3-3
抱きしめられたまま、
動けなかった。
さっきの言葉が、
まだ胸の中で響いている。
——欲張れ
そんなふうに言われたこと、ない。
ぎゅっと掴んでいたシーツの代わりに、
無意識に、
彼のシャツを掴む。
腕の力が、少しだけ緩んだ。
「……苦しい?」
低い声。
距離を測るみたいな響き。
首を振る。
シャツを掴む手にギュッと力を込める。
離れない。
離したく、なかった。
「うん……そっか」
小さく息が落ちる。
そのまま、
ゆっくりと、
距離が少しだけ開く。
完全には離れないまま。
顔が、
近い。
さっきぶつかったばかりなのに、
どうしたらいいか、
分からない。
視線が、
合ってしまう。
「……ごめん」
ぽつりと落ちた声に、
息が止まる。
どっちの“ごめん”か分からない
でも、
そのまま、
指先が、
そっと頬に触れる。
「言い方、きつかったな」
やわらかい声。
でも、
さっきの強さも、
まだ残っている。
視線が、
逸らせない。
「……うた」
呼ばれて、
反射みたいに肩が揺れる。
それを見て、
小さく、笑う気配。
「ほんま、分かりやすいな」
少しだけ、
空気が緩む。
でも、
完全には戻らない。
さっきの熱が、
まだ残ってる。
そのまま、
額に触れるだけの距離で、
止まる。
「俺も」
詩も、野球も、どっちもほしい
だけど、今は、
「今は、ここにおりたい…」
怖いんよ…
耳をすまさなければ聞こえない声は、
彼からの悲痛な叫び声にも聞こえて
わたしを失うかもしれないと、
あの時、
彼が味わった恐怖が与えた
傷の深さを知った
「そろそろ寝るか」
ゆっくりと、
手が離れる。
「こんなんで寝れるかな」
冗談めかして言いながら
でも、
完全には離れない距離のまま、
しばらく、
その場に残った。
翌日。
いつもと同じ朝。
「おはよう」
「タオル、もらってきた」
変わらないやり取り。
でも——
「起こすで」
背中に回る手に、
びく、と
身体が揺れる。
「……うた、息して」
昨日と同じ言葉。
でも、
少しだけ近い。
「ゆっくりな」
呼吸に合わせるように、
手が動く。
昨日より、
迷いがない。
詩の肩が、
わずかに緩む。
それを見て、
ほんの少しだけ、
息が抜ける音。
「……ええやん」
小さく、笑う。
そのまま、
ほんの一瞬だけ、
引き寄せる。
一瞬だけ。
でも、
確かに触れる距離。
詩の指が、
無意識に、
シャツを掴む。
ぴたり、と止まる昂汰
「……うた」
低い声。
昨日と同じ空気。
でも、
今度は——
ほんの少しだけ、
笑ってる。
「覚えたな」
からかうみたいに言うけど、
手は、
ちゃんと重なる。
逃がさないように。
「ええよ」
小さく落ちる声。
「そのままで」
ぎゅっと、
強くはない力で、
握り返す。
昨日より、
ずっと自然に。
距離が、
変わっていた。
「うた、こっちは?」
軽く腕を広げる。
ほんの少しだけ迷って、
それでも、
詩の身体がゆっくり傾く。
そのまま、
腕の中に収まる。
「……ん」
小さく息を吐く音。
それだけで、
胸の奥が、ほどける。
「ちゃんと来れるやん」
くすっと笑う気配。
でも、
からかいすぎない声。
頭に触れる手が、
ゆっくりと撫でる。
一定のリズム。
安心させるみたいに。
詩の指が、
シャツの裾を掴む。
もう、
迷いはほとんどない。
それに気づいて、
少しだけ、腕の力が強くなる。
「……うた」
低く呼ぶ。
顔は見えないまま。
でも、
そのまま、
額に触れる感触。
軽く、
触れるだけのキス。
びく、と身体が揺れる。
でも、
逃げない。
「慣れてきたな」
小さく笑う声。
少しだけ間があって。
「……俺のこと」
ぽつりと落ちる。
「ちゃんと、好きやんな」
冗談みたいに聞こえるのに、
どこか本気の声。
答えられないまま、
シャツを掴む力が、
ほんの少し強くなる。
それで、
十分だった。
「……そっか」
満足そうな、
息。
そのまま、
少しだけ、
強く抱きしめる。
「ほな、もうちょいだけ」
甘えるみたいな声。
腕の中で、
時間がゆっくり流れる。
ここが、
全部みたいに。
——このままでいいって、
思ってしまうくらいに。
昼下がり。
カーテン越しの光が、やわらかく部屋に落ちている。
「詩、これからリハビリやろ?」
「その間、ちょっと外、行ってくるな」
その言葉に、
胸がざわつく。
——だめ
また、止めたくなる。
でも。
ぎゅっと、指に力を込める。
(……違う)
そうじゃない。
この人は、
ここに閉じ込めていい人じゃない。
唇が、
ゆっくり動く。
——いってらっしゃい
音にはならない。
それでも、
ちゃんと“そう言おうとした”。
ほんの少しだけ、
顔を上げる。
笑おうとして、
うまくいかない。
それでも、
「……っ」
小さく、息を吐く。
(ちゃんと、送り出さなきゃ)
そう思った瞬間——
胸の奥が、
ぎゅっと締め付けられる。
次の言葉が、
続かない。
何気ない声。
いつも通りのトーン。
でも——
その一言で、
胸が、止まる。
「すぐ戻る」
付け足される言葉。
優しさ。
ちゃんと分かってる。
でも、
それが逆に、
引っかかる。
——“すぐ戻る”
(戻るって、どこに?)
詩の指が、
シーツを掴む。
さっきまで、
あんなに近くにいたのに。
もう、
離れる前提の言葉。
「え?どうしたん?」
覗き込まれる。
優しい顔。
さっきと同じはずなのに、
少しだけ、
遠い。
唇が、
わずかに動く。
——いってらっしゃい
言わなきゃいけない言葉。
でも、
出ない。
その代わりに、
指が、
無意識に伸びる。
でも——
途中で止まる。
(……だめ)
止めたのは、
自分。
勇人の目が、
それを見逃さない。
「……うた?」
また一歩、近づく。
でも、
さっきみたいに抱き寄せない。
様子を見る距離。
それが——
余計に、苦しい。
「なに?」
戸惑ったような声音に変わる
首を振りながら
自分でも困惑する
あんなに満たされていたのに
愛されてるはずなのに
なにを不安になっているんだろう
込み上げてくる気持ちを、コントロールできなくて
混乱する
わがまますぎる、
そう思うのに、
それでも——
止められない自分に苛立って
こんなふうに思う資格なんて、ないのに
…でも、止まらない
ただ。
このまま離れたら、
もっと苦しくなる気がした。




