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残照のテラス ─ 死ぬことは、敗北じゃない。ホスピスの看護師あゆみが、逝く人たちから受け取った言葉と、 渡せなかった言葉の、一年間 ─  作者: かーすけ


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第八話 「遺すかたち」

 七月に入ると、聖マリアナ丘の上病院の中庭から、紫陽花が姿を消した。


 正確には、消えたのではない。

 花びらが色を失い、緑に戻り、そのまま葉の中に埋もれていった。

 散るのではなく、枯れながらその場に留まり続ける。

 紫陽花はそういう花だ。

 あれほど重たく咲いていたのに、終わり方は静かで、気づけばもうそこにない。

 梅雨が明けると同時に、蝉が鳴きはじめた。


 七月の蝉の声は、始まりと終わりの両方の音がする。

 あんなに激しく鳴いているのに、この声は夏が来た知らせではなく、夏が全力で燃え尽きようとしている音だ、と一ノ瀬あゆみは毎年思う。

 廊下の窓から外を見ると、雑木林の緑が最も深くなっている。

 黄緑でも薄緑でもない、奥行きのある重い緑。

 一年で一番暗い緑が、一年で一番明るい光の中に立っている。

 その矛盾が、七月の景色だった。


 真壁俊介が三〇三号室の朝の回診で「書き留めたいことがある」という申し送りについて切り出したのは、七月に入って最初の月曜日の朝だった。

「昨日の回診では、お話をお聞きできなかったので、改めて」

 浅野徳三郎はベッドに上半身を起こし、窓の外を見ていた。

 蝉の声が遠く届いていた。

 雑木林の方から来る声だ。

 病棟の窓ガラスを通して届くから、音は丸まっているが、それでも熱量を持っている。


「書き留める、と言った」

「はい。何を書きたいか、教えてもらえますか」

「手紙だ」

 浅野は窓の外を見たまま言った。

「蓮への」

 真壁はうなずいた。

「わかりました」それだけ言った。

 なぜ、とは聞かなかった。

 蓮が来た日のことは、一ノ瀬から聞いていた。

 笑い声が廊下まで届いたことも。


「便箋と封筒を用意します。ペンは」

「万年筆がいい。持っているが——」

 浅野は少し間を置いた。

「手が震えるようになった。細いペンが難しくなった」

「太い方がいいですね。ボールペンでもよければ、書き心地のいいものを探します」

「ボールペンでいい。細かいことは言わない」


 翌朝から、一ノ瀬が便箋と封筒を一ノ瀬の手で毎朝届けた。

 用意したのは、無地の便箋と封筒。

 罫線ありのものも試してみたが、浅野が「線が邪魔だ」と言ったので、無地にした。

 ペンは太めのゲルインクボールペン。

 試し書きを三種類してもらって、浅野が「これ」と言ったものを選んだ。


 最初の日、一ノ瀬が便箋とペンをベッドサイドのテーブルに置くと、浅野はそれをしばらく見ていた。手を伸ばさなかった。

「今日は、まだ書かないんですか」

「書く気はある。しかし」

 浅野は手を見た。

「何から書けばいいのかが、わからん」

「書く順番は決めなくていいんじゃないですか」

「俺はどんな文書でも、最初に結論から書く人間だ。四十年、ずっとそうしてきた」

「でも、これは報告書じゃないですよね」

 浅野は一ノ瀬を見た。

「そうだな」

 少し間があった。

「そうだな」

 一ノ瀬は部屋を出た。


 浅野が最初の一行を書いたのは、三日後だった。

 午前の回診が終わり、昼食が運ばれる前の静かな時間。

 浅野はテーブルの上に便箋を広げ、ゆっくりとペンを走らせた。

 手が少し震えていたが、止まることなく動いた。

 一行、書いた。

 書いてから、眺めた。


 何が書いてあるか、一ノ瀬は見ていない。

 浅野がドアを閉めて書いていたからだ。

 でも昼食の配膳に入ったとき、便箋が折りたたまれてベッドサイドのテーブルの上に置かれているのを見た。

 かすかに、ペンのインクの匂いがした気がした。

 浅野は昼食のトレイを見て言った。

「今日は少し食える気がする」

「そうですか」一ノ瀬は言った。

「じゃあ、ゆっくり食べてみてください」

 浅野は、食べた。

 全部ではないが、昨日より少し多く食べた。


 その日の午後、一ノ瀬が廊下の突き当たりを通りかかったとき、作業療法室のドアが少し開いていた。

