第七話 「孫の名前」
六月の末、梅雨はまだ続いていた。
しかしその日は、朝から雲の切れ間が多かった。
灰色の空の中に、白い光がぼんやりと広がって、中庭の紫陽花が花びらの裏まで透かして見えるような、雨上がりでも雨降りでもない、曖昧な天気だった。
蒸し暑かった。
廊下の窓を少し開けると、土と草の湿った匂いが入ってきた。
浅野徳三郎の面会記録に「浅野蓮」という名前が記されたのは、その日の午後だった。
担当看護師の一ノ瀬あゆみは、記録を見たとき、少し止まった。
浅野蓮、二十二歳。
職業欄は「大学院生」。
続柄は「孫(次男の息子)」。
長男の賢司(五十一歳)とは折り合いが悪い、と浅野のカルテには書いてある。
しかし今回の連絡は、賢司経由ではなく、浅野本人が蓮に直接電話した。
一ノ瀬が取り次いだ。
浅野が短い言葉で用件を伝え、電話を切った後、少し手が震えているのを一ノ瀬は見ていた。
見ていたが、何も言わなかった。
浅野蓮が病棟に現れたのは、午後一時をわずかに過ぎたころだった。
背が高かった。
六尺に近い。
浅野徳三郎の若い頃の写真を見たことはなかったが、この孫がそれに近いのだろうと一ノ瀬は思った。
肩幅があって、髪が少し長く、ジーンズと白いシャツという格好で、エントランスに立っていた。
大学院生らしく、リュックサックを斜めにかけている。
でも、エントランスの自動ドアをくぐったところで、止まっていた。
足が、止まっていた。
一ノ瀬は受付を出て声をかけた。
「浅野蓮さんですか」
蓮はこちらを向いた。
目が、浅野徳三郎とよく似ていた。
強い目だった。
でも今は、その強さの下に何かが隠れていた。
慣れない場所に来た、二十二歳の男の子の顔。
「はい」
「担当の一ノ瀬です。浅野さんはお部屋でお待ちです。案内しますね」
「あの——」蓮は少し逡巡してから言った。
「じいちゃん、今どういう状態ですか。話せますか」
「話せます。最近は少し疲れやすくなっていますが、今日は調子がいい方です」
「そうか」
「心配しなくていいですよ」
蓮は小さくうなずいた。
「うん、じゃなくて」
「ありがとうございます」と言い直した。
礼儀正しい子だ、と一ノ瀬は思った。
それだけでわかることがあった。
この子の父親——浅野賢司——がどれほど不器用に、しかし真剣に子どもを育てたかということが。
三〇三号室のドアを一ノ瀬がノックすると、「入れ」という声がした。
浅野徳三郎は、ベッドをギャッジアップして上半身を起こし、窓の方を向いていた。
白いパジャマ。
点滴のルートが左腕に走っている。
体が、先月よりひとまわり細くなっていた。
でも姿勢はまっすぐだった。
一ノ瀬がドアを開けると、浅野は振り返った。
孫を見た。
蓮は入り口に立ったまま、少しの間、祖父を見た。
どちらも、すぐには言葉が出なかった。
「来たか」と浅野が言った。
「来ました」と蓮が言った。
一ノ瀬は「ゆっくりどうぞ」とだけ言って、ドアを閉めた。
面会室は使わなかった。
浅野が「部屋でいい」と言ったからだ。
部屋に椅子を一脚追加して、蓮が浅野のベッドサイドに腰を下ろした。
二人の間に小さなテーブルがある。
一ノ瀬が麦茶を持って来て置いた。
蓮が「ありがとうございます」と言った。
浅野は何も言わなかった。
一ノ瀬がドアを閉めてから、廊下でしばらく立っていた。
聞き耳を立てているわけではない。
ただ、何かあったときにすぐ入れるように、近くにいた。
病室の中は静かだった。
最初の十分、二人はほとんど何も話さなかった、と後で蓮から聞いた。
じいちゃんが「大学は」と聞いて、蓮が「院に進みました、工学系の」と答えた。
浅野が「賢司に似ないで、頭がいいな」と言って、蓮が少し笑った。
それだけだった。
でも沈黙は、苦痛な種類のものではなかった。
二人が初めて「同じ部屋の空気を吸っている」ことに、お互いが慣れようとしている時間だった。
蓮が最初に本題に触れたのは、窓の外の雲が少し動いて、白い光が病室に差し込んできたときだった。
「電話くれると思ってなかった」と蓮は言った。
「そうか」
「父さんが——賢司さんが、じいちゃんとうまくいってないの、知ってたから。俺に連絡が来るとは思ってなかった」
浅野は窓の外を見た。
光が、点滴のルートをかすかに照らしていた。
「わかっていた上で、かけた」
「うん」
「来ないと思っていた」
「来ましたよ」
「なぜだ」
蓮は少し間を置いた。
「来たかったから」
浅野は答えなかった。
蓮が続けた。
「俺、じいちゃんのこと、あまり知らないから。父さんからはいろいろ聞かされてきたけど、そっちじゃなくて——直接、知りたかった」
「賢司は何を言っていた」
「いろいろ。怖かった、とか。近づけなかった、とか」
浅野は眉を動かした。
「父親として失格だな」
「そうは思わないですけど」
「思わなくていい。事実だ」
浅野はまっすぐ言った。
