第十一話 「雨の日のクロッキー」
十月の雨は、九月の雨とは違う。
九月の雨は名残の夏の延長で、温かく、重たく、降ったかと思えばすぐに晴れる。
しかし十月の雨は静かで、細く、長く続く。
気温を確実に下げながら、世界をゆっくりと秋の中へ押し込んでいく雨だ。
その雨が二日続くと、雑木林の葉が一気に色を変える。
緑の中に滲み出ていた黄が、橙になり、橙が赤に変わる。
雨が洗うたびに、葉の色が深くなっていく。
聖マリアナ丘の上病院の廊下は、十月になると窓を閉める時間が増えた。
風が冷たくなった。
廊下の奥まで届いていた虫の声が、止まっていた。
代わりに、雨音が窓ガラスを叩く音が、病棟の日常音に加わった。
低く、一定で、どこか眠気を誘う音。
それでいて、どこかに静かな切迫感のある音。
高橋徹がその日、作業療法室に入ったのは午後一時ごろだった。
曇りの日だった。
雨は降っていないが、空が重かった。
北向きの窓から入る光は、いつもより柔らかく、拡散していた。
直射でない光が空間を均一に満たす、
こういう天気が、画家には好まれる。
高橋はそのことを、右腕のある頃から知っていた。
鍵を閉めて、椅子に座った。
スケッチブックを開いた。
今のスケッチブックは、入院してから三冊目になっていた。
最初の一冊は震えた線だけが並んでいた。
二冊目から、線が少しずつ形になっていった。
木の枝。
窓枠の影。
自分の左手。
抽象的な線の集まりが、見ていると何かに見えてくるもの。
三冊目に入ってから、高橋は自分でも気づかないうちに、何かを「描こうとする」のではなく、「描いている」という感覚になっていた。
手が先に動く。
考える前に線がある。
それがまだ右手のときの感覚とは全く違うが——違うものとして、あった。
この日、高橋は新しいページを開いて、何を描くかを決めずに鉛筆を持った。
そのときに思い出したのは、一昨日の廊下だった。
一昨日。
薬の配薬の時間に、高橋が作業療法室から自分の病室へ戻る途中、廊下の奥に人がいた。
一ノ瀬あゆみだった。
廊下の窓の前に立って、外を見ていた。
後ろ姿だった。
白衣ではなくスクラブ姿。
薄いパープルの生地。
栗色の髪が後ろでまとめられている。
その肩が、廊下の光の中に、ただ静かに立っていた。
一ノ瀬は気づいていなかった。
外を見ていた。
何かを考えているのか、何も考えていないのか、後ろからはわからなかった。
高橋は三秒だけ、その後ろ姿を見た。
三秒で通り過ぎた。
しかしその三秒が、頭の中に残っていた。
高橋は、その後ろ姿を描き始めた。
クロッキーだ。
速写。
対象を前に置かずに、記憶の中の形を手で追う。
右手でやっていたころは、五分かけずに仕上げた。
左手では、どれだけかかるかわからない。
でも、描き始めた。
最初に肩の線を引いた。
右肩の高さと左肩の高さ。
少し違う。
右が高い。
スクラブを着た肩の厚み。
細くはない、でも薄い。
骨格がある肩だ。
次に背中の線。
脊椎の曲がり。
腰のくびれ。
窓を前にして少し重心が前になっている立ち姿。
髪のまとまりを、一つの塊として捉えた。
細かい毛流れは描かない。
ただ、後頭部の形と、うなじの始まりを。
十五分かけて、一枚の紙が埋まった。
高橋はその紙を見た。
うまくはなかった。
右手で描いた頃の線に比べれば、震えがあって、迷いがある。
それでも——立っていた。
紙の上に、誰かがいた。
廊下の窓の前に、誰かが立っている、その空気が、かすかにでも紙の上にあった。
高橋は、その紙を見ながら、ことの意味を考えた。
窓の外の雑木林を描いた。
自分の左手を描いた。
それは「物」だった。
でも今日は、「人」を描いた。
記憶の中の人。
なぜかを説明できる言葉が、なかった。
ただ、描きたかった。
それだけが確かだった。
高橋はその一枚を、スケッチブックから切り離さなかった。
折らなかった。
見せるつもりもなかった。
ただ、そこにあった。
その日の午後遅く、椎名遥が一ノ瀬に言った。
「もう一度、録りたいんですが」
一ノ瀬は遥のベッドサイドのスツールに座っていた。
ルーティンのケアが終わった後の、少しだけ時間がある時間だった。
「ビデオレター、ですか」
「うん。追加で」
「どんな内容を」