 風が通り抜けたのか、錠がかかりきっていなかったのか——とにかく、ドアが数センチだけ開いていた。

 一ノ瀬は通り過ぎながら、その隙間に目をやらないようにした。

 でも、隙間から光が見えた。

 窓から差し込む七月の午後の光。

 その光の中に、テーブルの上に何かが広げられているのが見えた。

 紙だった。

 壁に、何かが貼られていた。

 A4の紙が一枚、テープで壁に貼ってあった。

 見えたのは、そこまでだった。

 一ノ瀬は足を止めず歩いた。

 でもその一瞬に見えたものを、一ノ瀬は廊下の先まで歩きながら思い返した。

 紙の上の線。

 まっすぐではない、揺れた線。

 でも、何かの形があった。

 木か、枝か——窓の外の風景に見えた。

 高橋徹が、何かを壁に貼ったのだ。


 夕方の処置が終わり、申し送りをまとめていたとき、高橋が作業療法室から戻ってきて、自分の病室に入るところを廊下の端から見た。

 その後ろ姿を、一ノ瀬は一秒だけ見た。

 右の袖が、途中からない。

 その、袖がない側の肩が——少し前よりも低くなった気がした。

 体重が落ちている。

 肺への転移が進んでいるからだ。

 歩くと息が上がりやすくなっている記録が、最近の観察日誌に増えている。

 でも、毎日部屋に入っている。

 一ノ瀬はパソコンの画面に目を戻した。


 七月の中旬、浅野が真壁に言った。

「先生、一つ聞いていいですか」

 真壁は椅子を引き寄せてベッドサイドに腰を下ろした。

 回診の途中だったが、「どうぞ」と言って、カルテを閉じた。

「手紙を書いているんだが」

「聞いています」

「書けば書くほど、足りなくなる」

「何が足りなくなりますか」

 浅野は少しの間、考えた。

「言葉だ。俺は長い間、言葉で仕事をしてきた。交渉も、説得も、叱責も、全部言葉でやってきた。なのに——蓮に伝えたいことを書こうとすると、自分が知っている言葉が、何一つ役に立たない」

 真壁はうなずいた。何も言わなかった。

「仕事の言葉しか持っていなかったんだろうな」

 浅野は自嘲するように言った。

「七十八年かけて、そのことに気づいた」

「気づいたんですから、遅くはないんじゃないですか」

「遅い」

「そうかもしれません」

 真壁は、肯定も否定もしなかった。

 ただ、受け取った。

「でも」真壁は続けた。

「仕事の言葉じゃなく書こうとしているのは、今の浅野さんだ。七十八年かけて今日ここにいる、今の浅野さんの言葉は——過去のどんな言葉とも、違うものになる気がします」

 浅野は答えなかった。

 窓の外で、蝉が鳴いていた。


 七月の後半、高橋徹の肺炎が一度出た。

 入院患者が肺炎を起こすのは珍しくない。

 しかし高橋の場合、もともとの肺転移があるため、経過が読みにくかった。

 三日間、作業療法室に入れなかった。

 熱が下がり、抗生剤が効いて、ようやく起き上がれるようになったとき、高橋は真っ先に鍵を確認した。

「部屋、まだ使えますか」

「使えます」と一ノ瀬は答えた。

 翌日、高橋は作業療法室に戻った。


 月末の朝、浅野が一ノ瀬に言った。

「蓮に連絡してほしい」

「もう一度来てもらいますか」

「一度じゃない。月に一度くらい来られるか、聞いてほしい」

「聞いてみます」

 一ノ瀬が蓮に電話すると、蓮は「もちろん来ます」とすぐに言った。

 迷わなかった。

「来週でも?」と一ノ瀬は聞いた。

「来週でも、今週でも。行きます」


 その日の夕方、ナースステーションの記録を終えた一ノ瀬は、窓の外を見た。

 丘の上から見える空が、西の端で橙色になっていた。

 夕暮れが早くなっていた。

 七月の終わりは、気づけば夏の真っ只中にいながら、日暮れの時間が少しずつ短くなっていく。

 まだ暑い。

 蝉の声はまだある。

 それでも、光の角度が変わってきている。

 夏の盛りの光は真上から来るが、今は少しだけ、斜めから来るようになっていた。


 斜めから来る光は、影を長く伸ばす。

 一ノ瀬は、その影の長さに、秋を感じた。

 まだ遠い。

 でも来る。

 必ず来る。

 浅野徹三郎の手紙は、まだ完成していなかった。

 真壁はそれを知っていて、何も急かさなかった。

 一ノ瀬も急かさなかった。

 毎朝、便箋を届けた。それだけだった。

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