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そのまま。  作者: こまこま
3章
20/43

3-7

夜。


詩の寝息が、静かに部屋に落ちている。


規則的な呼吸。

小さく上下する胸。


それを、

何度も確かめる。


(……大丈夫や)


心の中で、

ようやく言葉になる。


その瞬間——


「……はぁ……」


抑えていた息が、

一気に崩れた。


指先が、

わずかに震える。


握っていた手を、

ほんの少しだけ緩める。


それでも、

離さない。

離せない。


「……ごめんな」


もう一度、

小さく落とす。

返事を、待ってるわけじゃない


そっと、

手をベッドの上に戻す。


起こさないように、

ゆっくりと。




立ち上がる。


一歩。


——止まる。


「……っ」


息が、

うまく吐けない。


壁に、

手をつく。


力が、

入らない。


「……なんでや」


掠れた声。


額を、

そのまま押しつける。


あの時の光景が、

頭から離れない。


崩れ落ちた身体。

呼ばれても返らない声。


腕に残る、

あの重さ。


「……俺が」


喉の奥で、


言葉が詰まる。


「……俺が、外出たからやろ」

「行かんかったらよかった…」


ぽつりと、

零れる。


ぎゅっと、

拳を握る。


(……違うやろ)


頭では、

分かってる。


でも——


止まらない。


「……もうええ」


ゆっくりと、

振り返る先。


ベッドの上で眠る、

小さな身体。


一瞬だけ、


また、足が止まる。


(……離れたら)

(また、ああなったら)

(今度は間に合わんかったら)


想像が、

勝手に、先に行く。


「……無理や」

小さく、吐き出す。


そのまま、

すぐに戻る。


さっきよりも、

ずっと静かに。

ずっと近い距離で。


手を、

もう一度握る。


今度は、

さっきより、

ほんの少しだけ強く。


指を絡める。


逃がさないみたいに。


「もう……離れへん」


それは、

聞かせるためじゃない。


自分に、

言い聞かせるみたいだった。





そのまま——


椅子を引く音すら立てずに、

ベッドの横に腰を下ろす。


背もたれにもたれず、

前に体重を預けたまま。


手は、

ずっと繋いだまま。


一度も、離さない。


「……ここおる」


小さく、繰り返す。


詩には届かない声で。


そのまま、

一晩中。





朝。


カーテンの隙間から、やわらかい光が差し込んでいる。


規則的な機械音。

静かな部屋。


その中で——


同じ姿勢のまま、

昂汰は、そこにいた。


ベッドの横。

少し前かがみのまま、


詩の手を握っている。

一度も、離していない。


目は開いている。

でも、

どこか焦点が合っていない。


(……大丈夫や)


何度目かも分からない確認を、

心の中で繰り返す。


そのとき——


「失礼します」


小さなノックとともに、

扉が開く。


看護師が入ってくる。


足音を立てないように、

静かに近づいてきて、


点滴やモニターに目を落とす。


その途中で、


一晩中、同じ姿勢だったことに気づいたように、

ほんのわずかに視線が止まる。


「……ずっと、ついてらっしゃったんですか?」


やわらかい声。

責めるでもなく、

ただ確認するみたいな。


「……まあ」


短く返す。


視線は、

詩から外れない。


「少し、休まれた方が——」


「大丈夫です」


被せるように返る。

間髪入れず。


その声に、

看護師がわずかに目を細める。


でも、

それ以上は何も言わない。


「……何かあったら、すぐ呼んでくださいね」


そう言って、

静かに部屋を出ていく。


扉が閉まる。


また、

静寂が戻る。


そのとき——


ぴく、と

指先が動いた。


ほんの、

わずかに。


でも——


「……うた?」


握っていた手に、

少しだけ力がこもる。


「起きたんか?」


顔を覗き込む。

呼吸。

胸の上下。

視線の揺れ。


全部を、

一瞬で確認する。


まだ、だ。


それでも、

手を離さない。


むしろ、

さっきより強く握る。


「……なんや」


小さく息を吐く。


自分でも、

反応の速さに気づいてるみたいに。


でも——

やめない。


そのまま親指が、

無意識に手の甲をなぞる。


一定のリズム。

落ち着かせるみたいに。


(……大丈夫や)


