第八話 旗を取り戻せ
封鎖壁の向こうに残された青い旗を見て、リゼットはしばらく何も言わなかった。
城門封鎖壁は中庭を二つに分けている。俺たちがいるのは兵舎や地下司令室のある内側。旗が落ちているのは、壊れた噴水と城門がある外側だ。壁を上ることはできない。壁を下ろせば、黒牙王ヴァルグと黒牙狼たちが城内へ流れ込んでくる。
それでもクエストの表示は、旗の損傷を赤く点滅させ続けていた。
《騎士団旗:損傷》
《旗が失われた場合、城の維持率が低下します》
「城を維持するために必要なら、回収しないと駄目ですね」
俺が言うと、リゼットは封鎖壁の紋章を見上げた。
「旗は、城の設備ではない」
「でも、クエストには必要だって出ています」
「それでも、あれは……」
言葉が途切れる。
リゼットが握る剣の柄には、血がついていた。鎧も外套も傷だらけだ。彼女はこの城に残った最後の騎士で、あの旗は、その騎士団がここにいた証なのだろう。
俺は中庭の瓦礫に埋もれた旗を見た。
旗竿は折れ、青い布は泥に沈んでいる。けれど獅子と五つ星の紋章だけは、かろうじて見えていた。
「旗を取りに行きましょう」
「壁を開けるのか」
「正面からは開けません」
「なら、どうする」
俺は地下司令室の地図を思い出した。
城には地下水路がある。さっき狼の侵入を防ぐため、鉄格子を直した場所だ。その水路は城の外へ繋がっている。黒牙狼が入り込めたということは、逆にこちらからも抜けられる可能性がある。
「地下水路です。城の外へ出る道があるなら、壁を開けずに中庭側へ回れるかもしれません」
リゼットはすぐには答えなかった。
やがて、小さく頷く。
「水路は北の崖下へ繋がっている。だが、城の外へ出れば黒牙王の縄張りの中だ。あいつは今、封鎖壁の外で待っている」
「中庭にいるとは限らないんですよね」
「谷を離れてはいない」
「じゃあ、見つからないように行くしかない」
「簡単に言う」
「簡単じゃないです。でも、他に方法がないなら」
俺が言うと、リゼットは少しだけ目を細めた。
「お前は、恐ろしくないのか」
「怖いです」
即答した。
レイドボス級の黒狼が外で待っている。俺はレベル一で、契約召喚獣もいない。戦えるのは傷だらけの騎士団長だけだ。怖くないはずがない。
「でも、怖いからって何もしなかったら、旗も城も守れないでしょう」
リゼットは返事をしなかった。
ただ、剣を握る手から少しだけ力を抜いた。
「地下水路へ向かう。先頭は私だ」
「俺が地図を見ます。道を間違えたら困るので」
「戦闘になったら、私の後ろへ下がれ」
「分かりました」
「勝手に前へ出るな」
「……善処します」
「善処ではない。守れ」
言い方は厳しい。
けれど、さっきまでのような一方的な命令ではなかった。俺が一緒に行くことを前提にした言葉だった。
地下水路の鉄格子まで戻る。
俺が鎖で固定した格子の向こうでは、黒牙狼たちがまだこちらを窺っていた。数は減っている。おそらく、大半は黒牙王の近くへ戻ったのだろう。
リゼットは格子の脇にある古い水門を調べた。
「ここから先は、外へ流れる排水路だ。普段は水が深く、鎧を着たままでは進めない」
「今は?」
「雨が少ない時期なら、通れる」
リゼットは剣を鞘へ納め、壁に埋め込まれたレバーを引いた。
ごご、と音がする。
鉄格子の横にあった石壁が少しずつ持ち上がり、人が一人通れる程度の隙間ができた。その向こうには、浅い水路が続いている。水は足首ほどの深さで、冷たい水が黒い闇へ流れていた。
《地下水路・北側排出口を発見しました》
通知が表示される。
俺たちは水路へ入った。
水音を立てないように歩くのは難しい。靴が水を踏むたび、小さく波が広がる。壁は低く、ところどころ天井が崩れていた。俺は短杖の先に小さな灯りを浮かべる。明るくしすぎれば外から見つかるかもしれないので、足元が見える程度の光だ。
