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残照のテラス ─ 死ぬことは、敗北じゃない。ホスピスの看護師あゆみが、逝く人たちから受け取った言葉と、 渡せなかった言葉の、一年間 ─  作者: かーすけ


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第五話 「白を前にして」

 五月下旬の朝は、外よりも先に鳥が知っていた。


 雑木林から聞こえてくるシジュウカラの声が、七時の前から廊下の窓を伝って病棟の内側に滑り込んでくる。

 夜の間に降った小さな雨が地面を湿らせ、朝の光を受けた葉の表面が、一枚一枚、光を弾いていた。

 梅雨の前の、一年でいちばん清潔な空気が満ちる時期。

 新緑はもはや透明感のある黄緑ではなく、奥行きのある濃い緑に変わり、雑木林全体が密度を持ち始めていた。


 真壁俊介が三〇九号室を訪れたのは、回診が始まる三十分前だった。

 前の夜の観察記録を確認していた。

 鎮痛薬の追加処方の後、三時以降は幻肢痛の訴えが記録されていない。

 少し眠れたかもしれない。

 そう判断しつつも、「部屋の提案」に対する返事が来る前に、ルーティンの回診の列に入れることを、真壁は好まなかった。


 ノックをして、ドアを開けた。

 高橋徹は、ベッドに腰かけていた。

 横になっていない。

 窓の方を向いてもいない。

 ベッドの端に両足を下ろして、床の一点を見ていた。

 起き上がっていた、というより、起き上がってしまった、という感じの姿勢だった。

 目の下の隈は昨日より薄い。

 少し眠れたのだと、真壁は確認した。


「おはようございます」

「おはようございます」

 高橋は顔を上げた。

 昨日とは少し違う目だった。

 何かが、夜の間に決まった目だ。

「返事、いいですか」

「聞かせてください」

「使います。あの部屋」


 真壁はうなずいた。

「ありがとう」とも「よかった」とも言わなかった。

 使います、という言葉は、それだけで十分に重い。

 何かを付け足すことで、その重さを薄めたくなかった。


「準備を整えます。今日の午後には使えるようにします」

「わかりました」

 短い沈黙があった。

 シジュウカラの声が、窓の外から続いていた。


「一つだけ」と高橋は言った。

「誰も入ってこないようにしてもらえますか。使ってる間は」

「もちろんです」

「見られたくない」

「わかりました」

 真壁は言った。

「鍵を渡します。あなたが使いたいときに、あなただけが使える部屋にします」

 高橋はうなずいた。

 それだけだったが、真壁にはそれで十分だった。


 三〇八号室の隣、廊下の突き当たり近くに、その部屋はあった。

 八畳ほどの広さ。

 かつては作業療法のためのスペースとして使われていたが、スタッフの退職と入れ替わりの中で、ここ二年ほどは物置に近い状態になっていた。

 折りたたまれた車椅子が二台。

 補助具のストックが入った段ボール箱。

 壁際に、使われていないテーブルが一つ。


 一ノ瀬あゆみが真壁から話を聞いたのは、朝のカンファレンスの後だった。

「車椅子と段ボール、どこかに移動できますか。テーブルを窓際に動かして、椅子を一脚」

「先生が動かしますか」

 一ノ瀬は聞いた。

