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残照のテラス ─ 死ぬことは、敗北じゃない。ホスピスの看護師あゆみが、逝く人たちから受け取った言葉と、 渡せなかった言葉の、一年間 ─  作者: かーすけ


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第六話 「声を録る日」

 六月に入ると、聖マリアナ丘の上病院の中庭の景色が、また変わった。


 芝生の緑が濃度を増し、低木の葉が雨粒を受けて艶を帯びる。

 紫陽花が花を開き始めた。

 青、藍、薄紫——水分を含んだ重い花が、梅雨の灰色の空の下で、静かに色を主張している。

 桜の時期の浮き立つような花ではない。

 咲いているというより、ただそこにある、という感じの花だ。

 雨の中でも倒れず、雨に打たれながら、むしろ雨の中でしか咲けないもの。


 病棟の廊下に、外の音が届きにくくなっていた。

 梅雨の時期は、雨が建物を包んで、外と内の境界が曖昧になる。

 酸素濃縮器の音が、いつもより少し近く聞こえる。

 廊下に立つ足が、いつもより少し重い。

 そういう季節だった。

 椎名遥が一ノ瀬あゆみに「決めました」と言ったのは、六月の第二週、雨が続いて五日目の朝だった。


 バイタル測定を終えて記録をつけていた一ノ瀬が顔を上げると、遥はベッドに上半身を起こしたまま、両手をひざの上で重ねていた。

 ニット素材の帽子は今日も紺色だった。

 この人はいつも同じ色の帽子を被っている、と一ノ瀬は思った。

 ひなたが選んだのかもしれない、と。


「声のこと」と遥は言った。

「録ろうと思って」

「うん」

「準備、してもらえますか」

「します」


 一ノ瀬は、バインダーを脇に抱えて立ったまま、遥の顔を見た。

 五月の終わりに「一回、考えてみる」と言ってから、三週間が経っていた。

 その間、遥はこの話題を一度も自分から切り出してこなかった。

 一ノ瀬も待っていた。

 押さなかった。

 それが正しかったかどうかはわからなかったが、今朝の遥の「決めました」には、迷いがなかった。

 三週間をかけて、一人で腹を括った顔だった。


「機材を確認して、今週中には整えます」

「急がなくていいです。でも——」遥は少し目を伏せた。

「なるべく早く録りたい。元気なうちに」

「わかりました」


 一ノ瀬は部屋を出て、廊下を歩きながら、胸の中で何かが静かに動くのを感じた。

 元気なうちに、という言葉の重さ。

 今の遥はまだ自分の足で歩けるし、声も通る。

 でも病棟に来て以来、遥の体重は少しずつ落ちている。

 骨転移の疼痛は薬でコントロールできているが、消耗は続いている。

「元気なうち」には限りがある。

 遥はそれを、正確に知っていた。


 機材の準備に半日かかった。

 病院にあったビデオカメラは、記録用の古い業務用機器しかなく、そちらは使わないことにした。

 代わりに、佐伯健人がソーシャルワーカーの裁量で病棟の備品費から購入を手配してくれたのは、三脚付きの小型ビデオカメラ一台と、外付けマイク。

 音質が悪ければ、声が聞き取りにくくなる。

 五歳のひなたが、十年後・二十年後にこれを再生したときに、母親の声がくぐもって聞こえてはいけない、という判断だった。


「立ち会いは一ノ瀬さんが?」

 佐伯は準備をしながら聞いた。

「遥さんがそれを希望しています」

「他のスタッフは?」

「今日は私だけで、と言われています」

 佐伯はうなずいた。

 それ以上何も言わなかった。


 録画を行ったのは、六月十三日の木曜日、午後二時だった。

 窓の外は、また雨だった。

 細い糸のような雨が、窓ガラスを斜めに伝っていた。

 中庭の紫陽花が、雨を受けて少し重そうに頭を傾けていた。

 病室の照明は、一ノ瀬が少し明るめに調整した。

 顔が暗く映ると、表情が読みにくくなるから。

 三脚をベッドサイドに立て、カメラのアングルを遥の顔に合わせる。

 帽子をどうするかは遥に任せた。


「被ったまま撮ります」と遥は言った。

「ひなたは、ママのこの帽子を知ってるから」

「そうします」

 一ノ瀬は録画ボタンの確認をして、遥の正面に来た。

「始める前に、一つだけ確認させてください」

「なんですか」

「何本録るか、今日決めてありますか。それとも——」

「考えてきました」

 遥はひざの上の手を見た。

