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残照のテラス ─ 死ぬことは、敗北じゃない。ホスピスの看護師あゆみが、逝く人たちから受け取った言葉と、 渡せなかった言葉の、一年間 ─  作者: かーすけ


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第九話 「夏の終わりに」

 八月の病棟は、独特の重さを持っていた。


 夏の光は容赦がない。

 午後の二時ごろ、廊下の南側の窓から入ってくる直射日光は、床の上に鋭い四角い影を落とし、空気まで白く焼けて見える。

 外では蝉が鳴いている。

 アブラゼミとミンミンゼミが重なって、雑木林の方から届いてくる。

 ガラスを通してなお届くその声は、命の音というより、何かを削り続けている音に聞こえる。


 しかし夕方になると、光が変わる。

 傾いた光が丘の上から差し込み、病棟の廊下を橙色に染める時間が来る。

 午後五時過ぎのその光は、夏の光とは違う質感を持っていた。

 柔らかく、斜めで、長く影を引く。

 その光を「残照」と言うのだと、真壁はいつかの患者に教わった。

 沈もうとする陽の、最後の光。

 燃え尽きる前の、もっとも美しい輝き。

 聖マリアナ丘の上病院が、その名の通り「丘の上」にある意味を、真壁俊介は八月のこの時間に、毎年感じた。


 三〇三号室の浅野徳三郎の様子が変わったのは、

 八月の第二週に入ってからだった。

 食事量がさらに落ちた。

 起き上がれる時間が短くなった。

 話す量は以前と変わらないが、声に疲労が滲んでいた。

 バイタルの数値は安定しているが、全体の動きが——目に見えないスピードで——内側へ向かっている。

 長年この仕事をしている真壁には、その変化がわかった。

 カルテの数字ではなく、回診のたびに感じるわずかな差の積み重ねから。


 腫瘍の増大と、体力の消耗が、ある閾値を超えたのだ。

 真壁は蓮への連絡を一ノ瀬に頼んだ。

「来てもらいましょう。できるだけ早く」

「今週中に、ですか」

「今週中に」

 一ノ瀬は小さくうなずいた。

 その顔に、聞かなくてもわかることへの静けさがあった。


 蓮が来たのは、木曜日の午後だった。

 先月とは違い、今回は足が止まらなかった。

 エントランスの自動ドアをくぐって、まっすぐ受付に向かった。

 一ノ瀬が廊下で待っていると「こんにちは」と言った。

 声は落ち着いていた。

 目も落ち着いていた。

 しかし手が、わずかに固まっていた。


「先週より、お顔が少し違います」と一ノ瀬は言った。

「何が違いますか」

「疲れてきています。声は出ますが、話しすぎると消耗します。今日は、そのことを念頭に置いておいてください」

「わかりました」

「それだけです。あとは、浅野さんと話してください」

 蓮はうなずいた。

 三〇三号室のドアを、自分でノックした。


 その日、蓮が三〇三号室に何時間いたか、記録には残っていない。

 一ノ瀬は廊下で何度か往来したが、ドアを開けなかった。

 中から声が聞こえることもあった。

 浅野の声が、低く続いていた。

 蓮の声が、それを受けて返していた。


 日が傾き始めたころ、ドアが開いた。

 蓮が出てきた。

 一ノ瀬は廊下の端から見ていた。

 蓮の目が、赤かった。

 泣いていたのだろう。

 でも蓮は廊下に出てからすぐに顔を上げて、一ノ瀬を見て「失礼します」と言った。

 声は震えていなかった。


「今日は来てくれてよかったです」と一ノ瀬は言った。

「来てよかった」蓮は静かに言った。

「じいちゃんが、手紙を渡してくれました」

「浅野さんから?」

「「完成した」って言ってました。まだ封をしてなかったけど——俺に持っていけ、って」

