第十話 「距離について」
九月に入ると、蝉の声が止んだ。
止む、というより、いなくなった。
ある朝ふと気づくと、あれほど濃密に病棟を包んでいた声が、跡形もなく消えていた。
代わりに届いてくるのは、風の音だった。
雑木林を通り抜ける風が、葉を揺らす音。
夏の葉の揺れ方とは違う。
乾いて、薄くなり始めた葉が、かさかさと擦れ合う、その音。
廊下の温度が、少しだけ下がった。
朝の空気の質が変わった。
窓を開けると、夏の熱気ではなく、湿度の抜けた清潔な冷たさが入ってくる。
その空気を肺に入れると、夏の間ずっと緊張していた何かが、ほんの少し緩む感じがした。
季節が変わる、ということは、体にとっても、呼吸のし直しだった。
一ノ瀬あゆみは、その九月の空気を、毎朝廊下の窓から入れながら、浅野徳三郎のいない三〇三号室の前を通った。
浅野が逝って、三週間が経った。
三〇三号室には新しい患者が入っていた。
七十代の女性、膵臓がん。
穏やかな人で、家族が毎日面会に来る。
一ノ瀬が担当についていた。
バイタルを測り、薬の確認をし、声をかける。
仕事はいつもと変わらない。
変わらないはずだった。
しかし、何かが違っていた。
一ノ瀬は自分でもうまく説明できなかった。
手が動かないわけではない。
声が出ないわけでもない。
でも、患者の部屋に入るたびに、扉を開ける前の一瞬に、何かが重くなる感じがした。
構えてしまう、とでもいうような、わずかな、しかし確かな、引っかかり。
ナースステーションで記録を入力しながら、手が一瞬止まることがあった。
申し送りの言葉が出てくるのが、前より少し遅くなっていた。
気づいていたが、なぜかを説明する言葉を、持てずにいた。
真壁俊介がその変化に気づいたのは、九月の第二週の朝だった。
カンファレンスが終わった後、他のスタッフが出ていき、一ノ瀬だけが画面に向かって記録を打っている場面があった。
真壁は自分のカルテを持ちながら、一ノ瀬の手元を見た。
打つ速度が、いつもより遅かった。
ミスではなく、慎重すぎる打ち方だった。
言葉を探しながら打っている、というよりも、打つことに余分な力がかかっている、そういう手つきだった。
真壁は椅子を引いて、一ノ瀬の向かいに座った。
「少し時間、いいですか」
一ノ瀬は顔を上げた。
「はい」
「浅野さんが亡くなってから、調子はどうですか」
一ノ瀬は少し間を置いた。
「普通です」
「そうですか」
「仕事には支障が出ていません」
「そうは聞いていません」
真壁は穏やかに言った。
「調子を聞いています」
一ノ瀬はまた黙った。
窓の外で、風が廊下に入ってきた。
九月の朝の、乾いた風。
「……よくわからないんです、自分でも」
一ノ瀬はゆっくり言った。
「何かが変わった気がするんですが、何が変わったのかが」
「重くなった感じがありますか」
「重い、というのとは違う気がします。むしろ、扉を開けるのが——患者さんの部屋に入るのが——少し、怖くなっている気がします」
真壁はうなずいた。
「その感覚を、おかしいと思いますか」
「おかしくはないと思います。でも、こんなことになるとは思っていなかった」
「浅野さんのことを、もらいすぎたんです」
一ノ瀬は、その言葉を聞いて少し顔を上げた。
「もらいすぎた?」
「患者さんの痛みや感情を、自分の中に入れすぎた。
あなたはもともとその傾向がある。
それがこの仕事の強みでもあるけど、限界まで入れると——こういう感じになる」
一ノ瀬は黙った。
「おかしくない。初めてじゃないかもしれないけど、今回は浅野さんとの時間が長かった分、深く入った」
「距離を、置けばよかったんでしょうか」
真壁は少し間を置いた。
「距離を置く、というのが何を意味するかによります」
「感情を入れすぎない、ということですよね」
「それが正しいかどうか、俺にはわからない」
一ノ瀬は真壁を見た。
「入れなければ傷つかない。でも入れなければ、届かないものがある。どちらが正しいかという問いは、正しい問いじゃないかもしれない」
「じゃあ、どうすれば」
「答えは持っていません」真壁はまっすぐ言った。
「二十年やって、まだ持っていない。ただ——」
少し間があった。
「入れて、傷ついて、それでも次の扉を開けることが続いたとき——それが何かになる気がしています。何かという言葉しか使えないけど」
一ノ瀬は、その言葉を聞いたまま、しばらく黙っていた。
「続けられますか」と真壁は聞いた。
「続けます」一ノ瀬は答えた。
迷わなかった。
「怖いけど、続けます」
「それでいいと思います」
真壁は立ち上がって、カルテを持って歩いた。
廊下の向こうへ、回診へ。
止まらなかった。
椎名遥の状態は、九月に入ってから、静かに変化し始めていた。
骨転移の疼痛が増していた。
薬の量が少しずつ増えていた。
それに伴って、日中の眠気が深くなっていた。
以前は自分で洗面所まで歩いていたが、今週から車椅子を使うようになった。
食事量も落ちていた。
しかし遥は、変化を声に出して嘆かなかった。
一ノ瀬が車椅子の準備をしながら「今日はどうですか」と聞くと、「まあまあです」と答えた。
「まあまあ」という言葉を、遥はよく使うようになっていた。
いいとも悪いとも言わない、中間の言葉。
正確な言葉だった。
「ひなたちゃんに電話しましたか」と一ノ瀬は聞いた。
「昨日、した。幼稚園で友達と喧嘩したって言ってて——」遥は少し笑った。
「詳しく聞いたら、お砂場の道具の取り合いで、でも最後は仲直りしたって。ちゃんと解決してた」
「立派ですね、ひなたちゃん」
「そうなの。私が教えたわけでもないのに」遥は窓の外を見た。
「子どもって、勝手に育つんだな、って思った」
その言葉の中に、安堵と悲しさが同時に入っていた。
一ノ瀬はそれを聞いて、何も言わなかった。
言う必要がないと思ったからだ。
廊下の突き当たりの部屋の鍵は、九月も毎日使われていた。
高橋徹は、今月から酸素の補助が必要になっていた。
鼻カニューレを鼻の下に当て、細いチューブが顔の両脇を伝って耳にかかる。
その状態で、毎日廊下を歩いて、作業療法室に入った。
鍵を閉める音が、今日も聞こえた。
九月の終わり、一ノ瀬は三〇三号室に新しい患者の荷物を整理しながら、棚の上を見た。
何もなかった。
浅野徳三郎が入院したときも、その棚には何も飾られていなかった。
最後まで何も飾らなかった。
賢司が置いていった写真は、その日のうちに持ち帰った。
空白の棚。
一ノ瀬はその棚を、一秒だけ見た。
それから、新しい患者の荷物の整理を続けた。
窓の外では、雑木林の葉が、少しずつ色を変え始めていた。
緑の中に、点々と黄が混じり始めていた。
まだ紅葉というほどではない。
でも、変わっている。
確実に、変わっていた。




