第二話 最後の命令
《第一目標:騎士団長の命令を聞け》
クエストログに表示された一文を見ている間も、目の前の騎士団長は動かなかった。
リゼット・アークレイン。
青い外套に描かれた獅子の紋章。刃こぼれした剣。傷だらけの鎧。HPバーは赤く点滅していて、今にも戦闘不能になりそうなのに、彼女は一歩も退かない。俺を見ているようで、俺の後ろにいるはずの誰かを待っているような目だった。
「……所属を名乗れ」
低い声だった。
俺は少しだけ迷ってから、正直に答えた。
「所属はないです。今日始めたばかりで、まだレベル一の……サモナーです」
リゼットの目が、俺の肩のあたりへ落ちる。
そこには何もいない。
普通のサモナーなら、最初の契約を済ませていれば召喚獣を連れている。けれど俺は協会へ向かう途中で、この廃城を見つけてしまった。契約獣なし。戦える仲間なし。武器らしい武器も、初心者用の短杖一本だけ。
彼女は俺の言葉を聞いても、表情を変えなかった。
「援軍ではないのか」
「違います」
「では、なぜ城内へ入った」
「……ユニーククエストが発生したから、です」
言ったあとで、自分でも変な答えだと思った。
NPCに対して、クエストが発生したから来たなどと説明しても意味があるのか。ゲーム内の会話なら、もっと自然な選択肢を選ぶべきだったかもしれない。
しかしリゼットは、俺の言葉を聞き流すように城門の外へ視線を向けた。
「理由は後で聞く。今は時間がない」
彼女は剣を持っていない左手を上げ、中庭の奥を指した。
「正門から入り、左手に兵舎がある。その奥に伝令用の狼煙台へ続く階段がある。倉庫には火薬筒が残っているはずだ。西の塔へ運び、火を入れろ」
俺は指された先を見た。
中庭の左側には、半分崩れた石造りの建物がある。入口には錆びた鉄板が垂れ下がり、その奥は暗くて見えない。兵舎という言葉だけで、嫌な想像が浮かんだ。
「狼煙を上げるんですか?」
「王都へ知らせる。城が持ちこたえていると分かれば、援軍が来る」
リゼットの声は迷いがなかった。
けれど、俺はさっき通ってきた道を思い出す。王都からこの谷へ続く道は、崩れた地下通路だけだった。そもそも、この廃城は現在のマップにも載っていない。王都の兵士が狼煙を見て助けに来るとは思えなかった。
それでもクエストログは、俺がその命令を受け入れるのを待っている。
《騎士団長の命令を受諾しますか?》
はい。
いいえ。
いいえを選んだらどうなるのかは分からない。クエストが失敗するだけならまだいい。目の前のリゼットが、命令違反として敵対する可能性もある。何より、彼女が本気で援軍を待っているなら、ただ「無理だと思います」と言って終わらせるのは気が引けた。
俺は、はいを選んだ。
《ユニーククエスト《部下ゼロの騎士団長》を進行します》
《第二目標:西塔の狼煙台に火を入れろ》
「分かりました。行ってきます」
リゼットは頷いた。
「火薬筒を持ち出せ。火種は兵舎の詰所にある。敵が城内へ入ってきた場合は、戦うな。鐘楼へ向かえ。鐘を鳴らせば、残存部隊が集まる」
「残存部隊って……まだ、誰かいるんですか」
聞いた瞬間、彼女の表情が止まった。
ほんの一瞬だった。
けれど、その沈黙は答えよりも重かった。
「命令を遂行しろ、サモナー」
リゼットはそれだけ言って、城門の外へ背を向けた。
俺は中庭の左側にある兵舎へ向かった。割れた窓から中を覗くと、長机と椅子が並んでいる。壁には地図らしき紙が貼られていたが、雨漏りのせいでほとんど読めない。入口の扉を押すと、湿った木の匂いと、長く閉ざされていた部屋の冷気が流れ出した。
中は荒れていた。
椅子は倒れ、机の上には空になった食器が散らばっている。壁際には鎧掛けが並んでいたが、掛かっているのは誰のものか分からない壊れた胸当てばかりだった。床には乾いた血の跡があり、その上を薄い埃が覆っている。
戦闘があった場所だ。
けれど死体はない。
NPCだから消えたのか。それとも、どこかへ運ばれたのか。考えたくなかった。
部屋の奥には、軍旗が飾られていた。中庭に残っていたものと同じ、獅子と五つ星の青い旗。ただしこちらは半分焼けていて、旗竿は途中から折れている。その下に、小さな木札が落ちていた。
拾い上げると、ウィンドウが開く。
