第一話 「境界線の門」
四月の午後、聖マリアナ丘の上病院・緩和ケア病棟への入り口は、世間のどんな扉とも違う顔をしていた。
自動ドアが開く。
送迎車のエンジン音が、ぷつりと切れる。
外の世界——スマートフォンの着信音、工事現場の鉄骨が軋む音、誰かが急いで走る革靴の足音——それらがいっせいに遠ざかり、代わりに届いてきたのは、低く、一定のリズムを刻む機械の息づかいだった。
酸素濃縮器。
廊下の奥のどこかの病室で、患者の肺を補助している装置が、まるで建物そのものが呼吸しているかのように、ふうっ、ふうっ、と繰り返している。
浅野徳三郎は、自分がいまどこに足を踏み入れたのかを、瞬時に理解した。
理解した、という言葉では足りないかもしれない。
感じた、でも違う。
体の内側で何かが——長年のビジネスの場で鍛え上げてきた、危機察知のための第六感が——静かに告げたのだ。
ここは、終わりの場所だ。
七十八年の生涯で幾度となく修羅場を潜り抜けてきた男が、エントランスホールの白い床の上で、一瞬だけ立ち止まった。
足が、止まった。
自分でも気づかないうちに。
傍らに立つ長男の浅野賢司(五十一歳)が、父親の変化に気づかないふりをしながら、受付のカウンターに目をやった。
賢司はこういう場面が得意だった。
感情を顔に出さないことを、幼い頃から父親に教え込まれてきたのだから。
「浅野徳三郎の家族です。本日入院の予約を——」
「はい、お待ちしておりました」
受付の女性の声は、柔らかく、しかし媚びを売らない、プロフェッショナルな静けさを持っていた。
ホスピスの廊下は、病院の廊下ではなかった。
少なくとも、浅野徳三郎がこれまでの人生で足を踏み入れてきた、都内の大学病院の廊下とは根本的に違った。
白い壁に蛍光灯の光が跳ね返り、消毒用エタノールの刺激臭が鼻腔を直撃する、あの廊下ではない。
ここには、匂いがあった。
アロマディフューザーから漏れ出るラベンダーの香りが、廊下の空気の底に薄く敷かれていた。
その上に、清潔に洗い上げられたリネンの、日向のような匂い。
ワゴンで運ばれてくる昼食の残り香——今日は何だったのか、出汁の温かみがほんのわずかに漂っていた。
そしてもう一つ、名前をつけることのできない匂いが、ごく微量だが確かに混じっていた。
甘いような、枯れ葉のような、人間の体が何かを手放していく過程で生まれる、あの独特の——
浅野は意識して、口で息をした。
「浅野さん」
声をかけられて振り返ると、白衣の男が廊下の奥から歩いてきた。
五十代。
背が高く、白衣の下にサックスブルーのスクラブを着ている。
白髪が混じりはじめた髪を短く刈り込み、眼鏡のフレームは細い。
歩き方に無駄がない。
外科医の歩き方だ、と浅野は職業的な直感で思った。
実際、かつては外科医だったのだが、そのことを浅野がまだ知る由はなかった。
「真壁俊介です。この病棟の緩和ケア認定医を務めています。本日はようこそいらっしゃいました」
「ようこそ」という言葉が、場違いではなく自然に聞こえた。
それが浅野には少し不思議だった。
「ご入院に際して、一度お話しさせていただきたいことがあります。病室にご案内する前に、よろしいですか」
質問の形をしているが、断られることを想定していない口調だった。
浅野は黙ってうなずいた。
人に指図されることを生涯嫌ってきた男が、である。
面談室は小さかった。
テーブルと椅子が四つ。
窓の外には、手入れの行き届いた中庭が見えた。
芝生の上に、木製のベンチが二つ。
まだ春の浅い、四月の光が、芝の上でぼんやりと白んでいる。
浅野は椅子に腰を下ろしながら、自分の指先を見た。
かつて、一代で建材商社「浅野コーポレーション」を年商三百億円規模に育て上げた手だ。
今は点滴の針跡が残り、皮膚が紙のように薄くなっていた。
真壁は、ファイルを開かずにテーブルの上に置いた。
「まず確認させてください。主治医の先生から、今の病状についてはすでにお聞きになっていますね」
「聞いた」
肝臓がん。
末期。
腫瘍マーカーAFPはすでに測定限界を超え、CTでは複数の転移巣が確認されている。
標準的な余命は三ヶ月から六ヶ月、という言葉を、浅野は二週間前に聞いた。
聞いて、その夜だけ、誰もいない自宅の書斎でウイスキーを一本空けた。
翌朝から、何事もなかったように動いた。
それが浅野徳三郎という男の生き方だった。
「今後の治療方針について、改めてお話しします」真壁は静かに続けた。
「この病棟では、がんを治すための治療——積極的な抗がん剤投与や、外科的な処置——は行いません。目指すのは、QOLの維持です」
「クオリティ・オブ・ライフ、ね」
「はい。生活の質。もっと平たく言えば、いまあなたが生きているこの時間を、できる限りあなた自身の望む形で過ごしていただくこと。それが私たちの仕事です」
浅野は鼻の奥で笑った。
「きれいごとを言う」
「そうかもしれません」真壁は眉一つ動かさなかった。
「ただ、きれいごとを実現するのが、一番難しい仕事でもありますから」
浅野は、初めてこの医者を正面から見た。
目が、静かだった。
憐れみでも、距離でもない。
正確に言えば、その目は「観ている」のだった。
患者を見るというより、患者の中にある何かを——浅野自身もまだ気づいていない何かを——観ている目だった。
外科医だった頃に培われた、人体の内側を透かし見る習慣が、こういう形で残るのかもしれない。
