第五話 部下ゼロの司令室
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倉庫の入口に立っていたリゼットは、剣を引きずっていた。
鎧のあちこちが割れ、青い外套はほとんど原形を留めていない。左肩から流れた血が腕を伝い、指先から床へ落ちていた。それでも彼女は倒れていない。俺を見つけると、荒い息のまま一度だけ頷いた。
「見つけたか」
その背後で、二つの赤い目が揺れる。
黒牙王ヴァルグは地下通路の入口まで来ていた。巨体のせいで倉庫へは入り込めない。けれど頭を低くし、肩を石壁へ押しつけるたび、通路の天井から細かな砂が落ちてくる。
ここに留まれば、いずれ壁ごと壊される。
「ありました。旧司令室の鍵らしいです。でも、防衛設備を動かすには騎士団長の承認が必要だって」
俺は指揮剣を掲げた。
リゼットの視線が、短剣の柄に刻まれた紋章へ落ちる。
ほんの一瞬、彼女の表情が変わった。
ずっと張りつめていた顔から、何かが抜け落ちたように見えた。驚きなのか、懐かしさなのか、それとも痛みなのか。俺には分からない。
「それを……どこで」
「奥の扉の前にありました。司令室はすぐそこです」
「なら、急ぐぞ」
リゼットは振り返り、背後の黒牙王へ剣を向けた。
ヴァルグが低く唸る。
獣の吐息が倉庫の中まで届いた。鼻先には、リゼットがつけたらしい浅い傷がある。だがHPバーはほとんど減っていない。あれだけの攻防をして、削れたのはほんのわずかだ。
リゼットは剣を構えたまま、俺へ短く言った。
「司令室へ向かえ。私はこいつを足止めする」
「またですか」
「今度は、すぐ追う」
「本当に?」
「騎士団長が部下に嘘をつくと思うか」
俺は言い返しかけて、やめた。
リゼットは俺を部下だと思っているのかもしれない。あるいは、この状況で命令を聞いた俺を、そう扱うことにしたのかもしれない。
どちらにせよ、彼女は一人で残るつもりだった。
「……分かりました。でも、これを持っていってください」
俺は指揮剣を差し出した。
リゼットは受け取らなかった。
「鍵はお前が持て」
「でも承認には、これが必要なんじゃ」
「承認するのは私だ。お前は扉を開ける役目を果たせ」
言い終わるより早く、黒牙王が通路の石壁を爪で叩き壊した。
砕けた石が飛ぶ。
リゼットは盾を失った左腕で顔を庇い、すぐに前へ踏み込んだ。黒牙王が突き出した鼻先へ、剣を深く突き立てる。ヴァルグが咆哮し、頭を振る。リゼットの身体が壁へ叩きつけられた。
「行け!」
叫び声に背中を押され、俺は隠し通路へ飛び込んだ。
走りながら、何度も後ろを振り返りそうになった。
けれど、振り返れば足が止まる。
俺にできることは、司令室を開けることだけだ。
地下通路の奥にある扉まで戻る。獅子と五つ星が描かれた青い旗。その中央の鍵穴へ、俺は指揮剣を差し込んだ。
かちり、と小さな音がした。
短剣を回す。
重い石扉が、ゆっくりと内側へ開いていく。
その先には、円形の部屋があった。
天井は高く、壁一面には古い地図が描かれている。王都、街道、森、河川、そして廃城を中心にした周辺の地形。床の中央には大きな円卓があり、その上には小さな駒が並んでいた。
騎士の駒。
弓兵の駒。
騎馬兵の駒。
魔術師の駒。
そして、円卓の端には黒い狼の駒がいくつも置かれている。
部屋へ入った途端、視界に表示が浮かんだ。
《旧第七騎士団司令室を発見しました》
《防衛設備:待機》
《稼働可能部隊:0》
《稼働可能兵器:3》
《司令権限者の承認を待機中》
「部隊、ゼロ……」
分かっていたはずなのに、文字で見ると重い。
この城には、リゼット以外に誰もいない。
騎士団の司令室なのに、動かせる兵士は一人もいない。
円卓の上に並んだ小さな駒を見ていると、さっき兵舎で見つけた点呼札を思い出した。百二十人いた騎士団。今は一人だけ。
俺は中央の円卓へ近づいた。
地図の上、廃城の外周に赤い光が点滅している。黒牙王の位置らしい。赤い光の周囲には、小さな黒い点が無数に集まっていた。黒牙狼の群れだ。
城門は破壊寸前。
西塔は半壊。
城内にはすでに敵が侵入している。
その情報が、地図の上に淡々と表示されていく。
《東門:防衛不能》
《西塔:崩壊危険》
《兵舎:敵性個体の侵入を確認》
《地下通路:一部封鎖》
そして最後に、一行だけ赤く表示された。
