第九話 旗の下へ
青い旗が、泥の上で淡く光り始めた。
裂けた布の奥から、獅子と五つ星の紋章だけが浮かび上がる。光は強くない。夜を昼のように照らすほどでも、黒牙王を吹き飛ばすほどでもない。ただ、旗の周囲に集まっていた黒牙狼たちが、一斉に足を止めた。
低く唸っていた狼たちが、後ずさる。
黒牙王ヴァルグだけは動かなかった。
赤い目を細め、旗を見つめている。
「旗手の加護……」
リゼットが、息を呑むように呟いた。
黒牙王の前に立ったまま、彼女は俺を振り返る。
「ユウ。旗を取れ」
「でも、黒牙王が」
「今だけ、狼どもは近づけない。急げ」
リゼットの声に押され、俺は噴水の残骸へ走った。
旗まで数歩。
黒牙王が唸る。
その音だけで、足が止まりそうになる。目の前にいるのは、二十人以上で挑むレイドボスだ。俺はレベル一で、契約者もいない。今この場で一番弱いのは間違いなく俺だ。
それでも、旗は目の前にある。
リゼットが守ろうとしたもの。
城を維持するために必要なもの。
そして、彼女が一人になっても手放さなかったもの。
俺は泥へ手を伸ばした。
旗竿に触れた瞬間、手のひらへ冷たい感触が伝わる。
次の瞬間、視界に表示が浮かんだ。
《第七騎士団旗を回収しました》
《旗手の権限を一時的に付与します》
《旗の下にいる者へ、微弱な士気補正を付与します》
「一時的?」
意味を考える暇はなかった。
黒牙王が動いた。
ヴァルグの前脚が石畳を砕く。巨体がこちらへ踏み込んでくる。リゼットが剣を振るが、さっきまでとは違う。彼女の身体を淡い青い光が包み、剣の軌跡がわずかに伸びた。
旗の効果だ。
ほんの少しだけ。
それでも、黒牙王の前脚を避けるには足りた。
リゼットの剣が、ヴァルグの鼻先を深く斬りつける。黒牙王が顔を背け、怒りの咆哮を上げた。周囲の黒牙狼たちが一歩下がる。
「水路へ!」
リゼットが叫ぶ。
俺は旗を抱え、崩れた噴水の陰へ走った。旗竿は折れていたが、持てないほどではない。青い布が風を受け、背後で小さくはためく。
黒牙王の気配が、背中へ迫る。
走りながら、俺は短杖を握った。何かできないか。拘束術は一瞬しか止められない。能力強化術はリゼットにかけたばかりで、再使用まで少し時間がいる。
でも、黒牙王を止める必要はない。
逃げ切るために、ほんの一瞬だけ遅らせればいい。
俺は振り返らずに短杖を後ろへ向けた。
《初級拘束術》
淡い鎖が地面を走る。
狙ったのは黒牙王ではない。
俺たちの横から回り込もうとしていた黒牙狼の一頭だ。鎖が前脚へ絡みつき、狼が石畳の上で転ぶ。その身体へ、後ろから走ってきた別の狼がぶつかる。
道が少しだけ塞がる。
リゼットがその横を抜け、俺の前へ出た。
「右へ曲がれ!」
彼女が指した先には、崩れた外壁と瓦礫の山がある。水路へ戻るには、最初に通ってきた道を引き返すより近い。だが、瓦礫の間は狭く、黒牙王の巨体なら通れないかもしれない。
俺たちは瓦礫の隙間へ飛び込んだ。
旗竿が石にぶつかる。
青い布が引っかかり、俺は慌てて引き寄せた。後ろでは、黒牙狼たちが瓦礫を飛び越えようとしている。リゼットが振り返り、一頭の顔へ剣を突き出した。
狼が倒れる。
けれど次が来る。
リゼットのHPは、もうほとんど残っていない。
「旗を渡せ!」
彼女が言った。
「え?」
「両手が塞がっている。水路を抜けるまで、私が持つ」
俺は旗を差し出した。
リゼットが受け取る。
その瞬間、旗の光が少し強くなった。
青い光が、彼女の鎧と外套を包む。裂けた旗布が風を受けて広がり、夜の中で獅子の紋章がはっきりと浮かんだ。
黒牙狼たちが、また足を止めた。
リゼットは旗を左手に、剣を右手に持つ。
傷だらけの騎士団長が、部下のいない旗を掲げている。
それだけの姿なのに、さっきまでの彼女よりずっと大きく見えた。
「進め、ユウ」