「一つ聞いていいか」浅野は言った。
「どうぞ」
「あんたはここで、何人の人間を看取ってきた」
一拍の間があった。
「数えていません」
「なぜ」
「数えると、一人一人の顔が薄くなる気がして」
浅野は黙った。
長い沈黙の間、酸素濃縮器の音だけが、廊下の向こうから続いていた。
ふうっ、ふうっ、ふうっ。
一定のリズム。揺れない。
「もう一つ聞く」
「はい」
「ここに入ったら、最後まで出られないのか」
真壁は首を振った。
「そんなことはありません。外出もできますし、外泊の許可が下りるケースもあります。ただ——」
少し間を置いた。
「ここを退院して、ご自宅やほかの施設に移られた方は、私の経験ではほとんどいません」
「それが正直というものだな」
「インフォームド・コンセント、という言葉があります。正確な情報に基づいて、患者さん自身が意思決定をする、という考え方です。私は、それをできるだけ文字通りに実践したいと思っています」
病室は、三〇三号室だった。
窓が南向きで、中庭と、その向こうに広がる住宅地の屋根が見渡せた。
ベッドの脇に小さな棚。
その上に、加湿器と、スタンドライト。
壁には何も掛かっていない。
白い壁。
患者が自分の好きなものを飾れるように、という配慮だった。
ベッドに腰かけた浅野が、窓の外を見ていると、ノックの音がした。
「失礼します。担当看護師の一ノ瀬です」
入ってきたのは、小柄な女性だった。
二十代後半。
栗色の髪を後ろでまとめ、薄いパープルのスクラブを着ている。
手には血圧計と、バインダー。
しかし目に入ってきたのは道具ではなく、その表情だった。
患者と目が合った瞬間、一ノ瀬あゆみの顔に、ごく自然な微笑みが浮かんだ。
作られた微笑みではない。
患者が部屋にいる、という事実を、自分が歓迎している、という感情がそのまま顔に出てしまっているような——感情の漏れ、とでも言うべき表情だった。
浅野は、その笑顔をどう受け取ればいいか、一瞬わからなかった。
「血圧を測らせていただいてもよろしいですか。入院時の基礎データを取らせていただきます。痛みの具合はいまどうですか? スケールで教えていただけますか。ゼロが痛みなし、十が想像できる最大の痛みとして」
てきぱきとした口調。
しかし押しつけがましくない。
浅野は袖をまくりながら言った。
「四か五、といったところだ。右の脇腹が、重い感じがする」
「わかりました。主治医の真壁先生に確認して、鎮痛薬の調整をしましょう。今日中に、できます」
血圧計のカフが腕に巻かれる。ピ、という電子音。
数値が表示される。
一ノ瀬はバインダーに数字を記入しながら、さりげなく病室を見渡した。
窓の外。
棚の上に何も飾られていないこと。
家族が持ってきた荷物の少なさ。
すべてを見て、すべてを記録している。
患者の言葉だけでなく、その人の空間の使い方を読む——それが一ノ瀬あゆみのやり方だった。
「何かご不明な点や、不安なことがあれば、いつでもナースコールを押してください」
「あんた、いくつだ」
一ノ瀬は少し目を丸くした。
「二十八です」
「孫と同じくらいだな」
言った後、浅野は自分でも意外そうに口を閉じた。
孫のことを、こんな場面で口にするとは思っていなかった。
「そうなんですね」一ノ瀬は、驚いた様子もなく言った。
「お孫さん、今おいくつですか」
「……二十五と、二十二だ」
「いいですね」
短い言葉だったが、社交辞令ではなかった。
一ノ瀬は本当にそう思っているのだと、浅野には伝わった。
理由はわからない。
ただ伝わった。
その夜、真壁俊介は病棟のナースステーションで、カルテの入力を終えた後、しばらく椅子に座ったまま動かなかった。
浅野徳三郎の電子カルテ。
入院時の記録。
バイタル。
痛みのスコア。
服薬の開始指示。
それらの数字と文字の向こうに、面談室での男の顔が浮かぶ。
窓の外を見ていた目。
強張った口元。
そして——一瞬だけ、足が止まったエントランスでの、あの背中。
強い人間だ、と真壁は思った。
しかし強いということと、孤独でないということは、まったく別の話だ。
二十年以上この仕事を続けてきて、真壁が学んだことの一つは、人間は死ぬ直前になって初めて、自分が本当は何を怖れていたかを知る、ということだった。
お金ではない。
権力でもない。
名誉でもない。
ほとんどの場合、人が最後に怖れるのは、もっとシンプルなことだ。
誰かに、忘れられること。
自分がいたという事実が、消えてしまうこと。
真壁はカルテを閉じた。モニターの光だけが残る暗いナースステーションで、廊下の酸素濃縮器の音を聞きながら、立ち上がった。
病棟の見回りをしながら、三〇三号室の前を通った時、ドアの隙間から細い光が漏れていた。
深夜十一時。
浅野徳三郎は、まだ眠っていなかった。
真壁は、ドアをノックするべきかどうか、三秒だけ考えた。
そして、しなかった。
今夜ではない。
男にはまだ、一人で夜を過ごす時間が必要だ。
自分が置いてきた世界と、これから過ごす場所の間で、静かに折り合いをつける時間が。
ただ廊下を歩きながら、真壁は浅野が三週間後に告げてくることになる「ある言葉」を、まだ知らなかった。
病棟に二十年勤める自分でさえ、即答できずに立ち尽くすことになる、あの言葉を。
四月の夜、丘の上のホスピスは、また一つ新しい命を迎え入れ、静かに呼吸を続けていた。




