第十二話 落とし格子
黒牙王ヴァルグが踏み込むたび、地下通路の床石が沈むように鳴った。
魔力炉の扉まで、あと十数歩。
その間に立つリゼットは剣を下げず、けれど無闇には斬りかからない。黒牙王の巨体、その牙、傷ついた左前脚、そして頭上の落とし格子を順に見ていた。
《ユウ》
Lv.2 職業:サモナー
HP:136/136
MP:202/202
筋力:9
敏捷:11
知力:18
所持スキル:魔力感知Ⅰ、契約者支援Ⅰ、魔力糸Ⅰ
契約枠:1/5(第二~第五枠:封印中)
契約者:リゼット・アークレイン(第一枠)
《リゼット・アークレイン》
Lv.25 種族:人間
HP:1,140/1,860
MP:210/620
状態:軽傷、疲労
契約状態:盟約中
《黒牙王ヴァルグ》
Lv.32
HP:8,420/9,800
状態:激昂、左前脚損傷
数値だけを見れば、勝負にならない。
リゼットは強い。けれど傷を負い、疲れている。黒牙王は城門で受けた損傷を抱えてなお、こちらより七つもレベルが高い。
正面から削り切るのは無理だ。
「リゼット。あの格子、落とせる?」
ユウが目線だけで天井を示す。
魔力炉の手前には、かつて侵入者を止めるために使われていたらしい鉄格子がある。今は鎖で吊られ、半端に持ち上がったままだ。格子自体は錆びているが、黒牙王の進路を塞ぐには十分な大きさだった。
「落とすだけなら可能だ。ただし、あれでは仕留められん」
「止められればいい。左前脚を狙って、格子の下まで誘導して」
「お前は?」
「鎖を切る」
リゼットの眉がわずかに動いた。
「一人で近づく気か」
「近づかない。糸を繋ぐだけだ」
言いながら、ユウは掌を開いた。
意識を集中させると、指先から淡い魔力がほどけた。蜘蛛の糸ほど細いそれは、暗い通路の中でかすかに青く光る。
《魔力糸》。
攻撃力はない。強い敵を縛ることもできない。
けれど、何かと何かを繋ぐことはできる。
ユウはまず、通路脇に転がっていた折れた槍の穂先へ糸を結んだ。次に天井を見上げ、落とし格子を支える鎖の根元へと、糸を伸ばす。
魔力の糸は空中を滑るように進み、狙った鉄鎖へ絡みついた。
その感触が、指先まで返ってくる。
繋がった。
「準備できた!」
「ならば、私が道を作る!」
リゼットが黒牙王へ駆けた。
黒牙王は低く唸り、太い前脚を振り上げる。爪が石床をえぐり、衝撃で砕けた石片が散った。
リゼットはその一撃を正面から受けない。
ぎりぎりまで引きつけ、半歩だけ横へ滑る。爪が彼女の肩をかすめ、銀の鎧に深い線を刻んだ。
「リゼット!」
「問題ない!」
振り返りざま、彼女の剣が黒牙王の左前脚を斬りつけた。
すでに傷ついていた場所だ。黒牙王の足が一瞬だけ沈む。
だが、それだけだった。
黒牙王は痛みを怒りに変えたように口を開き、至近距離から咆哮を放った。
「グルァアアアアアッ!」
音の塊が通路を揺らした。
リゼットの動きが止まる。ユウの視界に、彼女の状態異常表示が浮かんだ。
《リゼット・アークレイン》
状態:軽傷、疲労、威圧
黒牙王が追撃の牙を振り下ろす。
「《契約者支援》!」
銀色の魔力が、リゼットの背中へ走った。
鎧の隙間から淡い光が漏れ、彼女の身体が一瞬だけ沈み込む。
次の瞬間、リゼットは噛みつきを紙一重でかわした。
さっきより速い。
黒牙王の牙が空を噛み、石壁を砕く。その隙に、リゼットは敵の鼻先へ剣を突き出した。
「こちらだ、獣王!」
刃は浅い。
しかし、黒牙王の赤い目が完全に彼女へ向いた。
リゼットが後ろへ跳ぶ。
一歩。
二歩。
三歩。
落とし格子の真下まで。
黒牙王は止まらない。巨体を低く沈め、通路を埋め尽くす勢いで突進した。
「今だ!」
ユウは繋いでいた魔力糸を引いた。
鎖に絡ませた糸が、ぴんと張る。
当然、ユウの力だけで太い鉄鎖を断ち切れるわけがない。
だから、最初から鎖そのものを切ろうとはしていなかった。
糸の先に繋いだのは、折れた槍の穂先。
ユウはその穂先を、鎖の根元にある錆びきった留め具へ向けて引きずった。
魔力糸を通して伝わる抵抗は重い。それでも、黒牙王の突進が床を揺らした瞬間、留め具に亀裂が走った。
もう一度。
ユウは歯を食いしばり、糸を引く。
金属が裂ける甲高い音が、地下通路に響いた。
落とし格子が落下した。
黒牙王は避けられない。
鈍い轟音とともに鉄格子が背中へ落ち、黒牙王の巨体を床へ押さえつけた。格子の下で、獣王の咆哮が爆ぜる。
《黒牙王ヴァルグに拘束状態を付与しました》
「やった……!」
だが、喜びかけたユウの声を、リゼットが遮った。
「まだだ!」
格子の隙間から、黒牙王の前脚が伸びた。
鉄の棒を押し広げ、爪が床を掴む。
格子が軋み始めた。
レベル32のレイドボスを、壊れかけの設備だけで止められるはずがない。ユウも最初から分かっていた。
これは倒すための罠ではない。
魔力炉を守るための、わずかな時間稼ぎだ。
「リゼット、扉を!」
「任せろ!」
リゼットが魔力炉の鉄扉へ駆け寄る。
扉の中央には、第七騎士団の紋章がある。彼女が剣の柄でそこに触れた瞬間、紋章が青白く光った。
だが、扉は開かない。
「どうした!?」
「炉の緊急停止には、指揮権限が足りない!」
リゼットの声が鋭くなる。
「本来なら副団長と旗手、二名以上の承認が必要だ!」
黒牙王が格子を持ち上げる。
鉄棒が一本、二本と曲がった。
時間がない。
ユウは扉の紋章を見た。
第七騎士団の旗。城門で拾い上げ、リゼットと盟約を結んだあの軍旗と同じ紋章だ。
そして自分のステータスには、今も契約枠が表示されている。
第一枠にはリゼット。
封印された第二枠から第五枠。
まだ仲間はいない。けれど、空の枠があるなら――この城には、まだ使えるものがあるかもしれない。
ユウは扉へ手を伸ばした。
「リゼット。副団長がいなくても、旗手ならいいんだよな」
「何をする気だ」
「俺が旗を掲げた」
あのときは、ただ彼女を仲間にするための選択だった。
だが今、紋章の奥で何かが反応している。
ユウの手のひらに、あの騎士団旗と同じ感触が蘇った。
《第七騎士団旗が盟約主の存在を確認しました》
鉄扉の紋章が、眩い光を放つ。
《魔力炉・緊急防衛機構》
臨時旗手による指揮権限の行使を許可します。
黒牙王が、ついに落とし格子を押し上げた。
赤い目が、再びユウを捉える。
その瞬間、魔力炉の扉がゆっくりと開いた。