 一ノ瀬は少し目を細めた。

「そうですか」

「読んでいいですか、と聞いたら——「蓮への手紙だから、読んでいい」って言われました」

「読みましたか」

 蓮は少し間を置いた。

「読みました」

「どうでしたか」

「——すみません」蓮は口元を一度引き結んだ。

「まだうまく言えないです」

「言えなくていいです」

 エレベーターのドアが開いた。蓮は中に入りながら振り返った。

「また来ます」

「待っています」

 ドアが閉まった。

 一ノ瀬は、廊下の端に一人立ったまま、しばらく動かなかった。


 翌日の朝の回診で、真壁は浅野のベッドサイドに座った。

「昨日、蓮さんが来ましたね」

「来た」

「手紙を渡したと聞きました」

「渡した」

「書き切れましたか」

 浅野は少しの間、天井を見た。

「全部は書けなかった」

「そうですか」

「書けないことの方が、多かった。人間の言葉は、足りない」

「そうですね」

「ただ——」浅野は目を落とした。

「書こうとした、ということは伝わったと思う。蓮の顔を見たから」

 真壁はうなずいた。

「それで十分じゃないですか」

「そうかもしれん」


 窓の外で、蝉が鳴いていた。

 しかし今朝は、その声に昨日とは少し違う質感があった。

 音の数が減っている。

 気づかなければ気づかないほどの差だが、真壁には聞こえた。

 蝉の声が、少しずつ薄くなっている。

 夏の終わりの音だ。


 八月の第三週、浅野の状態が急激に変化した。

 発端は、火曜日の朝だった。

 朝六時の夜勤の申し送りに「昨夜から意識の混濁が出始めている」と記録されていた。

 真壁は申し送りを読んで、すぐに三〇三号室に向かった。

 浅野は眠っていた。

 呼吸が浅くなっていた。

 SpO2が昨日より下がっている。

 目が半開きになっていた。

 真壁はベッドサイドに立って、一分間、浅野の呼吸を見た。


 カルテを開いた。

 投薬の指示を確認した。

 PCAポンプの設定を調整した。

 モルヒネの背景投与量を上げ、レスキュー薬の頻度を増やした。

 苦痛を緩和することが最優先だ。

 数値を上げることでもなく、延命をはかることでもなく、ただ今この人が苦しくないようにすること——それだけが、今の真壁の仕事だった。


 処置を終えて廊下に出ると、一ノ瀬が待っていた。

「どうでしたか」

「急いで連絡を取ってください。賢司さんに」

 一ノ瀬の顔が、わずかに動いた。

「わかりました」と言って、ナースステーションに向かった。

 真壁は廊下に一人立ったまま、窓の外を見た。

 八月の朝の光が、雑木林の上から差し込んでいた。

 まだ熱を持った光だった。

 夏はまだ終わっていない。

 蝉の声が、また今日も来ている。

 しかし昨日より、また少し少ない。

 真壁は廊下を歩いた。

 次の患者の回診へ。

 止まらなかった。


 浅野賢司が病院に着いたのは、その日の昼前だった。

 スーツ姿だった。

 会社から直行してきたのだろう。

 五十一歳の長男の顔は、端正だが今日は硬かった。

 エントランスで一ノ瀬に会ったとき、言葉が出るまでに少し間があった。


「父は」

「眠っています。苦痛はコントロールできています」

「意識は」

「混濁しています。ただ、声をかければ反応することがあります」

 賢司はうなずいた。

 それ以上は聞かなかった。

 三〇三号室に入る前に、賢司はドアの前で少し止まった。

 一ノ瀬は後ろにいた。

「入ります」と賢司は言った。

 自分に言い聞かせるような言い方だった。

「どうぞ」


 賢司が病室に入ってから、一ノ瀬は廊下の端で待った。

 中から声は聞こえなかった。

 しばらくして、低い声が一度だけ聞こえた。

 賢司の声だった。