「俺は仕事だけしていた。家の中のことは、全部あいつの母親に任せていた。賢司が何を考えているのか、何を怖れているのか、聞いたことがなかった。ただ、立派に育てれば——俺が作ったものを引き継げるように育てれば、それがすべてだと思っていた」
「今も会社にいますよ」
「知っている」
「普通の父親だと、俺は思ってるけど」
浅野は鼻の奥で笑った。
「そこだけは、うまくいったな。俺の不出来を見ていて、反面教師にしてくれた」
蓮はしばらく何も言わなかった。
麦茶のコップを両手で持って、少し下を向いていた。
考えているのか、言葉を選んでいるのか、ただ沈黙を置いているのか。
浅野は待った。
この孫は、急かされることを好まないだろうと思った。
自分と同じだ。
自分が決めるまで、誰にも口を挟んでほしくない。
だから待った。
「一個だけ」と蓮は言った。
「言え」
「じいちゃんが作った会社で、賢司さんが俺たちを育てた。だから——」
蓮は顔を上げた。
「じいちゃんは、賢司さんに渡してるじゃないですか。俺たちに渡してるじゃないですか」
浅野は動かなかった。
「渡せなかった、って思ってるみたいだったから。さっきの話で。でも俺から見たら、ちゃんと渡ってきてるんですよ。形は変わってても」
病室が静かになった。
廊下の向こうから、酸素濃縮器の音が届いていた。
どこかの部屋のテレビの音。
窓の外で、雲がまた動いて、差し込んでいた光が薄くなった。
浅野徳三郎は、その沈黙の中で、何かが——長い年月をかけて積み上げてきた、ある種の固さが——静かに溶けていくのを感じた。
音もなく。
劇的でもなく。
ただ、溶けた。
目が、滲まなかった。
七十八年間、人前で泣いたことのない男は、今夜も泣かなかった。
しかし何かが来た。
それは涙よりも静かで、涙よりも深い場所から来た。
「お前は」浅野は言った。
「賢司より、ずっと弁が立つな」
「父さんに似ないで、口がいいだけです」
浅野は初めて、声を出して笑った。
短い笑いだった。
しかし本物だった。
この病棟に入院してから、初めての笑いだった。
蓮が帰ったのは、四時近かった。
一ノ瀬が廊下で見送った。
エレベーターのボタンを押しながら、蓮は振り返った。
「また来てもいいですか」
「もちろんです」
「父さんには、言わなくていいですか。来たこと」
「浅野さんご本人がどうされたいかによります。確認しておきますね」
「お願いします」
エレベーターのドアが開いた。
蓮は中に入って、ドアが閉まる直前に言った。
「じいちゃん、笑ってました」
「聞こえていました」
「そうか」
蓮は少し顔を赤くした。
「盗み聞きじゃないですよね、それ」
「廊下にいただけです」
「——ありがとうございました」
ドアが閉まった。
一ノ瀬が三〇三号室を再び訪ねたのは、夕食の配膳の後だった。
食事の量が、最近少し減っている。
今日もトレイの上に半分ほど残っていた。
浅野は片付けを待たずに、窓の外を見ていた。
夕暮れが始まっていた。
雲が橙色に染まっている。
梅雨の夕暮れ特有の、にじんだ光だった。
「蓮さん、また来るそうです」と一ノ瀬は言った。
「そうか」
「賢司さんに知らせるかどうか、どうされますか」
「知らせなくていい。俺と蓮の話だ」
「わかりました」
一ノ瀬はトレイを片付けながら、浅野の横顔を見た。
今日は顔が違う。
何かが変わっている。
怒っていない。
かといって穏やかでもない。
ただ——何かを決めた顔だった。
「一ノ瀬さん」浅野が言った。
「はい」
「真壁先生に伝えてほしい。明日の回診のときに、少し時間をもらえるか、と」
「もちろんです。伝えます。何か急いだことですか」
「急いではいない」
浅野は窓の外を見たまま言った。
「ただ——書き留めておきたいことが、出てきた」
一ノ瀬はうなずいた。
「必ず伝えます」
その夜、真壁俊介は申し送りを読んで、少しだけ目を細めた。
浅野患者より「書き留めておきたいことが出てきた」とのこと。
明朝の回診で時間を確保するよう申し送り。
真壁は椅子に座ったまま、カルテの画面から目を上げた。
「書き留めておきたいこと。」
この仕事を続けていると、その言葉が出てくる瞬間が、いつかくる患者がいる。
全員ではない。
しかしある日突然——多くの場合、誰かとの会話の後に——出てくる。
浅野徳三郎が今日どんな二時間を過ごしたのか、真壁は詳細を知らない。
しかし、その結果が「書き留めたい」という言葉になったことは知った。
七十八年間、走り続けてきた男が、初めて立ち止まって、振り返ろうとしている。
それが何を生み出すのか、まだわからない。
でも、生み出そうとしていることは確かだった。
そこが、今から始まる話だ。
真壁は再びカルテに目を落とした。
丘の上の病棟に、梅雨の夜が続いていた。
雨はまだ降っていなかったが、明け方には降るだろう。
そして朝になれば、紫陽花がまた少し重くなっているだろう。
それでも咲き続ける花の、静かな夜だった。




