第二話 「痛みのグラデーション」
入院から五日目の朝、三〇三号室の窓の外では、桜が散っていた。
正確には、もう散り終わりかけていた。
四月の中旬、聖マリアナ丘の上病院の中庭に並ぶ三本のソメイヨシノは、花びらをほとんど落とし切り、代わりに若葉の芽が、恥ずかしそうに緑の頭をもたげはじめていた。
一枚、また一枚と風に運ばれてくる花びらが、窓ガラスの外側を滑り落ちていくのを、浅野徳三郎はベッドの上から見ていた。
三日前から、痛みのコントロールが変わっていた。
PCAポンプ——Patient Controlled Analgesia、患者自己調節鎮痛——の小さな装置が、ベッドサイドのスタンドに吊り下げられている。
プラスチックの筐体に収められた薬液バッグと、細いチューブ。
チューブの先は、浅野の右前腕の静脈に刺さった留置針に繋がれている。
手元のボタンを押せば、設定された量のモルヒネが自動的に投与される。
一定時間が経過しなければ次の投与はロックされる——過剰摂取を防ぐ設計だ。
最初に一ノ瀬あゆみから説明を受けたとき、浅野は黙って装置を見つめた。
「これを押せば、痛みが消えるのか」
「和らぎます。消える、とは言い切れませんが、今よりずっと楽になるはずです」
「モルヒネというのは、麻薬だな」
「医療用麻薬です。正しく使えば依存にはなりません。先進国では緩和ケアの標準的な鎮痛薬で——」
「知っている」
浅野は遮った。
だが語気に棘はなかった。
「知った上で聞いた。麻薬を使わなければならないほど、ということの確認だ」
一ノ瀬は少し間を置いた。
正直に答えるかどうか、躊躇ったのではない。
どういう言葉が、この人に届くかを考えたのだ。
「はい。浅野さんの痛みは、今の段階では非オピオイド系の鎮痛薬では対応しきれません。タイトレーション——少量から始めて効果と副作用を見ながら最適な量に調整していく作業——を丁寧にやりますから、最初は眠気が強く出るかもしれませんが、必ず安定します」
「眠くなるのか」
「最初の数日は、そうなる方が多いです」
浅野は鼻から息を吐いた。
「まあいい。試してみる」
タイトレーションは、教科書通りに進んだ。
初日。
モルヒネの開始量は経口換算で一日三十ミリグラム相当からはじめ、レスキュードーズ——突出した痛みのための追加投与——を一日四回まで許可した。
浅野は午後の大半を眠って過ごした。
二日目。
眠気は続いたが、痛みのスコアが七から四に落ちた。
三日目。
浅野が初めて、自分でボタンを押した。
右脇腹が重くなる感覚が来る前に、静かに、ためらいながら。ほんの数分後、じわりとした温かみが体の芯に広がる感覚があって、浅野は目を閉じた。
効いた、と彼は思った。
単純に、そう思った。
しかし、真壁俊介が予測していた事態は、まさにそこから始まった。
五日目の朝の回診。
真壁と一ノ瀬が揃って三〇三号室に入ると、浅野はベッドをギャッジアップして半身を起こし、窓の外を見ていた。
テレビはついていない。
手に本はない。
ただ、外を見ていた。
「おはようございます。昨夜の痛みの具合はいかがでしたか」
「三か四だ。許容範囲だ」
「ボタンは何回か押されましたか」
「夜中に一度だけ」
真壁はカルテのデータと照合しながらうなずいた。
PCAポンプのメモリ——投薬ログが自動記録される——によれば、昨夜午前二時十七分に一回のみ。
バイタルの乱れもない。
鎮痛は良好なコントロール下にある。
「身体の痛みは落ち着いてきましたね。ほかに何か、気になることはありますか」
浅野は答えなかった。
真壁は続けた。
「眠れていますか」
「眠れない」
「夜中に目が覚めますか」
「ずっと、眠れていない」浅野はぽつりと言った。
「薬を打てば眠れる。だが眠ると、夢を見る」
一ノ瀬は手元のバインダーに何かを書きとめた。
「どんな夢ですか、差し支えなければ」
浅野はまた黙った。
窓の外。
若葉が風に揺れていた。
花びらは、もうほとんど残っていない。
代わりに、緑。
産毛のような薄い緑が、ぼんやりと枝を覆っている。
生きているものの色だった。
「会社の夢だ」