「二人でやりましょう」

 二人は昼休みの時間に、その部屋を片付けた。

 段ボール箱を廊下に出し、折りたたみ車椅子を備品室に移動して、テーブルを北側の窓の前に置いた。

 北向きの窓は、直射日光が入らず、光が安定している。

 画家が好む光だ。

 真壁が最初からそれを見込んで、この部屋を選んでいたことを、一ノ瀬は今更ながら理解した。


 椅子は一脚だけ。

 テーブルの上には何も置かない。

 鍵は高橋に渡す。

 片付けを終えて、二人は入り口のドア枠に立って部屋を見渡した。

 何もない部屋だった。

 白い壁。

 窓の外に、濃い緑。

 テーブルと椅子。

 それだけ。


「殺風景ですね」と一ノ瀬は言った。

「ちょうどいいんじゃないですか」

「そうですか」

「何もないほうが、白いものを置きたくなる」


 一ノ瀬はテーブルの上に、一つだけ置いた。

 スケッチブック。

 百円均一ではなく、ホームセンターで見かけた、少しだけましな紙質のもの。

 A4サイズ。

 鉛筆も一本、添えた。


「勝手に置いていいんですか」と真壁は聞いた。

「後で怒られたら謝ります」

「そうしましょう」


 鍵を渡したのは、昼食後だった。

 真壁が直接三〇九号室を訪ね、鍵をベッドサイドのテーブルの上に置いた。

「準備できました。好きなときに使ってください。使わない日があっても、気にしないでください」


 高橋は鍵を見た。

 古いタイプの、シリンダー錠の鍵だった。

 病院の鍵とは思えない、民家の玄関錠のような形をしている。


「一ノ瀬さんが、スケッチブックと鉛筆を置いておいた、と伝えてくれと言っていました」

「……そうですか」

「不要なら片付けます」

「いいです」

 高橋は鍵を手に取った。

「そのままで」


 高橋が初めてその部屋に入ったのは、午後二時を少し過ぎたころだった。

 鍵を持ったまま、廊下を歩いた。

 車椅子ではなく、自分の足で。

 骨肉腫は肺に転移しているが、足の機能はまだ残っていた。

 歩くと息が上がりやすいが、この距離なら問題ない。


 ドア枠の前に立って、しばらく動かなかった。

 鍵を差し込んだ。

 回した。

 ドアが内側に開いた。

 光が、真っ先に届いた。

 北向きの窓から入ってくる、均一な、白に近い光。

 直接照らすわけではないが、ふわりと空間を満たす光。

 画家が「アトリエ光」と呼ぶ類のものが、ここにもあった。


 高橋は部屋に入った。

 テーブルの前の椅子に座った。

 テーブルの上のスケッチブックと鉛筆を見た。

 それから、何もしなかった。


 五分が経った。

 十分が経った。

 窓の外では、雑木林が風に揺れていた。

 五月の光の中で、葉が光を砕いては組み立て、また砕く。

 その音が、静かな部屋に届いていた。


 スケッチブックを手に取った。

 A4サイズ。

 二十枚綴り。

 一枚目をめくると、きれいに白いままの紙が現れた。

 白。

 高橋は、その白を見た。

 美大に入学して最初の課題が、白いキャンバスに向き合うことだった、と思い出した。

 担当教官は言った——

「最初の一筆が怖くて当然だ。だが怖い理由は、失敗が怖いからではない。完璧な白を汚すことが、もったいない気がするからだ。いいか、白は完成じゃない。白は何もない、ということだ」

