第三話 「マザー・イン・ブルー」
四月の終わりは、緑の濃度が一気に増す季節だった。
中庭の芝が、雨上がりの翌朝にはひとまわり青みを帯びている。
低木のツツジが、まだ蕾をほどきかけているくらいの段階で、ぽつぽつと赤紫の花を開き始めた。
土の匂いが、晴れた午後には窓を伝って病棟の廊下まで届いてくる。
乾いた春の土の匂いではなく、水気を含んで柔らかくなった、命の準備をしている土の匂いだ。
三〇五号室に、椎名遥が入院して六日が経った。
一ノ瀬あゆみは、その日の朝のバイタル測定を終えた後、カーテンを少し開けて光を入れながら言った。
「今日、娘さんが面会に来る日でしたよね」
「うん」
遥は、ベッドの上で膝を抱えるようにして座っていた。
パジャマの上から薄いカーディガンを羽織っている。
肩のラインがひどく細い。
若年性乳癌の化学療法の影響で髪が抜け、今はニット素材の帽子を被っている。
紺色の帽子。
顔色は悪くないが、目の周りが少し腫れていた。
昨夜、泣いていたのだろうと一ノ瀬は思ったが、言及しなかった。
「何時ごろ来ますか」
「十一時って夫から連絡が来てた。でも、来るかな」
「来ますよ」
「そうじゃなくて」遥は窓の外を見た。
「ひなた——うちの娘——が嫌がらないかな、って。この間電話したとき、最初ちょっと黙ったから」
「五歳の子が病院を怖いと思うのは自然ですよ。でも、お母さんに会いたいっていう気持ちのほうが、絶対に大きいです」
「そうかな」
「そうです」
一ノ瀬は、断言した。
根拠を並べなかった。
ただ、そうです、と言った。
遥はそれを聞いて、少し目を伏せた。
ひなたが病室に来たのは十一時二十分だった。
五歳の女の子は、紫色のワンピースを着て、白いスニーカーを履いていた。
髪を二つに結んでいる。
父親の椎名修二(三十八歳)が、後ろから手をつないで入ってきた。
修二は背が高く、切れ長の目をした、整った顔立ちの男だった。
しかし今日は、その顔に何かが貼り付いているような、作り物めいた落ち着きがあった。
ひなたは部屋の入り口で止まった。
ベッドに座っている遥を見た。
帽子をかぶった、知っているはずのお母さんの顔。
でも、何かが少し違う。
少し薄くなった気がする。
子どもは言語化できないまま、何かを感じている。
「ひなた、ほら、ママのところに行っておいで」
修二が促した。
ひなたは二歩、入った。
三歩目で止まった。
「ママ」
「来たね」遥は笑った。
目が少し滲んだが、笑った。
「ひなた、大きくなった」
「なってない。六日しか経ってない」
子どもの論理的な反論に、一ノ瀬は廊下から少し笑った。
ひなたはベッドの脇まで来て、遥の手を握った。
遥は娘を引き寄せ、帽子のつばが当たらないように顔を傾けて、頭の上に頬を押し当てた。
ひなたは大人しくされていた。
そうしている間、ずっと母親の顔を下から見上げていた。
「ひなた」
「なに」
「ママのこと、覚えてる?」
子どもはきょとんとした顔をした。
「なに、それ。ここにいるじゃん」
「そうじゃなくて」
「?」
「もっとずっと先のこと」遥は言葉を探した。
「ひなたがもっと大きくなったときも、ママのことを——」
「ままはどこへいくの」
ひなたの声は、静かで、まっすぐだった。
部屋の空気が、一瞬で変わった。
修二が動く気配。
一ノ瀬は廊下で息を止めた。
遥は、口を開いたまま、次の言葉が来なかった。
どこへ行く。
どこへ行くの。
どこへ行くの、ママ。
五歳の子どもが発した問いは、あまりにも正確だった。
この病棟の、この部屋の、この状況が持つ本質を、すべて見抜いたような問いだった。
「ひなた——」
「おそらは、とおいの?」
遥は、泣いた。
声は出なかった。
ただ、目から涙が出た。
笑顔のまま。
顔の形は笑っているのに、涙だけが流れた。
ひなたはそれを見て、少し不思議そうな顔をした後、母親のカーディガンの袖を両手で引っ張った。
「ままなかないで」
「泣いてない」
「泣いてる」
「泣いてないよ」
「うそつき」
遥は笑った。
さっきとは違う、ぐしゃぐしゃになった、本物の笑いだった。
ひなたも釣られてふふっと笑った。
廊下に立っていた一ノ瀬は、ナースステーションへ戻る足を、しばらく動かせなかった。
昼過ぎ、修二がひなたをトイレに連れて行った隙に、一ノ瀬は遥の部屋に入った。
遥は窓の外を見ていた。
中庭のツツジ。
赤紫の花が、午後の光の中でくっきりと色を主張している。
「さっきは聞いてましたか」
遥は振り返らずに言った。
「廊下にいました」
「恥ずかしいな」
「全然」
「泣いちゃった。最悪」
「最悪じゃないです」
一ノ瀬は遥の横のスツールに腰を下ろした。
