第四話 「空白のキャンバス」
五月の連休が明けた翌日、聖マリアナ丘の上病院の裏手にある雑木林で、新緑が盛りを迎えていた。
コナラとクヌギが葉を広げ、朝の光を受けて、病棟の北側の廊下に木漏れ日を落としていた。
濃い緑ではまだない、光を透かす若々しい緑——黄緑と金緑の中間のような色——が、廊下の白い床の上で、揺れながら、消えながら、また揺れた。
風が吹くたびに、葉の擦れる音が窓から低く届く。
海の波音に似た、あの音。
三〇九号室に、高橋徹が入院したのは、その連休の最終日だった。
二十二歳。
身長は百七十五センチほどだが、車椅子に乗っているせいで、部屋に入ってきた瞬間の印象が「小さな人」に見えた。
日焼けしていない肌。
目の下の隈。
それでも、顔のパーツが整っていた——美大生らしい、鋭くて繊細な目鼻立ち。
そして、右腕がなかった。
右の袖が、途中からなかった。
骨肉腫の手術で、肩から切断している。
義手は使っていない。
理由は後でわかった。
右腕がなくなってから、高橋徹は絵を描くことを、完全にやめていたのだ。
「入院時のオリエンテーション、させてもらってもいいですか」
一ノ瀬あゆみが三〇九号室に入ったとき、高橋は窓の方に車椅子を向けたまま、振り返らなかった。
「別にいいです」
返事があっただけましだ、と一ノ瀬は思った。
入院前の情報では、前の病院での対人関係が相当に難しかったとある。
担当看護師に怒鳴ったことも、一度や二度ではない。
一ノ瀬はベッドサイドに立ち、バイタル計測の準備をしながら言った。
「窓、開けますか。今日は気持ちいい風が入ってきそうだったので」
「好きにしてください」
ラッチを外して窓を細く開けると、五月の朝の空気が入ってきた。
草と土と、淡い花の香り。
雑木林から来る、木の葉の新しい匂い。
高橋は顔を向けなかったが、かすかに鼻が動いた。
「骨肉腫の発症が去年の三月で、右腕の手術が六月。その後、肺転移の確認が——」
「知ってます、自分のことだから」
「そうですね、すみません」
一ノ瀬は血圧計のカフを、左腕に巻いた。
右腕がない場合は左腕で計測する。
それは当然のことだが、高橋は一ノ瀬の手が自分の左腕に触れた瞬間に、わずかに身体を固くした。
「痛みはありますか」
「あります」
「どこですか」
「ない方の腕」
一ノ瀬は一拍置いた。
「幻肢痛ですね」
「そう」
「夜ですか、昼ですか」
「夜が多い。眠れない」
幻肢痛。
切断した手足が、まだあるかのように感じる現象。
ないはずの右腕が、じわじわと焼けるような、あるいはねじられるような痛みを発し続ける。
神経系の誤作動だ——脳が、もうそこにはない手足の信号を、まだ受け取ろうとし続ける。
医学的なメカニズムはわかっている。
しかし、その痛みは本物だ。目に見えない手が、実際に燃えている。
「薬で緩和できます。ミラーセラピーという——」
「聞きました。やってみて、ダメでした。どの病院でも」
「そうですか」
一ノ瀬は計測を終えて、数値を記録した。
それから、部屋を見渡した。
荷物が少なかった。
スーツケース一つ。
衣類と洗面用具。
それだけ。
普通なら、長期入院の患者は本や小物を持ち込む。
趣味のものを。
でも高橋の部屋には、個人の持ち物が、ほとんどなかった。
棚の上に一つだけ、何かがあった。
細長い木製のケース。
画材入れだ。
キャッチが錆びかけている。
ずっと使われていないものの錆び方。
しかし、捨てられてもいない。
「あのケースは、絵の道具ですか」
「そうです」
「美大生だったんですよね」
「です、じゃなくてでした。もう描きませんから」
高橋の声は、投げやりではなかった。
それが逆に、重かった。
冷静に、確定的に言っている。
決意ではなく、諦め。
この二つは違う。
諦めた人間は怒らない。
怒る力さえ、使い切っている。
一ノ瀬は、部屋を出る前にもう一度だけ言った。
「また明日来ます。何かあればナースコール、押してください」
「はい」
ドアを閉めながら、一ノ瀬は廊下で少しの間立ち止まった。
あの画材ケースを、なぜ持ってきたのだろう。
三日後の朝、真壁俊介が三〇九号室を訪ねた。
通常の回診の時間より三十分早かった。
高橋がほぼ眠れていないことを、夜間の観察記録で確認していたからだ。
眠れていない患者を、午前九時の一斉回診の列に入れて形式的に診ることを、真壁は好まなかった。
「おはようございます、高橋さん」
高橋はベッドに横になっていた。
目は開いている。
眠れなかったのではなく、眠ろうとしていなかったのだ、と真壁は見て取った。
天井を見ている目だ。
「昨夜の幻肢痛は、どうでしたか」
「三時ごろに酷くなりました。その後は少し落ち着いた」
「薬を調整しましょう。ガバペンチンの量を増やして、夜間のレスキュー薬も追加します」
「先生」
高橋は天井を見たまま言った。
「聞いていいですか」
「どうぞ」
「俺、あと何ヶ月ですか」
真壁は椅子を引き寄せてベッドサイドに腰を下ろした。
立ったまま答えなかった。