《騎士団長の生命反応が危険域に到達しました》
「リゼットさん……」
俺は司令室の入口へ振り返った。
戻るべきか。
でも、俺が戻っても何もできない。短杖で黒牙王を殴ったところで、笑われるだけだ。拘束術は黒牙狼を一瞬止める程度。能力強化術も、使う相手がリゼット一人なら、ほんの少し動きを上げるくらいしかできない。
それでも、何もしないよりは――。
そう思ったとき、司令室の奥で音がした。
かち、かち、と。
円卓の向こう、壁に埋め込まれた金属板が淡く光っている。その上には三つのレバーがあり、それぞれの横に文字が刻まれていた。
《外周落とし戸》
《城門封鎖壁》
《西谷崩落》
俺は近づいた。
どれも、今すぐ使えばいいように見える。
だが表示を開くと、すべて使用条件が残っていた。
《騎士団長の承認が必要です》
《使用後、当該設備は再利用できません》
《範囲内に味方が存在する場合、巻き込まれる可能性があります》
西谷崩落。
地図で確認すると、城の正面から谷の外へ続く唯一の道だ。そこを崩せば、黒牙王たちは簡単には城へ近づけなくなるかもしれない。
ただし、城の外へ逃げる道も消える。
城門封鎖壁は、すでに城内へ入り込んだ狼たちを中庭へ閉じ込めることができる。だがリゼットも中庭にいる。
外周落とし戸は、城壁を登ってくる狼を落とせる。けれど黒牙王には通じないだろう。
俺はレバーの前で立ち尽くした。
選べない。
どれを使えば助かるのか、どれを使えばリゼットを殺さずに済むのか、レベル一の俺には判断できなかった。
そのとき、司令室の外から足音が聞こえた。
鎧が石床を擦る音。
俺は扉へ駆け寄った。
「リゼットさん!」
入ってきた彼女は、壁に手をついていた。
HPバーは、残りわずかだった。
鎧の隙間から血が流れ、剣を持つ右腕も震えている。けれど、彼女は俺を見て「無事か」と言った。
「俺は大丈夫です。こっちです、防衛設備があります」
俺は彼女を円卓まで支えた。
リゼットは地図を見るなり、眉を寄せた。
「西谷崩落は使うな」
「どうしてですか。道を塞げば、黒牙王を止められるかもしれません」
「西谷の先には、谷の民の集落がある。崩落で川を塞げば、下流の畑まで水に沈む」
「でも、この城が落ちたら」
「だからといって、守るために別の者を犠牲にするな」
迷いのない声だった。
部下は一人もいない。
国もない。
城だって半分崩れている。
それでも彼女は、城の外にいる誰かを巻き込む選択をしなかった。
リゼットは次に、城門封鎖壁の表示を見た。
「これを使う」
「中庭にはリゼットさんがいます」
「今から誘導する。黒牙王を中庭へ入れ、封鎖壁を落とせ」
「そんなことをしたら、リゼットさんも中に残ります」
「私は地下通路へ退く」
「間に合わなかったら?」
「間に合わせる」
言い切る声に、俺は何も返せなかった。
リゼットは円卓の中央へ手を置いた。
すると、部屋の中に淡い光が走る。
《司令権限者を確認》
《第七騎士団長リゼット・アークレインによる防衛設備の使用を許可します》
金属板の前に、新しいウィンドウが開いた。
《城門封鎖壁:待機》
《起動者を指定してください》
表示の下に、俺の名前があった。
リゼットは、俺を見る。
「ユウ」
初めて、名前を呼ばれた。
「城門の壁を落とす役目を任せる。私が黒牙王を中庭へ引き込んだら、迷わず起動しろ」
「でも」
「これは命令だ」
俺は唇を噛んだ。
命令だから従う、というのは簡単だ。
でも、その命令は、リゼットが自分を危険に投げ込むものだった。
「……命令なら、ちゃんと戻ってきてください」
俺が言うと、リゼットは少しだけ目を見開いた。
そして、ほんのわずかに笑った。
「了解した」
彼女は剣を握り直し、司令室の外へ向かう。
扉の前で、一度だけ立ち止まった。
「狼煙を上げた者よ。旗を見失うな」
それだけ言って、リゼットは暗い地下通路へ消えた。
俺は司令室に残された。
目の前には、城門封鎖壁の起動レバー。
地図の上では、赤い光が中庭へ近づいている。
リゼットの生命反応も、同じ場所へ向かっていた。
黒牙王が中庭へ入り、リゼットが地下通路へ逃げ込む。その一瞬に、俺はレバーを下ろす。
少しでも早ければ、彼女を閉じ込める。
少しでも遅ければ、黒牙王を逃がす。
視界の端で、クエストログが更新された。
《部下ゼロの騎士団長》
《第四目標:騎士団長の命令を遂行せよ》




