第十話 第一の盟約
《第七騎士団旗を返還する》
《第七騎士団旗と盟約を結ぶ》
視界に浮かんだ二つの選択肢を見て、俺は息を止めた。
旗を返還する。
それなら、ここまでと何も変わらない。リゼットは亡国の騎士団長として旗を持ち、俺はユニーククエストを見つけたプレイヤーとして、この城を去る。
もう一つは、盟約を結ぶ。
説明を開くと、短い文章が表示された。
《盟約》
《旗の継承者は、旗の下に残る者と契約を結ぶことができる》
《契約者は召喚可能な仲間となり、継承者と共に戦う》
《現在の契約枠:1》
《未契約》
俺は、表示を見つめたまま動けなかった。
最初の契約枠。
サモナーとして選んだ、たった一つの枠だ。
本来なら、召喚士協会で牙狼や精霊や妖精を選び、最初の召喚獣を契約するはずだった。普通のサモナーは、最初の一体を育て、進化させ、状況に応じて別の一体と契約を切り替えながら戦う。
けれど俺は、その前にこの城へ来た。
そして今、その一枠へ登録できる名前が表示されている。
《契約対象:リゼット・アークレイン》
《亡国の騎士団長》
「……リゼットさん」
俺が呼ぶと、旗を見ていた彼女が顔を上げた。
どうやら、同じ表示が見えているらしい。
彼女の視線が、俺の前に浮かぶ《盟約》の文字へ向く。地下水路の外では、黒牙狼たちが鉄格子を引っ掻く音が続いている。遠くでは黒牙王ヴァルグの唸り声も聞こえた。
夜明けまで城を維持しなければならない。
考えている時間はない。
それでも、俺はすぐに選べなかった。
契約する。
ゲームの中では、当たり前の言葉だ。
だが、リゼットは牙狼でも、土の精霊でもない。部下を失っても城を守り続けていた騎士団長だ。俺が選べば、彼女は俺の最初の契約者になる。必要なときに召喚でき、共に戦う仲間になる。
そんなことを、一方的に決めていいわけがない。
「これは……何だ」
リゼットが、旗を見ながら言った。
「サモナーの契約に近いものです。俺が盟約を結べば、リゼットさんを仲間として召喚できるようになるって」
「私を、召喚する?」
「はい」
「私は魔物ではない」
「分かってます」
「ならば、なぜそんなものが表示される」
「多分、この旗の力です」
俺にも分からない。
ただ、旗が俺を継承者として認め、リゼットを契約対象として表示している。それだけは間違いなかった。
リゼットは少しだけ目を伏せた。
「旗を返せば、私はこの城に残る」
「そうですね」
「盟約を結べば、私はお前と共に城を出るのか」
「多分」
「この城はどうなる」
すぐには答えられなかった。
城は壊れかけている。外には黒牙王がいる。第七騎士団の部下は誰も残っていない。ここに残ったとしても、リゼット一人で守り続けられるとは思えない。
でも、それを俺が言えば、ただ彼女から城を奪うように聞こえる。
「俺は、この城を捨てろとは言いません」
リゼットがこちらを見る。
「でも、一人で守り続けるのは違うと思います。今まで守ってきたものを大事にするのと、ここで一人で終わるのは、同じじゃない」
「お前に何が分かる」
低い声だった。
怒鳴られたわけではない。
けれど、俺は言葉を失った。
分かるはずがない。
俺は今日、このゲームを始めたばかりだ。リゼットが何を見て、誰を失い、どれだけここで戦ってきたのか、何一つ知らない。
「分かりません」
正直に言った。
「分からないです。でも、リゼットさんが一人で黒牙王の前に立つのを見て、旗を捨てられなかったのを見て……俺は、そのまま終わってほしくないと思った」
水路の中で、旗の青い光が揺れる。
「俺はまだ弱いです。サモナーなのに契約者もいないし、黒牙狼一頭を止めるだけで精一杯です。でも、もし盟約を結べるなら、リゼットさんを一人にしないために使いたい」
それは、立派な理由ではないかもしれない。
最強の軍勢を作るためでもない。
レアスキルを手に入れるためでもない。
ただ、ここで出会った騎士団長が、一人で終わるのが嫌だった。
「俺と盟約を結んでください」
リゼットは黙っていた。
鉄格子の向こうで、黒牙狼が吠える。
その声を聞きながら、彼女は折れた旗竿へ視線を落とした。
「盟約を結べば、私はお前の命令に従うのか」
「俺は、リゼットさんを道具みたいに扱うつもりはないです」
「質問への答えになっていない」
「……戦うときは、俺が指示を出すこともあると思います。でも、リゼットさんが嫌だと思うことを無理にやらせたいわけじゃない」
「甘いな」
「そうかもしれません」
「戦場で迷えば、死ぬ」
「だから、リゼットさんに教えてもらいます」
彼女の目が、少しだけ見開かれる。
