3-2
目が覚めた時、部屋に彼の姿は見当たらなくて
代わりにソファの上に
使い込まれたグローブと
手入れ用の用具達を見つけた
ピカピカに磨かれたそれは
いつでも動けるよう出番を待っているようにも見えて
胸がギュッとなった
ノックする音と同時に
そっと開かれる扉
緊張で身体を固くした時
柔らかな声が落ちた
「あれ、詩ちゃん、昂汰いない?」
あれからも何度か訪ねてくれるコーチに少しだけ慣れてきた。
頷いたわたしの視線の先に気がついたのか
「……ちょっとだけ近く行っていい?」
ふいに落ちた声に、
びく、と肩が揺れる。
「見せたいものがあるんだ」
軽く手を上げて見せて、
そのまま、
ポケットから取り出された、小さな画面。
「音、消してるし」
「嫌だったら、すぐやめよ」
目が、逸らせなかった。
画面が、点く。
白いユニフォーム。
見慣れたグラウンド。
一瞬で、分かる。
——カキン
聞こえないはずの音が、
頭の中で鳴る。
息が、止まる。
ほんの数秒。
たったそれだけなのに、
——見たい
——でも、だめ
揺れる視線を、
コーチは何も言わずに見ている。
やがて、
ふっと、画面が消える。
「……これぐらいにしとこうか」
優しい声。
視線が、
消えた画面を追う。
「昂汰には、内緒ね」
少しだけ、悪戯っぽい声。
それでも、
どこか分かってるみたいに、
やわらかい。
「……戻ってほしい?」
びく、と
指先が震える。
否定できない。
でも、
頷くこともできない。
そのまま固まる詩に、
「うん」
あっさりと落ちる声。
「それが普通なんじゃないかな」
その一言で、
胸の奥が、崩れた
ずっと、
言ってはいけないと思っていた感情が、
許された気がして。
視界が、
じわりと滲んだ。
「昂汰探してくるね」
今度こそ、
足音が遠ざかる。
扉が閉まる音がして、
完全に、ひとりになる。
ソファの上
グローブから目が離せなかった…
夜。
いつもと同じ時間。
いつもと同じ部屋。
「おやすみ」
軽く頭を撫でる。
そのまま離れようとして——
止まる。
(……なんや)
違和感。
小さいのに、
引っかかる。
さっきまで、
普通に笑ってたはずなのに。
視線が、
合わん。
「うた?」
覗き込むと、
ほんの一瞬だけ、
目が揺れた。
すぐ逸らされる。
(……これ、やな)
逃げてるんやない
怖がってるのとも、違う。
なにか、隠してる…?
「今日、なんかあった?」
できるだけ、
軽く聞く。
返事はない。
いつも通りや。
でも——
ほんの少しだけ、
間があった。
(……遅い)
分かるようになってしまった、
その“ズレ”。
「うた?」
少しだけ、
低い声で呼びかけて
少しだけ、
距離を詰める。
びく、と肩が揺れる。
でも、
逃げへん。
(……逃げへんのか)
(……触ってええんか)
様子を見てた、
今までの癖。
でも——
今日は、
そのまま、触れる。
頬に、指先。
びく、と反応。
でも、
やっぱり、
逃げへん。
「……うた」
呼ぶ声が、
もう少しだけ低くなる。
視線が、
合わないまま。
それでも、
離れようとしない。
(……なんやねん)
胸の奥が、
ざわつく。
さっきまでなかった、
妙な熱。
「今日な」
「コーチ来とったで」
手がかりを探すつもりで、かけた言葉に
わずかに、
身体が強張る。
——確信。
(……ああ)
全部、
繋がる。
「……会ったんやな」
問いじゃない。
確認でもない。
ただ、
拾うだけの言葉。
それでも、
返事はない。
でも、
逸らされた視線が、
戻らない。
そういえば、いつもは詩の目につかないようにしていたはずのグローブを、しまい忘れていた事を思い出した。
(……そっちか)
怖いんやなくて。
離れたくないんやなくて。
——戻したいんやろ
喉の奥で、
言葉が引っかかる。
「なんか言うてた?」
返事はない。
その代わり、
ぎゅっと、
シーツを掴む指。
「なんとなく、分かるけど」
一瞬、間。
「俺のこと、戻したいんやろ」
空気が、
止まる。
否定しない。
できない。
その反応が、
そのまま答えやと思った。
「……そっか」
小さく、息を吐く。
怒りじゃない。
でも、
簡単に流せるもんでもない。
「……優しいな」
ぽつりと落ちる声。
でもその言葉は、
どこか苦い。
「でもな」
一歩、近づく。
「俺が、決める」
はっきりと言う。
強くはない。
詩の指が、
さらに強くシーツを掴む。
「詩が背負うことちゃう」
言い切る。
その瞬間——
詩の肩が、
わずかに震える。
その目が
驚いたように開いて固まった。
(……あ)
気づく。
間違えた。
その時。
「……違う」
声にはならない。
でも、
はっきりと、
そう言った口の動き。
昂汰の動きが、
止まる。
「……違う?」
思わず、拾う。
その一言で、
空気が変わる。
詩の、
視線が強くなる。
ぐしゃぐしゃのままの表情。
でも、
逸らさない。
震える唇が、
必死に形を作る。
——いきたい、よね
一瞬、
理解が遅れる。
次の瞬間、
胸の奥を、
何かが強く打つ。
(……ああ)
違った。
全部、違った。
戻したい、じゃない。
——行きたいって、言いたいんや
戻したいんやと思ってた。
コーチの動画見て、揺れて、怖くなって。
そうやって、外に向かうもんやと。
でも。
詩の目は、
そっちを見てなかった。
ずっと、
自分の方を見てた。
喉が詰まる。
さっきの自分の言葉が、
頭の中で響く。
(……最悪や)
ぐっと、
歯を食いしばる。
でも、
ここで引いたら、
もっと傷つける。
「……なんや、それ」
掠れた声。
責めてるんじゃない。
追いついてないだけの声。
「応援したいってことか」
確認するみたいに、
でも、
少しだけ苦しそうに。
詩は、
答えない。
でも、
逸らさない。
今度こそ
それが、答えやった。
長い、沈黙。
やがて、
大きく息を吐く。
「……ずるいわ」
ぽつりと落ちる。
本音。
「そんなん言われたら、戻りたなるやろ」
苦く笑う気配。
「……けどな」
「それでも、今は行かん」
はっきりと言う。
さっきより、
ずっと静かに。
「詩がまだ、こんなんやのに」
言いかけて、
止まる。
(……ちゃう)
違う言い方を、
探す。
少しだけ、
間。
「俺が……離れたくないんや」
落ちた言葉は、
思っていたよりも、
ずっと正直だった。
空気が、
変わる。
そのまま、
そっと、手を伸ばす。
今度は、
迷わない。
頬に触れる。
びく、と反応。
でも、
逃げない。
「……うた」
低く呼ぶ。
「どっちも、欲しいんやろ」
逃がさない言葉。
「俺が行くのも」
「ここにおるのも」
一瞬、間。
「わがままやな」
でも、
否定しない声。
そのまま、
ゆっくりと、引き寄せる。
今度は、
ためらわない。
「……ええよ」
耳元で、
小さく落ちる。
「それぐらい、欲張れ」
ぎゅっと、
抱きしめる腕に、
さっきより、
ほんの少しだけ力がこもる。
逃がさない。
でも、
押し潰さない強さで。
「2人で、欲張ろう」