もう一度、

繰り返す。


その直後。

詩の身体が、

ほんの少しだけ揺れる。


寝返りにもならないくらいの、

小さな動き。


それだけで——


「……っ」


身体が、

先に動く。


ベッドにぐっと近づいて、

もう片方の手が、

反射みたいに肩に触れる。


「うた」


低い声。

少しだけ、

強い。


でも、

詩は起きない。


ただ、

呼吸が、

少しだけ深くなる。


それを確認して、

ようやく、

力が抜ける。


「……びっくりさせんなや」


掠れた声。

誰に向けたものかも分からない。


手は、

そのまま。


椅子に座り直すこともせず、

ほとんど寄りかかるみたいな姿勢で、

そこに居続ける。




時間の感覚が、

曖昧になる。


朝なのか、

昼に近いのか、

もう分からない。


ただ、そのまま、

視線を落としたまま、


一度も、

離れなかった。





ベッドの横。


握ったままの手に、力を込めたまま。


「……大丈夫や」


もう何度目か分からない言葉を、

誰に向けるでもなく落とす。


その瞬間だった。




視界が、わずかに揺れた。


「……っ」


喉の奥で、息が止まる。


立ち上がろうとして——


足に、力が入らない。


(……あかん)


頭のどこかで、遅れて理解する。


でも身体はもう、

言うことをきかない。


ぐらり、と視界が傾く。


「……うた……」


呼ぼうとした声が、

途中で途切れる。


次の瞬間。


膝が落ちた。


「っ、早瀬さん!」


看護師の声。


手が伸びるより早く、

身体が支えられる。


「点滴ルート確保します!ベッドへ!」


騒がしさが一気に近づく。


でも耳に入ってこない。


(……詩)


視線だけが、

ベッドの上を探す。


まだ、そこにいる。


動かない。


「……離すな」


自分でも驚くくらい、

かすれた声が出た。


でも、

指はもう、詩の手を握っていられない。

ほどかれていく感覚だけが残る。


「大丈夫です、すぐ戻れますから!」


誰かの声。


違う。

そうじゃない。


(今じゃない)


(まだ……)


身体が持ち上げられる。

ベッドから引き剥がされる感覚。

そのまま視界が揺れて、

白い天井が流れる。


「点滴入れますね」


冷たい声と同時に、

腕に針が刺さる感覚。


(……ああ)


遅れて、

現実が落ちてくる。


離されてる。


詩から。


ゆっくりと。


「……うた……」


もう一度呼ぶけど、

声にならない。


指先だけが、

空を掴む。


でもそこにはもう、

温度がない。



ベッドの横。


さっきまであった温度が、消える。

指先が、空を掴む。

何もない。


(……)


視線だけが、揺れる。







廊下。


点滴室の外。


扉の向こうの静けさとは違って、空気は少しだけ張りつめていた。


「……限界、超えてますね」


先に口を開いたのは看護師だった。


手元の記録を確認しながら、淡々と続ける。


「睡眠不足と疲労の蓄積、それに精神的ストレス。今の状態で長時間の付き添いは、正直危険でした」


主治医はすぐには返事をしなかった。


白衣のまま、詩のいる病室の扉を一度見てから、ゆっくり視線を落とす。


「……そうだね」


少しだけ声がやわらぐ。

責めるでも、断じるでもない。

ただ状況を確認するみたいな響き。


「無理が重なってる。身体も、気持ちも」


短く言ってから、ほんのわずかに息を吐く。


「昂汰くんの方は……限界が先に来たね」


看護師が小さく頷く。


「離れなかったので」


「うん」


主治医はそれ以上は否定しない。


むしろ、分かっているような間があった。


「分かってても、止まれない子だね」


ぽつりと落ちる声。

少しだけ柔らかい。


叱るでもなく、ただ昔から知っている呼び方。

視線が、もう一度扉の向こうへ向く。


その先にいるのは昂汰。


そして、その先に詩。


「……あの子たちは、どっちも“守る側”に立とうとするから」


言いながら、少しだけ目を細める。


「一緒にいると、止まれなくなるんだよ」


看護師が静かに言う。


「今は、どちらも固定が必要です」


主治医は小さく頷く。


「うん」


間。


「離れる練習だね」


その言葉は、責めるものじゃなかった。

むしろ、やさしさに近い。

でも——逃げ道はなかった。


「今は強制的に止めるしかない」


少しだけ間を置いてから、静かに続ける。


「じゃないと、戻れなくなる」


その声だけが、廊下に落ちる。




扉の向こう。


点滴の落ちる音だけが続いている。



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