その声は、命令だった。
けれど以前のように、俺を置いていくための命令ではない。
同じ場所へ進むための命令だった。
瓦礫を抜けると、北側の崖下へ続く水路の入口が見えた。あと少しで戻れる。俺は走った。背後で黒牙王が壁へ身体をぶつける音がする。巨体は瓦礫の隙間へ入れない。けれど、壁を壊せば時間の問題だ。
水路の入口まで辿り着いたところで、リゼットが急に足を止めた。
旗を持つ左腕が下がる。
「リゼットさん?」
返事がない。
彼女のHPバーが、ついに赤い点だけになっていた。
さっきから無理を重ねすぎた。黒牙王の攻撃を避け、狼を斬り、旗の加護まで受けて動いた。その代償が、今になって来たのだ。
リゼットの身体が傾く。
俺は慌てて支えた。
「大丈夫ですか」
「旗を……持て」
「今は回復薬を」
「残っているなら、お前が使え。私は――」
「俺はまだ使ってません」
バッグには、最後の初心者用回復薬が一本残っている。
俺は取り出して、リゼットへ渡そうとした。
しかし彼女は受け取らない。
「お前が負傷したときのために取っておけ」
「今、負傷してるのはリゼットさんでしょう」
「騎士団長は、部下より先に薬を使わない」
「部下じゃないです」
言ってから、リゼットの目がわずかに揺れた。
俺は瓶を彼女の手に押しつけた。
「まだ契約もしてない。ただクエストで会っただけです。だから、騎士団長とか部下とか、そういうのは後で決めればいい」
黒牙王が、瓦礫を壊す音が近づく。
時間がない。
「今は、生きて戻りましょう」
リゼットはしばらく瓶を見ていた。
やがて、ゆっくりと栓を抜く。
中身を飲むと、淡い光が彼女を包んだ。HPバーが少しだけ上がる。立ち上がれる程度には回復したらしい。
「……命令違反だ」
「はい」
「だが、今回は不問にする」
「助かります」
リゼットは旗を俺へ返した。
「水路へ入れ。私が後ろを守る」
「今度は一緒に入ります」
「狭い。前後に分かれたほうがいい」
「じゃあ俺が前で、リゼットさんが後ろですね」
「そう言っている」
俺たちは水路へ飛び込んだ。
冷たい水が膝まで跳ねる。入口の石壁が、背後から入ってくる狼たちを一瞬だけ遮る。俺は旗を抱えて走り、リゼットは後ろで剣を構えた。
黒牙狼が一頭、水路へ飛び込んでくる。
狭い通路では一度に一頭しか来られない。リゼットの剣が、最初の狼を止める。二頭目が来る前に、俺は入口脇の水門レバーを見つけた。
さっき通ったとき、鉄格子を横へ上げた仕組みと同じだ。
「リゼットさん、下がって!」
俺が叫ぶ。
彼女が後ろへ飛ぶ。
俺はレバーを引いた。
水路の上から、重い鉄格子が落ちてきた。
黒牙狼の鼻先を押し潰すように格子が閉じる。向こう側で狼たちが唸り、鉄を引っ掻く。けれど、今度の格子は簡単には壊れない。
黒牙王の咆哮が響く。
水路の入口近くまで来たらしい。
だが、巨体は狭い水路へ入れない。
俺たちは冷たい水の中を走り続けた。
しばらく進み、兵舎の地下へ戻る石壁を抜けたところで、ようやく足を止める。
後ろから聞こえていた狼の声が、少しずつ遠くなった。
リゼットは壁に背を預け、目を閉じた。
俺もその場に座り込む。
旗は無事だった。
裂けてはいる。泥にも汚れている。けれど、獅子と五つ星の紋章は、まだ青く光っていた。
視界に通知が浮かぶ。
《第七騎士団旗を回収しました》
《城の維持率が上昇しました》
《城の維持率:71%》
続けて、見慣れない表示が現れる。
《旗手の権限を返還します》
《第七騎士団は、新たな旗手を必要としています》
表示の下に、二つの選択肢が浮かんだ。
《旗を騎士団長へ返す》
《旗を掲げる者を選ぶ》
俺は、すぐには選べなかった。
隣で目を閉じていたリゼットが、ゆっくりと顔を上げる。
彼女も、同じ表示を見ているようだった。