「ひなたの誕生日に再生してほしいやつ。小学校の入学式の前夜。中学校の入学式の前夜。高校の受験が終わったとき。成人の日。結婚式の前の夜」


 一ノ瀬は、心の中で数えた。

 六本。

「それだけでいいですか」

「とりあえず、それで。今日一日でできなかったら、次の機会にします」

「わかりました」


 遥はまっすぐカメラを見た。

 帽子の紺色と、顔の白さが、均一な照明の中でくっきりした。

 ほとんど化粧をしていない顔だった。

 でも目が、はっきりしていた。

「最初から、行きましょうか」

「はい」

「ひなたの誕生日、から」

「そうします」

 一ノ瀬は録画ボタンを押した。


 最初のメッセージは、一分半で終わった。

 遥はカメラに向かって「ひなた、お誕生日おめでとう」と言った。

 笑顔だった。

 作った笑顔ではなく、本当に娘の誕生日を祝っている人間の顔だった。

「何歳になったのかな。パパに聞いたらわかるね。ケーキは好きなの選んでね。チョコレートじゃなくてもいいよ、苺のショートが好きだったんだっけ、でもまた変わってるかもしれないね——」

 声がそこで少し揺れた。

 でも続けた。

「ママはね、ひなたが生まれてきた日のことを、今でも覚えてる。嘘みたいに重かったんだよ、あなた。お医者さんが笑いながら、元気な証拠です、って言ってくれた。ひなたのこと、大好きだよ。それだけ、覚えていてね」

 録画、停止。


 遥が息をついた。

「思ったより、難しいですね」

「そうですか」

「何言えばいいか、わかってるのに。いざカメラの前に立つと、言えないことの方が多い」

「言えたもので十分じゃないですか」

「そうかな」

「ひなたちゃんに届きますよ。声が通っていた」

 遥は少し笑った。

 それから「次、行きましょう」と言った。


 小学校入学の前夜のメッセージは、三分ほどかかった。

 遥は「ひなた、明日から一年生だね」と言った。

 声は穏やかだった。

「ランドセルは自分で選んだ? パパがどれでもいいよって言ってくれたと思う。好きな色でいいんだよ。ママが選んでいいなら、あなたの好きな色を選んであげたかった。でも、自分で選んだ方がずっとよかったね、うん——」

 そこで、遥の声が詰まった。

 一ノ瀬はカメラの傍に立ったまま、録画ボタンに手を置いたまま、動かなかった。

 止めるべきかどうか。

 でも、遥は続けた。

「ごめんね、ひなた」

 遥は目を一度閉じた。

「一緒に行ってあげられなくて。教室の前で写真を撮りたかった。ランドセルが大きくて体が隠れちゃうやつ、撮りたかった——」

 笑いながら言っていた。

 泣きながら、笑っていた。

 遥の顔の形は笑っているのに、目から涙が流れていた。

 いつか、ひなたの前で見せた、あの表情と同じだった。


 一ノ瀬は録画ボタンに置いた手を、そっと外した。

 止めない。

 これでいい。

 この顔を、ひなたに見せるべきだ。

 笑いながら泣いているこの顔が——この人の本当の顔だ。

「でも、パパが連れて行ってくれると思う。朝早く起きて、学校まで一緒に歩いてくれると思う。ひなたのことをパパは、すごく大好きだから。ひなたも、パパのことを大切にしてね。お母さんの分まで——いや、ひなたはひなたの分だけ大切にしてあげて。それで十分。十分すぎるくらい」

 遥が「終わりにします」と言った。

 停止。

 しばらく、二人とも何も言わなかった。

 窓の外の雨が、少し強くなった音がした。

 紫陽花が雨に打たれている。

 それだけが聞こえていた。

「続けられますか」と一ノ瀬は聞いた。

「大丈夫です。続けます」

 遥は小さくうなずいた。


 中学校入学の前夜のメッセージは、短かった。


「ひなた、もう中学生か。背、伸びた? ママに似てたら低いかもしれないけど、パパに似てたら大丈夫。反抗期、来てる? 来てたとしても、パパを困らせすぎないでね。でもちょっとくらいはいいよ。あなたが本気で嫌だと思ったことは、ちゃんと嫌って言っていい。誰にでも。パパにも。それだけ」

 遥は今度は泣かなかった。

 微笑んだまま言い終えた。

 停止。


 高校受験のメッセージは、少し違うトーンになった。

「ひなた、受験、終わったね。どうだった? 結果はまだわからないのかな。でもね——受かっても落ちても、これだけは言わせて。あなたが頑張った時間は本物だから。誰も奪えないから。合格より大事なことが、この世の中にはたくさんある。それをあなたはもうわかってるんじゃないかな、十五歳なら。ちょっと早いかもしれないけど」

