第三話 狼煙
城門へ向けて、巨大な黒狼が前脚を振り下ろした。
轟音と共に、鉄で補強された城門が内側へ大きく歪む。城壁の石が震え、西塔の足元まで細かな砂が落ちてきた。俺は塔の上で、狼煙筒を抱えたまま動けなくなっていた。
《黒牙王ヴァルグ》
表示された名前の下には、赤いHPバーが長く伸びている。その横にある危険度表示は、初心者向けモンスターのものとはまるで違った。
《危険度:レイドボス級》
《推奨攻略人数:二十名以上》
「二十人って……」
今、この城にいるのは俺とリゼットだけだ。
俺はレベル一。契約召喚獣なし。戦闘用のスキルは初級拘束術と、短時間だけ味方の能力をわずかに上げる補助術しかない。どちらも、まともな前衛がいて初めて意味を持つスキルだ。
対してリゼットは、HPが残り三割もない。
城門の前に立つ彼女の背中は小さく見えた。それでも、黒牙王を前にして剣を下ろす気配はない。彼女の周囲には黒い狼が何十頭も集まり、城壁の隙間や崩れた石垣から中庭へ入り込もうとしていた。
ここで狼煙を上げれば援軍が来る。
リゼットはそう言った。
だが、俺が通ってきた地下通路は、王都から直接つながる大通りではない。あの道を知っている者がどれだけいるのかも分からない。仮に王都の誰かが煙に気づいたとしても、今からここへ来るまでにどれだけかかるのか。
それでも、今の俺にできることは一つしかなかった。
狼煙台は、西塔の最上階にある石造りの台座だった。周囲には風よけの壁があり、中央には火を焚くための深い窪みがある。俺はバッグから火薬筒を取り出し、油紙を剥がした。次に、火打ち石と油壺を置く。
手が震えていた。
ゲームだ。そう言い聞かせても、下で響く咆哮が腹の底まで揺らしてくる。痛覚は軽減されている。死んでも復活地点へ戻るだけだ。分かっている。
でも、城門の前に立つリゼットは、ゲームのNPCに見えなかった。
誰もいない城を守るために、傷だらけのまま剣を構えている。
部下が一人もいないと分かっているのに、援軍を待っている。
その姿を見たあとで、自分だけ安全な場所へ逃げるのは嫌だった。
「火、つけろ……」
火打ち石を打ち合わせる。
火花が散る。
けれど、火薬筒の導火線には届かない。風が強い。焦ってもう一度打つが、火花は石床へ落ちて消えた。
城門が、また大きく揺れた。
今度は鉄が裂ける音がした。
下を見ると、リゼットが城門の内側へ飛び込んできた狼を一体斬り伏せていた。白銀の鎧が、黒い毛と血でさらに汚れる。次の狼が跳びかかる。彼女は盾で受け、剣を横へ払う。二体目は倒れるが、三体目が背後から迫っていた。
「リゼットさん!」
叫んでも届かない。
俺は短杖を握り、スキルウィンドウを開いた。初級拘束術。発動距離は短い。塔の上からでは届かない。能力強化術も、対象が遠すぎる。
何もできない。
サモナーなのに、守るべき相棒すらいない。
そのことが、今になってひどく悔しかった。
火打ち石を握り直す。火花を散らすだけでは足りない。油を使うしかない。俺は油壺の栓を抜き、火薬筒の導火線と、狼煙台の中に積まれた乾いた薪へ少しずつ垂らしていく。
油の匂いが広がる。
もう一度、火打ち石を打った。
最初の火花は消えた。
二度目も、導火線の手前で落ちた。
三度目に、細い火が油へ移った。
ぱち、と小さな音がする。
火は薪の隙間を走り、導火線へ届く。数秒遅れて、火薬筒が低い唸りを上げた。
「頼む……!」
次の瞬間、白い煙が狼煙台から噴き上がった。
最初は細い筋だった。
けれど風を受けると、一気に太くなった。白い煙は夜空へ高く伸び、谷を覆う暗闇の上へ上がっていく。城門を囲んでいた狼たちが、一斉にこちらを見上げた。
《第二目標を達成しました》
《西塔の狼煙台に火を入れた》
達成通知が出た。
けれどクエストは終わらない。
《部下ゼロの騎士団長》
《第三目標:城門を守れ》
「守れって言われても……」
俺は西塔の壁際まで走り、下を見下ろした。
黒牙王ヴァルグが、城門の前で頭を上げている。赤い目が、狼煙ではなく、俺を見ていた。
視線が合った。
それだけで、身体が固まる。
ヴァルグは低く唸った。
それに合わせて、周囲の黒牙狼が城壁へ走り出す。城門を破るだけではない。崩れた石垣、半壊した見張り台、開いた窓。入れる場所を探し、狼たちは一斉に城へ取りついた。
