に続く。
「……起きたね」
すぐ近くから声が落ちる。
主治医だった。
白衣のまま、
モニターを一度確認してから視線を上げる。
「まだ少しぼんやりしてるかな」
昔から知っている声。
詩は、
すぐには返せない。
というより、
返す理由がうまく掴めない。
主治医は軽く頷いて、
カルテに視線を落とす。
「昨日はちょっと、色々慌ただしかったね」
“説明”というより、
事実の整理みたいな言い方だった。
詩の中ではまだ、
昨日がうまく繋がらない。
ただ、
重さだけが残っている。
「昂汰くんはね」
少しだけ間。
「今は少し休んでもらってるよ」
その言葉は、
静かで、当たり前みたいだった。
(……休んでる)
意味は分かる。
でも、
すぐには実感にならない。
「少し無理が続いてたからね」
主治医はそう言って、
わずかに目元をやわらげる。
責めない。
でも曖昧にもさせない声。
「だから今は、調整中」
“調整”。
昔から何度か聞いた言葉。
それが、
少しだけ遠く感じる。
詩は天井を見る。
(……いない)
ようやく、
それだけが形になる。
胸の奥が、
わずかに動く。
でも、
名前はまだ付かない。
主治医はそれを見てから、
静かに言う。
「今は体力を戻すことが優先ね」
それだけ言って、
扉へ向かう。
「無理に考えなくていいから」
最後の声は、
少しだけ柔らかかった。
扉が閉まる。
また、
音だけが残る。
ぴ、ぴ、という規則だけ。
詩はしばらく、
天井を見ていた。
指先が、
ゆっくりと動く。
何かを探すみたいに。
でも、
どこにも触れない。
残っているのはただ、
「いない」
という感覚だけだった。
⸻
点滴室。
白い天井がぼんやりと滲む。
「……っ」
喉が乾いているのに声が出ない。
腕に、重さだけが残っている。
(……ここか)
遅れて理解する。
身体が動かない。
「……うた」
呼ぼうとして、息だけが漏れる。
すぐに足音。
「起きたね」
主治医の声だった。
モニターを一瞥してから、
静かに近づく。
「かなり無理してたね。限界、少し越えてるよ」
淡々とした声。
でも責めてはいない。
「……詩は」
かすれた声で、それだけ。
主治医は一瞬だけ間を置く。
「大丈夫。今は落ち着いてる」
それから少しだけ視線を落とす。
「君はしばらく安静ね」
静かな断言。
「一回、調整しよう」
昂汰の指がわずかに動く。
でも力にはならない。
「……戻る」
掠れた声。
主治医は否定しない。
代わりに、少しだけやわらかく言う。
「戻るよ。ちゃんと戻れる状態でね」
間。
「今は、そのために止める」
調整だよ。
昂汰は何も言えない。
ただ天井を見ている。
指先だけが、
ほんの少しだけ動いたままだった。
点滴が終わる頃には、
部屋の空気は少しだけ落ち着いていた。
針が抜かれて、
腕に小さな違和感だけが残る。
「もう大丈夫ですよ」
看護師がやわらかく声をかける。
そのまま、そっとカーテンを整えて出ていく。
しばらくしても、
主治医はすぐには帰らなかった。
ベッドの横に立ったまま、
少しだけ間を置く。
「……ちょっとだけ、いいかな」
声は静かで、
どこか遠慮が混ざっている。
昂汰が視線を向けると、
主治医は軽くうなずいて椅子を引いた。
座る動きも急がない。
「しんどかったね」
まずそれだけ。
責める気配はまったくない。
ただ、知っている人の言葉。
昂汰の指先が、
ほんの少し動く。
「……すみません」
かすれた声。
主治医は、少しだけ困ったように笑う。
「謝らなくていいよ」
間。
「そういうふうに動くの、分かってたから」
「むしろ僕らももう少し気を配るべきだったね」
ゆっくりと続ける。
「きみは、守りたいものがあると、止まれなくなる子だね」
視線が少しだけ柔らかい。
「でもね」
少し間を置いて、
「ちゃんと止まれたのは、よかったことでもあるよ」
その言い方は、
評価じゃなくて安心の方向に寄っている。
昂汰は黙ったまま聞いている。
主治医は続ける。
「今はね、“外に出られない”んじゃなくて」
少しだけ言葉を選ぶ。
「整える時間に入っただけ」
間。
「戻れないわけじゃないからね」
その一言は、
少しだけ軽い。
でも、ちゃんと現実。
視線がふっと上がる。
「詩ちゃんのことも、心配だよね」
やさしく置く。
昂汰の呼吸が一瞬だけ止まる。
主治医はそれを追いかけない。
ただ、静かに続ける。
「今は別々に休んでるだけ」
「離れてる、ってよりは……整えてる途中、かな」
そう言って、
少しだけ立ち上がる。
「また顔出すよ」
軽く肩に触れて、
そのまま出ていく。
扉が閉まると、
部屋はまた静かになる。
ぴ、ぴ、という音だけが残る。
昂汰は天井を見たまま、
しばらく動かない。
(……整える)
その言葉だけが、
ゆっくり残っていく。
やっと許可が出た。
点滴室を出て、
廊下の空気が少しだけ冷たく感じる。
白い光が続いているのに、
どこか現実感が薄い。
(……整える)
さっきの言葉が、
頭の中で何度か反響する。
「戻れないわけじゃない」
その続きはないのに、
勝手に意味だけが残る。
歩く足は、止まらない。
まだ本調子じゃない身体なのに、
不思議と引き返す選択肢だけが消えている。
曲がり角。
その先に、
見慣れた病棟の空気。
ぴ、ぴ、という音が、
遠くから重なって聞こえる。
(……詩)
名前を呼んだわけじゃないのに、
そこにある感覚だけが先に来る。
胸の奥が、
少しだけ締まる。
そのまま、
足が止まる。
廊下の真ん中。
誰もいないわけじゃないのに、
音だけがやけに遠い。
(今、行ったら)
そこで一度だけ考える。
でも答えは出る前に、
もう決まっている。
行かない、はない。
ただ——
どう戻るかだけが、
まだ掴めていない。
ゆっくり息を吐く。
一歩。
もう一歩。
病室の前。
ドアは閉まっている。
何も変わってないはずの扉なのに、
少しだけ重く見える。
(……いる)
当たり前のことなのに、
妙に確認してしまう。
指先が、
わずかに動く。
ノックするかどうかで、
一瞬止まる。
その間だけ、
全部の音が薄くなる。
ぴ、ぴ、という遠い規則音。
自分の呼吸。
それと、
向こう側にいるはずの気配。
(……戻るだけ)
声にならないまま、
一度だけ心の中で言う。
そして——
指が、扉に触れる寸前で止まる。
まだ、開けない。
ただそこに立っている。
戻る直前のまま。