「俺は軍勢の作り方も、城の守り方も知りません。だからリゼットさんの力が必要です。でも、俺が決めるべきことは俺が決めます。誰と盟約を結ぶか。何を守るか。どこへ向かうか」
言いながら、自分でも不思議だった。
数時間前まで、俺は最初の召喚獣を何にするか迷っていた。
今は、亡国の騎士団長へ仲間になってほしいと頼んでいる。
無茶だと思う。
でも、ここで引き返したら、何のためにこの旗を取りに行ったのか分からない。
「リゼットさんは騎士団長のままでいてください」
俺は続けた。
「俺の部下になる必要はない。でも、俺の最初の仲間になってほしい」
長い沈黙が落ちた。
やがて、リゼットは旗を抱えたまま立ち上がった。
鎧は傷だらけだ。HPも十分には戻っていない。けれど、最初に中庭で見たときより、彼女の立ち姿はまっすぐだった。
「ユウ」
初めて、彼女が俺の名前を呼んだ。
「私は、第七騎士団長リゼット・アークレインだ」
「はい」
「部下を失った。国を失った。守るべき城も、今は崩れかけている」
リゼットは、旗の獅子の紋章へ指を触れた。
「だが、旗を捨てるつもりはない」
「俺も、捨ててほしくないです」
「ならば、盟約を受ける」
旗の光が強くなる。
青い光が水路の壁を照らし、足元の水面に揺れた。
「お前が旗の継承者として進むなら、私は騎士団長としてその道を守る。お前が誤ったときは止める。戦うべきでない戦いなら、剣を抜かせない」
「それでいいです」
「そして、お前が逃げるなら引きずってでも連れ戻す」
「それはちょっと怖いです」
「盟約だ。覚悟しろ」
リゼットが旗を掲げた。
俺の目の前に、最後の確認が表示される。
《盟約を締結しますか?》
《対象:リゼット・アークレイン》
《契約枠を1使用します》
《この契約は、対象者の同意により成立します》
はい。
いいえ。
俺は迷わず、はいを選んだ。
光が弾けた。
青い旗の紋章から伸びた光が、俺とリゼットの間を結ぶ。光は細い鎖のように見えたが、締めつけるものではなかった。手を伸ばせば届く距離を、確かめるように繋ぐ光だった。
《盟約が成立しました》
《最初の契約者を獲得しました》
続けて、視界に二つのステータスウィンドウが開く。
【盟約主】
名前:ユウ
レベル:1
職業:サモナー
HP:100/100
MP:80/80
筋力:5
防御:4
魔力:8
敏捷:6
契約枠:1/1
契約者:リゼット・アークレイン
【契約者】
名前:リゼット・アークレイン
レベル:25
種族:人間
役職:亡国の騎士団長
HP:184/620
MP:96/210
筋力:42
防御:35
魔力:16
敏捷:30
契約状態:盟約済み
《契約称号:部下ゼロの騎士団長》
《固有スキル《征服の盟約》を獲得しました》
さらに、スキルの詳細が開く。
《征服の盟約》
《戦いを経て、互いの力と意志を認め合った者と、盟約を結ぶことができる》
《盟約には契約枠が必要です》
《契約者は意思を持つ仲間として扱われます》
《現在の契約枠:1/1》
「レベル二十五……」
思わず、リゼットのステータスを見直す。
俺はレベル一。
リゼットは二十五。
数値だけでも大きな差がある。筋力も防御も敏捷も、俺とは比べものにならない。黒牙王へ何度も立ち向かえた理由が、ようやく分かった。
その一方で、HPは半分以下。MPもかなり減っている。
「どうかしましたか」
俺が聞くと、リゼットは自分のステータス表示を見た。
「……お前には、ここまで見えるのか」
「見えます。リゼットさんにも、俺のが見えてますよね」
「レベル一のサモナーが、なぜこの城まで来たのかという疑問は残るが」
「それは本当に偶然です」
「偶然でレイドボスの縄張りへ入るな」
「すみません」
リゼットは剣を握り直した。
彼女の身体を包んでいた光が消える。HPが全快したわけではない。鎧の傷も消えない。けれど、さっきまでより呼吸は落ち着いていた。
「大丈夫ですか」
「問題ない」
「今度は本当に?」
「契約者の状態は、盟約主にも見えるのだろう」
「見えます」
「ならば、嘘はつけないな」
リゼットは、少しだけ口元を緩めた。
その瞬間、地下水路の鉄格子が大きく歪んだ。
黒牙狼たちが、外から一斉にぶつかっている。
さらに奥から、黒牙王ヴァルグの咆哮が響いた。
リゼットは俺を見る。
「盟約主」
「その呼び方は、まだ慣れませんね」
「では、ユウ。次はどうする」
俺は短杖を握り、鉄格子の向こうにある暗闇を見た。
初めての契約者。
最初の仲間。
そして、まだ一体も倒せていないレイドボス。
「城を守ります。夜明けまで」
リゼットは頷いた。
「了解した。騎士団長として、全力で戦おう」