座って、同じ目線の高さで答えることを選んだ。
「今の状況では、三ヶ月から、うまくすれば半年。でも、これは平均値です。短くなることも、長くなることも、どちらもあります」
「平均値が三ヶ月」
「はい」
「今日が五月の八日だから——」
「八月か、九月」
高橋は、首だけ動かして窓の方を向いた。
木漏れ日が、まだ床に落ちていた。
揺れる緑の影。
「夏か」
「そうなりますね」
「俺、夏が好きでした。美大の友達と、海に行ったりして」
過去形だった。
真壁は、その過去形を聞いた。
「絵は、いつから描いていましたか」
高橋は少し間を置いた。
「小学校二年のときから。最初は漫画の模写で。十五のときに初めて油絵具を使って、あ、これだって思った」
「右利きですか」
「でした」
また過去形。
真壁はそれを受け止めて、次の言葉を慎重に選んだ。
医師として何度も考えてきた問いを、今この場で発していいかどうか、見極めながら。
「高橋さん、一つお話しさせてもらっていいですか」
「聞きます」
「強制じゃありません。考える材料として聞いてほしい」
「はい」
真壁は、前に手を組んだ。
「右腕でなければ描けない、という思い込みは——本当に、正しいですか」
高橋の目が、天井から真壁の顔に移った。
初めて、まともに目が合った。
「利き手でない手で描くことを、あなたはまだ本格的に試したことがない、と聞いています。手術の後、リハビリの場でペンを持ったことはあっても、絵を描こうとしたことはなかったと」
「そりゃそうですよ」高橋の声が、わずかに硬くなった。
「右で描くのと同じようには描けない。わかりきってる」
「同じようには、描けないでしょう」
「だったら——」
「同じように、ではなく——」
真壁は言葉を切った。
「この病棟に、一つ空いているスペースがあります。かつて患者の方が作業療法に使っていた部屋で、今は使われていない。窓が大きくて、北向きで、光が安定している」
高橋は何も言わなかった。
「そこを、使ってみませんか」
部屋に沈黙が落ちた。
木漏れ日が揺れていた。
廊下の向こうから、酸素濃縮器の音が届いていた。
どこかの病室でテレビが鳴っている声。
春の平日の、病棟の朝の音。
「何を描けっていうんですか」
「何も決めていません。描けるなら、何でも」
「左手で?」
「左手で」
「笑えない」
「笑うつもりはありません」
高橋は天井を見た。
また、目が遠くなった。
でも今度の遠さは、さっきとは違う。
さっきは諦めの遠さだったが、今は——何かを見ようとしているときの遠さに見えた。
「考えます」
「ゆっくり考えてください。返事はいつでも」
真壁が立ち上がりかけたとき、高橋が言った。
「先生、一個だけ聞いていいですか」
「どうぞ」
「左手で描いたものが、まともな絵にならなかったとしても——それでも描く意味って、あると思いますか」
真壁は、すぐに答えなかった。
外科医だった頃の自分を思い出した。
執刀中に患者を失った夜のことを。
あの夜以来、ずっと抱えている問いと、高橋の問いが、どこかで同じ形をしていた。
「あると思っています」
「なぜ」
「完成するかどうかと、意味があるかどうかは、別の話だから」
高橋は、何も言わなかった。
真壁は頭を下げて、部屋を出た。
廊下に出ると、壁に背を預けて、一本息をついた。
五月の朝の空気が、廊下の窓から入ってきていた。
新緑の匂い。
雑木林の葉が揺れている音。
世界は、まるで何も知らないかのように、毎朝新しくなっていく。
ナースステーションに戻る途中で、一ノ瀬とすれ違った。
「高橋さん、どうでしたか」と彼女は聞いた。
「提案しました」
「例の部屋の?」
「うん」
「受けてくれそうですか」
真壁は少し考えてから言った。
「受けるかどうかより、あの質問が出てきたことの方が大事だ」
「どんな質問でしたか」
「まともな絵にならなくても、描く意味があるか、と」
一ノ瀬は黙った。
「意味があると思いますか? 先生は」
「あると答えました」
「私もそう思います」一ノ瀬はすぐに言った。
「でも——」
「でも?」
「高橋さんが、そう思えるかどうかは、また別の話ですよね」
真壁はうなずいた。
「そこが、今から始まる話だ」
その夜。
三〇九号室の電気が消えた後、高橋徹は暗い部屋で、ひとり目を開けていた。
右腕の幻肢痛が来ていた。
ない腕が、じわじわと焼けていた。
鎮痛薬を追加してもらっていたが、この痛みだけは、まだ薬が完全には届かない。
燃えている手で、何かを持とうとしている感覚。
筆を、持とうとしているような感覚。
まともな絵にならなくても、描く意味があるか。
高橋は左手を目の前に上げた。
暗い天井の方へ、左手を伸ばした。
その手は、本人も知らないうちに、虚空で何かを掴もうとするような形になっていた。
持てない筆を、持とうとしているような。
夜が深くなっていく中、聖マリアナ丘の上病院の三〇九号室だけが、その問いを抱えたまま、静かに時を刻んでいた。
翌朝、高橋が真壁に告げる返事を、真壁はまだ知らなかった。