浅野はゆっくりと言った。
「まだ若い頃の。俺が一番でかい仕事をしていた頃の。朝から晩まで動いていて、誰もついてこれないくらいのスピードで、俺だけが走っていた頃の夢だ」
「それで?」
「目が覚める。痛みはない。静かだ。しかし——」
口が、そこで止まった。
浅野徳三郎は、七十八年間、自分の内側を他人にさらしてこなかった男だ。
それが、今、何かを言いかけて止まっている。
「しかし、という続きは?」
真壁の声は、急かさなかった。
「静かすぎる」
それだけ言って、浅野は口を閉じた。
静寂が、病室を満たした。
酸素濃縮器の音。
廊下を誰かが通る足音。
窓の外で、木の枝が揺れる気配。
ナースステーションに戻ると、真壁はカルテにひとつの言葉を書き加えた。
スピリチュアル・ペインの出現を確認。
肉体的な苦痛が緩和されると、多くの患者がこの段階に至る。
痛みという「今この瞬間」に集中せざるを得ない状態から解放されたとき、人間の意識は一気に別の領域へと向かう。
過去への後悔。
未来への不安。
そして、根源的な問い——自分の人生には意味があったか、という問い——が、急に声を上げはじめるのだ。
「真壁先生」一ノ瀬が声をかけた。
「浅野さん、夢の話のあとに、何かもう一言、言いかけてやめた気がしたんですが」
「俺もそう感じた」
「続きを引き出すべきでしたか」
「今日は、必要なかった」
真壁はカルテから目を上げた。
「あの人は今、自分の中に出てきたものの大きさに、まだ驚いている段階だ。自分が何を怖れているかを言葉にするには、もう少し時間がいる。俺たちは急かさない。ただ、毎日扉を開けておく」
一ノ瀬はうなずいた。しかし心の中では、もう一つ別のことを考えていた。
「静かすぎる」——あの言葉の後ろにあるものは、なんだろう。
その日の午後、聖マリアナ緩和ケア病棟に、新しい入院患者が来た。
椎名遥、三十四歳。
入院受付に記されたカルテの病名欄には「乳癌・肺転移・多発骨転移」とある。
電動の車椅子ではなく、自分の足で歩いてきた。
紺のトートバッグを肩にかけ、片手に小さなスーツケース。
もう片方の手には、スマートフォンを握りしめていた。
画面には、幼い子どもの写真が表示されていた。
受付に向かいながら、遥は一度だけ振り返った。
病院の自動ドアの外。
まだ四月の空の下、植え込みのチューリップが、赤と黄色で揺れている。
風が吹くたびに、花が頭を振るように動く。
まるで何かに返事をしているようだった。
遥は、それを三秒だけ見た。
それから、前を向いた。
夕刻、業務終了間際。
一ノ瀬あゆみは、処置室の棚の整理をしながら、椎名遥のカルテに目を通していた。
三十四歳。
五歳の娘がいる。
夫は会社員。
若年性乳癌と診断されたのは二年前。
術後の経過が悪く、肺と骨への転移が確認されてから、治癒を目指す治療は終わっている。
カルテの入力欄に、主治医の真壁が一文を記していた。
患者は「娘が自分の顔を忘れることへの恐怖」を繰り返し訴えている。
スピリチュアルケアの必要性、高。
一ノ瀬は、しばらくその一文を見つめた。
五歳。
自分が五歳のとき、何を覚えているだろう。
母親の顔。
台所で何かを炒めているときの後ろ姿。
抱きしめられたときの体の温かさ。
でも、声は?
表情のひとつひとつは?
――思い出せない部分が、思ったより多いことに、一ノ瀬は気づいた。
そして、椎名遥という三十四歳の女性が、今夜初めて聖マリアナの天井を見上げながら、同じことを考えているのだろうと思った。
娘は、私の顔を覚えていられるだろうか。
処置室のドアの外、廊下の窓から見える空は、夕暮れに染まりはじめていた。
オレンジと紫が混ざり合い、中庭の若葉が、その光を受けて薄金色に輝いている。
美しかった。
美しいのに、一ノ瀬はなぜか、その光景に向かって頭を下げたくなった。
謝りたいような、祈りたいような、言葉にならない感情が胸の奥から来た。
それが何なのか、わからないまま、彼女はカルテを閉じた。
翌朝。椎名遥の部屋を、初めて訪ねることになる。
そのときに自分が何を言えるか、一ノ瀬あゆみはまだ、何も決めていなかった。