《第七騎士団・点呼札》
《所属人数:一二〇名》
《現在確認人数:一名》
「一人……」
思わず声が出た。
一人だけ。
リゼットのことだ。
さっき彼女が、残存部隊が集まると言ったときに黙った理由が分かった。部下はもういない。それでも彼女は、城門を守り、狼煙を上げ、援軍を待っている。
クエストの名前が、頭の中で繰り返される。
部下ゼロの騎士団長。
俺は木札をバッグへしまった。
兵舎のさらに奥には、地下へ続く階段があった。火薬筒は倉庫にあると言っていた。階段の下からは、かすかに水の滴る音がする。短杖の先に灯りを浮かべ、俺は慎重に足を進めた。
地下倉庫には、木箱がいくつも積まれていた。
食料、予備の矢、包帯、壊れた盾。大半は使い物にならなかったが、奥の棚に油紙で包まれた細長い筒を見つけた。アイテム名を確認する。
《緊急用狼煙筒》
《火を入れることで、遠方から視認可能な煙を発生させる》
これだ。
俺は狼煙筒を手に取り、続けて火種を探した。棚の下に、小さな火打ち石と油壺がある。火打ち石を取った瞬間、倉庫の奥から小さな音がした。
かり。
何かが、木箱を引っ掻いたような音。
俺は動きを止めた。
「……リゼットさん?」
返事はない。
かり、かり、と音が続く。
灯りを奥へ向けると、木箱の陰に小さな影があった。犬より少し大きい程度の黒い獣。狼に似ているが、毛はぼさぼさで、右前脚には深い傷がある。俺と目が合った瞬間、獣は歯を剥き出しにして唸った。
《黒牙狼の幼体》
《レベル:3》
レベル三。
たった二つ上だ。
でも、今の俺には召喚獣がいない。短杖で殴るしかない。相手は怪我をしているとはいえ、牙も爪もある。ゲームの痛覚設定は軽減されているが、噛まれれば普通に痛いだろう。
黒牙狼の幼体は、逃げ道を探すように視線を動かしていた。
こいつも城を襲っている狼の仲間なのか。だったら、倒すべき敵なのかもしれない。
けれど、襲ってくる様子はなかった。
壁際には、壊れた木箱と、数本の空の瓶がある。おそらくこの獣は、倉庫へ迷い込んで出られなくなった。怪我をしているから、無闇に動けないのだろう。
俺は短杖を下ろした。
「……俺も戦いたくないんだよ」
バッグを開き、初期支給品の乾燥肉を取り出す。
食べ物は回復アイテムとして使える。召喚獣用の餌にもなるが、今の俺には召喚獣がいない。少し迷ってから、黒牙狼の幼体へ向けて乾燥肉を転がした。
獣はすぐには動かなかった。
俺を睨み、肉を睨み、何度か低く唸る。それから、そろそろと前へ出た。肉に噛みつき、二口で飲み込む。食べ終えても、逃げずにこちらを見ていた。
「入口まで行けるか?」
もちろん返事はない。
俺は壁際を回り込み、倉庫の扉を大きく開けた。黒牙狼の幼体はしばらく俺を警戒していたが、やがて傷ついた脚を引きずりながら、暗い廊下へ消えていった。
敵を見逃した。
ゲームとしては、経験値を捨てたことになるかもしれない。
でも、今はそれでよかった。
狼煙筒と火打ち石をバッグに入れ、俺は地下倉庫を出た。兵舎の外へ戻ると、中庭の空気が変わっていることに気づいた。
静かすぎた。
さっきまで聞こえていた風の音がない。
鳥の声もない。
城門の向こうから、低い唸り声だけが聞こえる。
俺は急いで西塔へ向かった。塔の内部は半分崩れていたが、螺旋階段はまだ残っていた。一段ずつ上がるたび、城壁の外が見えるようになる。谷を囲む岩山。月のない暗い空。城の周囲に広がる黒い影。
最初は岩だと思った。
けれど影の一つが動いた。
狼だった。
一頭や二頭ではない。城の外周を埋めるように、何十頭もの黒い狼が集まっている。そのすべてが城門を見ていた。中央には、他よりもひときわ大きな影がいる。
城壁より少し低い程度の巨体。
黒い毛並み。
月明かりもない闇の中で、二つの赤い目だけが浮かんでいる。
視界に、赤い文字が表示された。
《黒牙王ヴァルグ》
《危険度:レイドボス級》
その瞬間、城門のほうから金属が叩き潰されるような轟音が響いた。
俺は狼煙筒を抱えたまま、西塔の上から中庭を見下ろした。
リゼットが、一人で城門の前に立っていた。
傷だらけの剣を構え、何十頭もの狼の群れを前にして。
彼女の頭上に、赤いHPバーが揺れていた。