 何を言ったかは聞こえなかった。

 真壁が廊下を通りかかり、一ノ瀬と目が合った。

「賢司さん、中に入っています」

「そうか」

 真壁は三〇三号室のドアを静かにノックして、一人で入った。

 一分ほどして出てきた。

「苦痛はない。呼吸も今は落ち着いている」

「そうですか」

「賢司さんが来てくれた」

 一ノ瀬は聞いた。

「それで、浅野さんの顔は変わりましたか」

「変わっていた」と真壁は言った。

 それだけ言って、廊下を歩いた。


 夕方、賢司が部屋から出てきたとき、一ノ瀬は飲み物を差し入れた。

 ペットボトルのお茶。

 賢司は受け取って「ありがとうございます」と言った。

 声が少し、ほどけていた。

「父が」賢司は廊下の端に目をやりながら言った。

「蓮への手紙を、蓮に渡してほしい、と言っていました。もう一度はっきり言っていたので——」

「蓮さんにはすでに渡っています。先日、浅野さんが直接渡されました」

 賢司は一瞬動きを止めた。

「そうか」

「蓮さんも来てくれていました。何度か」

「……知らなかった」

「浅野さんが、賢司さんには知らせないでほしいと言っていたので」

 賢司はしばらく何も言わなかった。

 お茶のペットボトルを両手で持ったまま、床を見ていた。

「怒りませんよ、そのことは」賢司は静かに言った。

「父らしい」

「そうですか」

「父は——」賢司は口元を動かしてから、少し笑った。

 苦いような、でも本物の笑いだった。

「生涯、誰にも頼らなかったから。蓮に電話するのに、どれだけ勇気が要ったか」

「そうですね」

「俺には、できませんでした、それが。父に電話することが——最後まで」

 一ノ瀬は、返す言葉を選ばなかった。

「今日来たじゃないですか」と、ただ言った。

 賢司は答えなかった。

 でも、その沈黙は拒絶ではなかった。


 浅野徳三郎が逝ったのは、翌々日の早朝だった。

 午前四時四十七分。

 夜勤のスタッフが三〇三号室に入って確認した。

 浅野は眠ったまま、呼吸が止まっていた。

 穏やかな顔だった。

 眉間に皺はなく、口元が少しほどけていた。

 苦痛の形ではなかった。


 真壁が呼ばれ、死亡確認をした。

 聴診器を胸に当て、瞳孔を確認し、時刻を告げた。

「午前四時四十七分。ご逝去を確認します」

 その声は、静かで、確かで、揺れなかった。


 賢司が廊下で待っていた。

 知らせを受けて、部屋に入った。

 浅野の顔を見て、しばらくそのまま立っていた。

 何かを言おうとして、言葉が来なかった。

 最終的に、父親の手に自分の手を重ねた。

 その手が、少し冷たくなっていた。


 一ノ瀬が三〇三号室に入ったのは、夜明けが近いころだった。

 窓の外がまだ暗い時間に、体を拭き、着替えをさせる。

 使っていたリネンを交換する。

 PCAポンプのルートを外す。

 点滴の針を抜く。

 部屋を整える。

 これが、看護師の仕事だった。


 浅野の体は、もう動かなかった。

 しかし部屋には、まだ浅野の気配があった。

 ベッドサイドのテーブルの上に、ペンが一本置いてあった。

 毎朝一ノ瀬が届けていた、太いゲルインクのボールペン。

 使い切ったわけではない。

 でも浅野が「ここに置いておけ」と言ったので、一ノ瀬はずっとそこに置いていた。

 部屋を整えながら、一ノ瀬はそのペンを見た。

 ペンを手に取って、少し持った。

 それから、元の場所に戻した。

 窓の外が、少しずつ明るくなっていた。

 夜明けの光が、まず空の端から色を変えた。

 濃い藍から、薄い灰へ。

 灰から、うっすらとした橙へ。


 八月の夜明けは、静かだった。

 蝉の声はまだ来ない。

 その前の、世界がまだ眠っている時間。

 一ノ瀬は作業を終えて、部屋の入り口のドア枠に一度立ち止まった。