 笑いは出なかった。

 声が、静かに穏やかだった。

 一ノ瀬はそれを聞きながら、録画ボタンを押したまま、目を細めた。

 泣かないようにした。

 泣く場所が違う。

 今ここは、遥の場所だ。


 成人の日のメッセージで、遥は最初に「ちょっと待って」と言った。

 目を閉じた。三秒。

 息を整えた。

「ひなた、二十歳か。立派だね。大人だね」

 声が震えた。

 でも続けた。

「ママが言いたかったことは、全部さっきまでに言ってきたつもりだけど——一個だけ、最後に。あなたが笑ってる顔が、ママは好きで。全部うまくいかなくてもいいから、笑ってる時間が少し多いといいな、って。それだけ。あとは、あなたが決めていいよ。ひなたの人生だから」

 停止。


 遥はその後しばらく、何も言わなかった。

 一ノ瀬も言わなかった。

 窓の外の雨が、また細くなっていた。


 最後の一本——結婚式の前夜のメッセージ——の録画が終わったとき、時計は四時を回っていた。

 二時間かかっていた。

 遥がベッドに横になった。

 疲れていた。

 でも眠そうではなく、何かを出し切ったような顔をしていた。

 空になった、ではなく、軽くなった、という感じの。

「全部、録れましたね」と一ノ瀬は言った。

「うん」

「お疲れさまでした」

「一ノ瀬さんこそ」

「私は押してただけです」

「押し続けるのが、一番大変だったと思いますよ」

 一ノ瀬は答えなかった。

 遥が天井を見たまま言った。


「一個、お願いがあるんですが」

「なんですか」

「これ、修二に渡すんですけど——修二が再生するタイミングを、ちゃんと守れるか心配で」

「お気持ちはわかります」

「再婚したり、忙しくなったり——いろんなことが起きると思うから。そのとき、忘れないでいてくれるかどうか、修二が」

「佐伯さんと連携して、定期的にリマインドできるようにします」

「でも、佐伯さんもいつまでもここにいるとは限らないし——」

 遥はこちらを向いた。

「一ノ瀬さんが、忘れないでいてくれますか。ひなたのことを」

 一ノ瀬は少し間をおいた。


 簡単に「はい」と言うべき言葉ではなかった。

 忘れない、という約束の重さを考えた。

 十年後、二十年後のことを考えた。

 自分がどこにいるか、何をしているか、わからない。

 でも。

「忘れません」

 はっきりと、言った。

「ありがとう」

 遥は目を閉じた。

 そのまま、しばらく静かになった。

 一ノ瀬は機材を片付けながら、三脚を畳み、カメラをケースに入れながら、手が少し震えているのに気づいた。

 泣くのは、廊下に出てからにしようと思った。


 廊下に出て、備品室に機材を片付けて、ナースステーションに戻る途中で、一ノ瀬は廊下の突き当たりの部屋のドアの前を通った。

 閉まっていた。鍵がかかっている。

 中から、音はしない。

 でも、使われている気配がある。

 高橋徹が今日も入ったのだろう。

 毎日入るようになっていた。

 何時間かを、あの部屋で過ごしてから、自分の病室に戻る。

 何を描いているのかは、わからない。

 誰も聞かない。

 でも、毎日ドアを閉める音がする。

 鍵をかける音がする。

 一ノ瀬はドアの前で、一秒だけ立ち止まった。

 それから、歩いた。


 ナースステーションに着いて、椅子に座って、記録の画面を開いて——そこで、目の奥が熱くなった。

 今日は四時間、泣かなかった。

 録画ボタンを押しながら、遥が笑い泣きしている間も、最後のお願いを聞いた後も、泣かなかった。

 でも今、画面の前で、誰も見ていないところで、目から何かが来た。

 一ノ瀬は画面を見つめたまま、一度だけ深く息をついた。

 それだけした。

 それだけで、続けた。


 その日の夜、真壁俊介は引き継ぎノートに一ノ瀬からの申し送り事項を読んだ。

 椎名患者、ビデオレター全6本録画完了。

 機材・データは備品室の鍵付きロッカーに保管。

 ご家族への引き渡しは退院時または患者の意向に応じて検討。

 真壁はその一行を読んで、ペンを置いた。

 六本。

 誕生日、小学校入学、中学校入学、高校受験、成人の日、結婚式の前夜。

 椎名遥は今日、娘の二十数年間を、二時間で生きた。

 真壁はカルテを閉じた。

 廊下の窓の外、梅雨の夜が深くなっていた。

 雨は止んでいた。

 中庭の紫陽花は見えないが、明日の朝にはまた咲いているだろう。

 濡れたまま、重いまま、それでも咲いているだろう。


 この仕事を続ける理由がわからなくなる夜がある。

 しかし、今夜は違う。

 真壁はそのことを、言葉にしなかった。

 心の中にだけ、置いておいた。

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