 あのころの右手を、思い出した。

 思い出した瞬間に、幻肢痛が来た。

 ない右腕の先が、じわりと熱を持った。

 筆を持とうとしている感覚。

 右手が、スケッチブックの上に伸びようとしている。

 ない手が。


 高橋は左手を見た。

 自分の左手。

 五本の指。

 利き手ではないというだけで、見慣れないものを見るような気がした。

 右手より少しだけ細い。

 ナックルの形が違う。

 人差し指の第二関節に、ずっと前からある傷跡がある。

 転んでできた傷で、小学生のころのものだ。


 鉛筆を、左手で持った。

 持ち方がわからなかった。

 正確には、わかるのだが、手がそれを覚えていなかった。

 右手が覚えている持ち方を、左手に翻訳しようとすると、指がぎこちなくなる。

 力加減がわからない。

 鉛筆を落とした。拾った。

 また持った。

 スケッチブックの前に、鉛筆を持って座った。

 その状態のまま、また時間が経った。


 三時の薬の配薬をしながら、一ノ瀬は三〇八号室の隣のドアが閉まっていることを確認した。

 声は聞こえない。

 物音も聞こえない。

 中に人がいるのかどうかもわからない。

 一ノ瀬はその前を素通りした。

 覗かない。

 入らない。

 声もかけない。

 そういう部屋だと決まっているから。

 でも、ドアが閉まっているということは、誰かが中にいるということだ。


 高橋が鉛筆を動かしたのは、三時を過ぎてからだった。

 最初は、意図して線を引こうとしたわけではなかった。

 左手が紙の上で動いた——それだけだった。

 引けたのは、直線でも曲線でもなかった。

 ただの、震えた跡だった。

 鉛筆の芯が紙に触れて、5センチほど動いて、そこで止まった。

 細い、かすかな、灰色の線。

 子どもでももう少しましなものを引く。

 美大で三年間、右手で描き続けてきた人間の「最初の線」とは、到底思えない代物だった。


 高橋はその線を見た。

 見て、何も感じないと思った。

 しかし正確には、「何も感じない」のではなく、「何を感じるのかまだわからない」だった。

 もう一本、引いた。

 また震えた線が出た。

 さっきより少し短い。

 紙の白の上に、あやふやな灰色。

 三本目。

 手の震えが、少しだけ落ち着いた。

 それだけだった。


 高橋は鉛筆を置いた。

 紙の上の三本の線を眺めた。

 もし誰かに見せたら何と言うだろう、と思った。

 答えが来る前に、思考を止めた。

 誰にも見せない。そう決まっている。


 立ち上がった。

 鍵をかけた。

 廊下に出た。

 自分の病室に戻る途中で、三〇三号室の前を通った。

 浅野徳三郎の部屋だ。

 ドアが半分開いていて、中からラジオの音が小さく漏れていた。

 野球の中継らしかった。

 高橋は通り過ぎた。


 その日の夕方、浅野徳三郎が一ノ瀬に言った。

「孫を呼んでもいいか」

 一ノ瀬は血圧計を腕に巻きながら、「もちろんです」と答えた。

「来たがらないかもしれないが」

「それはわからないですよ」

「おれは孫の親父——つまり賢司と折り合いが悪かった。賢司の子どもにも、あまりいい爺じゃなかった。だから——」

「孫さんから見た浅野さんのことは、孫さん本人に聞かないとわかりません」

 浅野は鼻の奥で笑った。

「若いのに、はっきり言うな」

「そうですか」

「悪くはない」


 血圧の数値を一ノ瀬がバインダーに記録する間、浅野は窓の外を見た。

 五月の夕暮れが、住宅地の屋根の向こうで橙色になりかかっていた。

「二十五と、二十二だと言いましたね、この前」

「言った」

「二十二の方は、同い年の患者さんが今いるんです。ここに」

 浅野はこちらを見た。

「美大の学生で、絵を描いていた子で——」

 一ノ瀬は言いかけて止まった。


 患者の情報を話すべきではないと思ったからではなく、どこまで言うべきかを考えたからだ。

「今日、初めて部屋を使いました。病棟の中の、ちっちゃいスペースですけど」

「どんな絵を描く子だ」

「見たことないんです。まだ」

 一ノ瀬は正直に言った。

「でも——今日、使い始めました」

 浅野はまた窓の外を見た。

「二十二か」

「はい」

「おれは二十二のとき、もう会社を立ち上げる準備をしていた。死ぬことなんか考えたこともなかった」

「そうですよね」

「その子は、どういう気持ちで描いてるんだろうな」