「ひなたちゃん、すごい子ですよ」
「怖いくらい鋭い。昔からそういう子で」
遥はカーディガンの袖を引っ張った。
細い腕。
骨がわかる手首。
「あの子が五歳の間に、私は——いなくなるかもしれない」
「うん」
「そうなったら、あの子は、私のことを覚えていられると思いますか」
一ノ瀬は、すぐには答えなかった。
前の夜に考えたことを思い出した。
自分が五歳のとき。
母親の顔。
思い出せる部分と、思い出せない部分。
「どう答えたら正直になるか、考えてます」と一ノ瀬は言った。
「きれいごとを言いたくないので」
「言わないでほしい。きれいごとは、もう十分聞いた」
「そうですよね」
少しの間、沈黙があった。
窓の外でスズメが一羽、芝生に降りて、何かをついばんでいた。
「正直に言います」一ノ瀬は言った。
「声は、残ります。顔は、薄くなるかもしれない。でも、声は残る。だから——」
言いかけて止まった。
「だから?」
「声を記録しておく方法が、あります」
遥がこちらを向いた。
一ノ瀬は続けた。
慎重に、言葉を選びながら。
「ビデオレターを撮る方、います。この病棟でも何人か。娘さんの誕生日ごとに再生できるように、ひなたちゃんへのメッセージを。今日じゃなくていい、考えてみてほしいです」
遥は、しばらく何も言わなかった。
それから、窓の外をもう一度見た。
ツツジ。
風に揺れている。
赤紫の花びらが、何枚か、地面に落ちていた。
「一回、考えてみる」
「うん」
「でも、一個だけ聞いていいですか」
「どうぞ」
「一ノ瀬さんって、子ども好きですか」
唐突な質問だった。
一ノ瀬は少し目を丸くした。
「好きです。すごく」
「そうか」遥は小さく笑った。
「じゃあ、ひなたのこと、たまに遊んでやってください。面会に来たとき、外で」
「喜んで」
「ありがとう」
夕方、修二が一人でナースステーションを訪ねてきた。
「少しよろしいですか」と言って、廊下の端の、人が通らない場所を選んだ。
佐伯健人——メディカルソーシャルワーカー——がちょうどステーションにいて、修二の表情を見て立ち上がった。
三十五歳。
体格がよく、人当たりがいい。
しかし今日は、笑顔を作らなかった。
修二の顔に浮かんでいるものが、笑顔で受けるべきものではないとわかったから。
「先生に聞いたんですが」修二は声を落として言った。
「遥の、今の——状態について、もう少し詳しく教えてもらえますか。余命という言葉で、あの、どのくらい——」
「担当の真壁先生と、改めてご面談の機会を作りましょうか」
「そうじゃなくて」修二は額に手をやった。
「そうじゃなく、俺が聞きたいのは——」
言葉が来なかった。
廊下の窓から、夕暮れの光が斜めに差し込んでいた。
それが修二の横顔を照らして、目の下のくまを浮き彫りにした。
この六日間、眠れていないのが一目でわかった。
「延命という選択は、遥は望んでいないんです」
修二は絞り出すように言った。
「本人がそう言っている。でも——俺は」
喉が動いた。
「俺は、あとどれだけの時間があるのかを知って、その時間の使い方を考えたい。ひなたのために、何を残せるかを考えたい。それは——おかしいですか」
「おかしくないです」佐伯は言った。
即座に、はっきりと。
「全然、おかしくない」
修二は、その答えを聞いて、少し肩の力が抜けた。
「一度、ご夫婦そろってお話しできる場を作りましょう。その前に、今抱えていることを、今日俺に話してもらえますか。時間、大丈夫ですか」
「——お願いします」
夜、一ノ瀬は記録を書きながら、スピリチュアル・ペインという言葉について考えた。
肉体の痛みはコントロールできる。
医学はそこまで来ている。
しかし、人生の意味を問う痛みに、薬はない。
「自分がいなくなった後、娘は大丈夫か」という問いに答える薬も、「妻を失う時間をどう生きればいいか」を教える処方箋も、存在しない。
あるのはただ、傍にいること、だけだ。
窓の外では、四月の夜が深くなっていた。
昼間よりずっと暗くなった空の下、中庭のツツジは見えない。
けれども、明日の朝になれば、また咲いているだろう。
一夜ごとに、少しずつ花が開いていくだろう。
一ノ瀬はパソコンの画面から目を上げ、廊下の先の三〇五号室のドアを見た。
光は漏れていない。
遥は今夜、眠れているだろうか。
明日の朝、もう一度、声のことを話そう、と一ノ瀬は思った。
その提案が、遥の中で何かを変えるきっかけになるかどうか、まだわからなかった。
でも、何もしないよりは、何かを手渡せる。
どんなに小さくても、手渡せるものがある。
それだけが、この仕事を続ける理由だった。