リゼットが何かを叫ぶ。
俺には聞こえなかった。
次の瞬間、彼女は城門から離れ、こちらの西塔へ向かって走り始めた。
逃げるのかと思った。
違う。
塔の足元にある通路へ、狼が数頭入り込んでいる。リゼットはそちらへ向かっている。俺がいる西塔へ狼を近づけさせないために。
「待ってください!」
俺は塔の階段を駆け下りた。
自分でも無茶だと思う。下へ降りたところで、レベル一のサモナーが何をできる。けれど、上にいて彼女が戦うのを見るだけのほうが嫌だった。
塔の中腹まで降りたところで、黒牙狼が一頭、階段を駆け上がってくるのが見えた。
赤い目。
むき出しの牙。
近くで見ると、俺の腰ほどもある大きさだった。
逃げるべきだと分かる。だが狭い螺旋階段では、すれ違うこともできない。俺は短杖を両手で握り、震える指でスキルを選んだ。
《初級拘束術》
杖の先から淡い光が飛ぶ。
光は狼の足元に当たり、細い鎖のように絡みついた。狼の動きが一瞬だけ止まる。
成功した。
けれど、一瞬だけだ。
黒牙狼は鎖を引きちぎるように前へ出た。俺は反射的に杖を振り上げたが、間に合わない。
狼が跳んだ。
その横から、銀色の閃きが走った。
黒牙狼の身体が、俺の目の前で二つに分かれて石段へ落ちた。
血の粒が、俺の頬に飛ぶ。
リゼットが俺と狼の間に立っていた。
「なぜ降りてきた」
振り返らずに言う。
「城門を守るんじゃなかったんですか」
「塔を守ることも、城門を守ることにつながる」
「それ、俺に言った命令ですよね」
「命令違反だ」
言葉は厳しい。
けれど、リゼットの声にはさっきまでの張り詰めた硬さが少しだけなかった。
彼女は階段の下を睨んだ。さらに二頭、三頭と狼が上がってくる。狭い通路では、リゼットが一度に相手をできる数は限られる。だが彼女のHPは、もう二割ほどしか残っていなかった。
俺は後ろへ下がりながら、頭を動かした。
戦えないなら、戦える形にすればいい。
階段の上には狼煙台がある。火薬筒は一本使ったが、地下倉庫には木箱がまだ残っていた。油壺もあった。塔の階段は狭く、狼たちは一列でしか上がってこられない。
「リゼットさん。少しだけ、時間をください」
「何をする」
「今いる場所で勝てるようにします」
彼女が一瞬だけこちらを見た。
俺は返事を待たず、階段を駆け上がった。狼煙台の周囲に残っていた薪を集め、火のついた一部を壁際へ移す。次に、狼煙台の脇に置かれていた重い石蓋を、通路の入口近くまで引きずった。
力が足りない。
腕が震える。
それでも、石蓋は少しずつ動いた。
下から剣戟の音が聞こえる。リゼットが狼を一頭斬った音。続けて、盾に牙がぶつかる鈍い音。彼女のHPバーがさらに減る。
俺は石蓋の下へ、火のついた薪を押し込んだ。
そして、狼煙台の火を見た。
白い煙はまだ空へ伸びている。
援軍が来るかどうかは分からない。
でも、この火は、城がまだ落ちていないという合図だ。
「リゼットさん! 下がって!」
俺が叫ぶと、彼女は迷わなかった。
階段を二段飛ばしで後退し、塔の上へ跳び上がる。その直後、俺は石蓋を押し倒した。
重い石が螺旋階段を転がり落ちていく。
狭い階段を上がっていた黒牙狼たちは逃げられない。石蓋は一頭を押し潰し、次の一頭を巻き込み、さらに下へ落ちていった。続いて、階段の壁に置いた薪が倒れ、油を含んだ火が通路を塞ぐ。
狼たちの悲鳴が響く。
リゼットが俺の横へ立った。
「即席の防衛線か」
「褒めてるなら、もう少し嬉しそうに言ってください」
「褒めてはいない。次は、火を使うなら事前に知らせろ」
「それはすみません」
言いながら、俺は息を切らしていた。
リゼットはわずかに口元を動かした。笑ったのかもしれない。けれど、すぐに表情を引き締め、塔の外を見た。
城門の前で、黒牙王ヴァルグが動いていた。
狼たちが城壁を攻めるのをやめ、ゆっくりと後ろへ下がっていく。
撤退するのかと思った。
違った。
ヴァルグが一歩、二歩と前へ出る。巨大な身体が、壊れかけた城門の前に立つ。赤い目が、城の上にいる俺たちを捉えた。
リゼットが剣を握り直した。
「来るぞ」
黒牙王が、咆哮した。
谷全体が震えた。
そして巨大な黒狼は、城門ではなく、崩れた西塔の壁へ向けて跳んだ。