 一ノ瀬は少し考えてから言った。

「怖いと思います。でも——怖いのに、鍵を持って部屋に入った」

 浅野はしばらく黙った。

 それから短く言った。

「孫を、呼ぶ。連絡の取り次ぎを頼めるか」

「はい」

「賢司は経由させたくない。孫に直接、俺から電話させてほしい」

「わかりました。手続きしておきます」


 夜、三〇九号室の電気が消えた後、高橋徹はベッドの上で目を開けていた。

 昨夜と同じ姿勢。

 天井を見ている目。

 しかし、昨夜と何かが違った。

 昨夜の自分が抱えていたのは問いだった。

「描く意味があるか」という、答えのない問い。

 今夜の自分が持っているのは、三本の線だった。

 見るも無残な、震えた三本の線。

 紙の上のあの線は、意味とか価値とか、そういう言葉からは遥かに遠い場所にある。

 ただ、あった。

 確かに、あった。


 右腕の幻肢痛が来ていた。

 今夜も、ない腕がじわりと焼けていた。

 しかし高橋は左手を上げなかった。

 今夜は。

 代わりに、目を閉じた。

 暗い瞼の裏に、あの三本の線を思い浮かべた。

 細くて、頼りなくて、震えていて、名前もつけられない線。

 でも、白い紙の上にある。

 それだけが確かだった。


 翌朝、高橋は目が覚めた後、しばらく天井を見てから、ベッドサイドのテーブルに目をやった。

 鍵があった。

 昨日の昼に真壁から受け取った、シリンダー錠の鍵。

 高橋は鍵を手に取った。

 そのとき、画材ケースが目に入った。

 棚の上にある、木製の長いケース。

 錆びかかったキャッチ。

 入院してから一度も開けていない。


 高橋は立ち上がった。

 棚の前に立った。

 画材ケースのキャッチに手をかけた。

 硬かった。

 長い間使っていないせいだ。

 少し力を入れると、ぱちんと音を立てて開いた。


 中身を見た。

 絵の具のチューブが何本か。

 固まりかけているものもある。

 パレットナイフ。

 小筆が数本。

 細筆と、太い平筆。

 みんな、右手のための道具だった。


 そしてケースの蓋の裏側——普段は何も入れない部分に、一枚の紙が挟まっていた。

 二つ折りにされた、A4の紙。

 高橋はそれを取り出した。

 開いた。

 鉛筆のデッサンだった。

 人物画。

 女性。

 横顔。

 椅子に座っている。

 窓際で、光を受けている。


 描かれているのは、母親の横顔だった。

 入院が決まった去年の六月——右腕の切断手術の一週間前、実家のリビングで描いたものだ。

「右手で描く最後の絵になるかもしれない」と思いながら描いた。

 母親はそれを知らなかった。

 テレビのニュースを見ていた。

 高橋はその横顔を、三十分で描いた。

 描いた後で、丸めて捨てようとした。

 捨てられなかった。

 それがここに入っていた。


 高橋は、その紙をしばらく見ていた。

 右手で描いた最後の絵。

 線が、細くて、確かだった。

 右手の自信を知っている線だった。

 高橋はゆっくりと紙を折り直した。

 ケースの蓋の裏に、戻した。

 キャッチを閉じた。


 鍵を握って、部屋を出た。

 廊下に、朝の光が差し込んでいた。

 雑木林の緑が、昨日よりまた濃くなった気がした。

 梅雨の気配が、少しずつ近づいていた。

 空気の湿り気が変わっている。

 それでも今朝の光はまだ、きれいだった。


 突き当たりの部屋のドアの前に立って、鍵を差し込んだ。

 ドアを開けた。

 テーブルの上に、スケッチブックがあった。

 昨日の三本の線が、一枚目の紙に残っていた。

 高橋は椅子に座った。

 鉛筆を左手で持った。

 昨日より、少しだけ、手がすんなり動いた気がした。

 気のせいかもしれない。

 でも、気のせいでも、今はいい。

 白い紙の上に、四本目の線を引いた。


 廊下の窓から、五月の朝の風が入ってきていた。

 その日の聖マリアナ丘の上病院の緩和ケア病棟は、いつもと同じように静かに一日を始めていた。

 三〇三号室では浅野徳三郎が孫への電話の文面を考えていた。

 三〇五号室では椎名遥が、ひなたへのビデオメッセージを録るかどうかを、まだ迷っていた。

 そして、廊下の突き当たりの部屋では——

 まだ誰にも見せていない線が、一本ずつ増えていた。

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