「外で録りたい。中庭で」遥は窓の外を見た。
「六月に録ったのは、部屋の中だったから。ひなたに見てほしいのは、外の顔も」
一ノ瀬は遥の今の状態を確認した。
車椅子を使っていること。
外出に酸素補助は必要ないが、長時間は難しいこと。
でも今日は、遥の顔に力があった。
「今日、いきますか」
「明日がいい。曇りより晴れた日に撮りたい」
「天気予報を確認します」
「よろしくお願いします」
翌日は、午前中だけ晴れた。
十月の晴れ間は、夏の晴れとは光の質が違う。
空気が透明で、光が澄んでいて、影が薄い青みを帯びる。
中庭の木々が色づき始めていた。
コナラの葉が黄色になり、ケヤキが橙色になり、その中にまだ緑を残したクヌギが混じっている。
色が混ざりながら輝く、秋の木漏れ日。
一ノ瀬が車椅子を押して、遥を中庭のベンチ脇に連れていった。
ビデオカメラは三脚なしで、一ノ瀬が手持ちで構えた。
「どこを向いて撮りますか」
「木を背景に」遥は言った。
「あの橙色のやつ」
「ケヤキですね」
「きれいだな」
「きれいです」
一ノ瀬はカメラを向けた。
遥が車椅子の上で少し姿勢を正した。
帽子が今日は秋色の、茶色っぽいニット素材のものだった。
「録ります」
「うん」
録画、開始。
「ひなた」と遥は言った。
声が外の空気の中に出ていった。
廊下の中で録ったときと違って、少し広がる声だった。
「今日はね、病院の中庭に来てます。十月の晴れた日。木がきれいに色づいていて——見せてあげたいな。見えないけど」
遥は少し笑った。
「ひなたがこれを見るときは、何歳かな。いくつになっても、秋になったら外に出てみてね。落ち葉を踏んでみてね。踏むとね、いい音がするから。サクサクってやつ。ちょっと乾いた、いい匂いもする。ママはその匂いが好きで——」
声が一度、揺れた。
遥は少し上を向いた。
目に涙が来るのを、空を見ることで止めようとしていた。
子どもの頃からそうしていたのか、それとも最近覚えたのか、一ノ瀬にはわからなかった。
「大丈夫」遥は小さく言った。自分への言葉だった。
それからまた、カメラを見た。
「秋が来るたびに、ちょっとだけ、ママのことを思い出してくれたらうれしいな。落ち葉踏みながら。それだけでいい。それで十分だよ」
遥は一度、大きく息を吸った。
「あと、ひなた、好きな人ができたときは、ちゃんと好きって言えるといいね。言えない人だと、ちょっと大変だから——」
笑いが来た。
「ママはね、パパに好きだって言うのに二年かかった。ひなたはもっと早く言えるといいな」
遥はカメラを見て、最後に「ありがとう」と言った。
録画、停止。
車椅子を押して病棟に戻りながら、一ノ瀬は遥の背中を見ていた。
背中が、六月よりも細くなっていた。
カーディガンの上からでも、それがわかった。
でも、今日の遥の背筋は、まっすぐだった。
「一ノ瀬さん」遥が言った。
「はい」
「撮ってくれてありがとう。また追加したくなったら、頼んでいいですか」
「いつでも」
「でも、次は自分で「録ってほしい」って言えないかもしれないから」
一ノ瀬は少し間を置いた。
「もし状態が変わったとき、録りたいかどうか、確認していいですか」
「それでお願いします」
「わかりました」
廊下に入った。
色づいた木々が、廊下の窓から見えた。
中庭の景色が、また少し変わっていた。
その日の夜、高橋は部屋で、スケッチブックを開いた。
昨日描いた、廊下の後ろ姿のクロッキーを見た。
見ているうちに、何かが少しほぐれる感じがあった。
名前をつけられない感覚だったが、悪いものではなかった。
右腕を失ってから、絵を描くことをやめていた間は、ずっと何かが固まっていた気がした。
それが少しずつ、ここ数ヶ月で動き始めている。
絵がよくなっているとか、うまくなっているとかではない。
ただ、何かが動いている。
描いていると、外側が見える気がする。
自分の外側。
部屋の外。
廊下。
中庭。
誰かの後ろ姿。
病棟に来てから、高橋は長い間、内側だけを見ていた。
痛みの内側。
ない腕の内側。
諦めの内側。
左手で線を引くと、外側に何かが生まれる。
粗くても、震えていても、確かに外側に何かが生まれる。
高橋はスケッチブックを閉じた。
外は十月の夜で、風が廊下の端をかすかに鳴らしていた。