 空白になったベッドを見た。

 きれいに整えられたシーツ。

 棚の上に、何もない。

 浅野徳三郎が入院したとき、棚の上には何も飾られていなかった。

 最後まで、何も飾らなかった。

 一ノ瀬はドアを閉めた。


 午前十時。

 賢司が荷物の整理のために戻ってきた。

 スーツではなく、今日は軽いシャツ姿だった。

 スーツケースを一つ持って、病室の荷物を片付けた。

 一ノ瀬が手伝おうとすると「自分でやります」と言った。

 断り方が穏やかだった。

 荷物を運び出す前に、賢司は棚の上に一枚の写真を置いた。

 フレームのない、普通の印刷写真だった。

 白黒ではなく、色のある古い写真。

 昭和の時代の写真特有の、少し褪せた発色。

 写っているのは、若い男と、その隣に立つ女と、女が抱いている赤ん坊だった。

 男の顔が、浅野徳三郎に似ていた。

 若い頃の浅野だろう。

 女は妻だろう。

 赤ん坊は——おそらく、賢司だ。

「置いておいていいですか」賢司は言った。

「片付けの人が来るまでの間だけ」

「もちろんです」一ノ瀬は言った。

「父は、こういうものを飾ることをしない人だったから——だから俺が置いていく」

 一ノ瀬は黙って写真を見た。

 若い浅野徳三郎の顔が、笑っていた。

 あの病室で一度だけ聞いた笑い声と、同じ顔だった。



 夕方、ナースステーションで記録を書いていた一ノ瀬に、真壁が声をかけた。

「今日は、早く上がっていい」

 一ノ瀬は顔を上げた。

「まだ申し送りが」

「佐伯さんに頼んであります」

「でも、なぜですか」

 真壁は少し間を置いた。

「顔に出てるから」

 一ノ瀬は、自分の顔に手をやった。

 泣いていない。

 泣いていないはずだった。

 でも。

「そうですか」

「そういうことです」

 真壁はカルテの画面に目を戻した。

 それだけだった。


 一ノ瀬は記録を保存して、椅子を引いた。

 ロッカーから荷物を取って、廊下を歩いた。

 三〇三号室の前を通った。

 ドアは閉まっていた。

 棚の上の写真は、もう見えない。

 でも、確かにそこにあった。


 エレベーターを待ちながら、一ノ瀬は窓の外を見た。

 夕方の光が、丘の上から長く差し込んでいた。

 残照だった。

 建物の影が、駐車場の上を斜めに横切っていた。

 雑木林の梢が、その光を受けて、暗い緑の中に一条の金色を宿していた。

 蝉の声が、今日は少なかった。

 昨日より、また少なかった。

 夏が、確実に終わっていく音だった。


 その夜、真壁俊介はナースステーションに一人残って、浅野徳三郎の最終記録を書いた。

 死亡確認の時刻。

 処置の内容。

 家族への対応。

 全て、淡々と記録した。

 書き終えて、カルテを閉じた。

 画面が暗くなった。


 真壁は椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。

 廊下の向こうから、酸素濃縮器の音が届いていた。

 他の患者の部屋から来る音だ。

 病棟は続いている。

 眠っている患者がいる。

 起きている患者がいる。

 痛みを抱えている患者がいる。

 数えていない。

 数えると、一人一人の顔が薄くなる気がして。


 真壁は立ち上がった。

 病棟の見回りへ。

 止まらずに、歩いた。

 廊下の窓の外は、もう完全に夜だった。

 雑木林は暗く、蝉の声は止んでいた。

 代わりに、遠くから虫の音が届いてきた。

 秋の虫ではない。

 でも、蝉でもない。

 夏と秋の間にいる、名前のつけにくい声。

 その声を聞きながら、真壁は廊下を歩き続けた。

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