リゼットは俺の少し前を歩いている。
鎧が水に触れるたび、金属の音が響く。彼女もできる限り静かに動いているが、完全には消せない。俺は何度か後ろを振り返った。背後には暗い通路だけが続いていて、狼の姿はない。
しばらく進むと、水路の先から外の風が入ってきた。
出口だ。
リゼットが片手を上げ、俺を止める。
彼女は壁際へ寄り、外の様子を確かめた。俺も少しだけ顔を出す。水路の出口は、城の北側にある崖下へ繋がっていた。城壁の外とはいえ、中庭のすぐ近くだ。壊れた石垣の裏を通れば、旗の落ちている噴水まで行ける。
ただし、谷は静かすぎた。
黒牙狼の姿がない。
遠吠えも聞こえない。
城の外には、さっきまで何十頭もいたはずなのに、今は風が草を揺らす音しかしなかった。
「いない?」
俺が小さく聞くと、リゼットは首を横に振った。
「見えていないだけだ」
「黒牙王も?」
「黒牙王は、姿を隠して狩る」
嫌な説明だった。
俺たちは水路から出た。
崖下の岩陰を使い、壊れた外壁へ沿って進む。夜空には雲がかかり、月明かりはほとんどない。中庭の様子も、遠くにある封鎖壁の青い光だけがぼんやり照らしている。
旗までは近い。
ほんの数十歩。
それなのに、その距離が異様に長く感じた。
瓦礫を越えたところで、リゼットが止まった。
地面に、黒い毛が落ちている。
新しいものだ。
さらに少し進むと、石畳に深い爪痕があった。黒牙王のものだ。爪痕は中庭へ続いているが、途中で途切れている。
リゼットが周囲を見回す。
「警戒しろ」
「はい」
俺は短杖を握った。
戦えないのに、握るしかない。
噴水の近くまで来る。青い旗は、さっき見た場所に落ちていた。泥で汚れ、裂けている。けれど、風が吹くたび、獅子と五つ星の紋章がわずかに揺れた。
俺が駆け寄ろうとすると、リゼットが腕を掴んだ。
「待て」
「どうしたんですか」
彼女は旗の周囲を指差す。
石畳の上に、細い線がある。
最初はひび割れに見えた。だがよく見ると、黒い毛が何本も絡められ、瓦礫の下へ伸びている。誰かが仕掛けた罠のようだった。
「黒牙狼が?」
「狼どもに、ここまで器用な真似はできない」
「じゃあ、誰が」
答えはなかった。
次の瞬間、瓦礫の下から黒い影が飛び出した。
狼ではない。
黒い鳥だった。
翼を広げれば人間の腕ほどもある大きさ。嘴は鋭く、目は赤い。何羽もいた。旗の周囲に隠れていた鳥たちが、一斉に空へ舞い上がる。
《黒牙の監視鳥》
《レベル:8》
「見張り……?」
鳥たちは城の上空へ散っていく。
リゼットが剣を抜いた。
「戻れ。黒牙王に位置を知らせる」
「旗は」
「今は――」
谷を揺らす咆哮が響いた。
遠くではない。
中庭の外壁、そのすぐ向こうから。
黒牙王ヴァルグが、崩れた石垣の上へ姿を現した。
赤い目が、俺たちを見下ろしている。
最初から待っていたのだ。
旗を取りに来る者を。
リゼットが俺の前へ出る。
「水路へ戻れ」
「でも、旗が」
「今は命を優先しろ!」
黒牙王が石垣から飛び降りた。
着地の衝撃で、噴水の残骸が跳ねる。巨体は俺たちと旗の間に立ち、低く唸った。周囲の闇から、黒牙狼たちが次々と姿を現す。
完全に囲まれている。
水路へ戻るには、黒牙王の横を抜けなければならない。
封鎖壁へ走っても、壁は閉じている。
俺は短杖を握り、周囲を見回した。
逃げ道はない。
けれど、黒牙王はすぐには襲ってこなかった。
赤い目は俺ではなく、リゼットを見ている。
そして、その視線が青い旗へ移った。
黒牙王が一歩、旗へ近づく。
リゼットの表情が変わった。
「触れさせるな」
彼女は、残りわずかなHPで黒牙王へ踏み込んだ。
剣が振り下ろされる。
その瞬間、俺の視界に見慣れない通知が浮かんだ。
《騎士団旗が反応しています》
《旗を守る意思を確認》
青い旗が、泥の上で淡く光り始めた。




