第十二話 「マザー・イン・ブルー 後章」
十一月になると、葉が落ちた。
一夜にしてではない。
静かに、少しずつ、しかし確実に。
雑木林のコナラが最初に落とし始め、ケヤキが続き、クヌギが最後まで葉を持ち堪えた。
風が吹くたびに、廊下の窓の外を枯れ葉が横切った。
舞うというより、ただ落ちていく。
重力に従って、静かに、一枚ずつ。
落ちた葉が中庭に積もり、雨に濡れ、踏まれて、土の色に変わっていった。
木の骨格だけが残ると、空が広くなった。
葉に遮られていた空が、急に近くなる。
病棟の北側の廊下から見ると、雑木林の向こうまで見通せるようになっていた。
そこには、ただ空があった。
十一月の空は、澄んでいて、高くて、少し遠い。
椎名遥の状態が変わったのは、十月の終わりから十一月の初めにかけてだった。
疼痛コントロールのための薬が増えた。
意識が、少し遠くなる時間が出てきた。
話すことができるが、長くは続かない。
食事はほとんど摂れなくなっていた。
点滴が中心になっていた。
一ノ瀬は毎朝、遥の部屋に入った。
バイタルを測り、口腔ケアをして、体位を変える。
会話ができる日もあった。
声が出ない日もあった。
遥はその両方を、静かに受け取っていた。
嘆かなかった。
弱音を言わなかった。
ただ、一ノ瀬が入ってくるたびに、目が少し動いた。
「来た」と認識している目だった。
修二から連絡が来るようになっていた。
「今日はどうですか」という短いメッセージが、午前中と夕方に届いた。
一ノ瀬が状態を伝え、修二が「わかりました」と返す。
それが繰り返されていた。
ひなたは、毎週面会に来ていた。
五歳のひなたは、母親の部屋に入るたびに、最初だけ少し固まった。
それでも毎回、二歩、三歩と入ってきた。
遥の手を握った。「ママ、来たよ」と言った。
遥がかすかに微笑んだ。
ひなたはその微笑みを見て、何かを確認したような顔をして、それからようやく、ベッドの脇に座った。
子どもは、言語化できないまま、何かを知っていく。
ひなたは今、何を知ろうとしているのか、一ノ瀬にはわからなかった。
十一月の第二週の夜、一ノ瀬が夜勤に入っていた。
二十二時の見回りで、三〇五号室の前を通ったとき、ドアが少し開いていた。
遥が呼んだのかと思って入ると、ドアが風で動いていただけで、部屋は静かだった。
遥は目を開けていた。
暗い部屋の中で、天井を向いていた。
眠っていない。
眠れない夜だ、と一ノ瀬には見てわかった。
「起きていましたか」
「うん」
「どこか痛みますか」
「今夜は大丈夫。ただ、眠れなくて」
一ノ瀬はベッドサイドのスツールに腰を下ろした。
夜勤中だったが、急を要する患者は今夜ほかにいなかった。
遥はしばらく、天井を見ていた。
「ひなたが今日、「ままのことすき」って言ってくれた」
「そうですか」
「毎週来てくれるから、わかってたんだけど——言葉で言ってくれると、また違う」
「うん」
「修二も——あの人、不器用だから、あんまり口に出さないんだけど、今日ね、帰り際に「また来るから」って言って、手を握っていってくれた」
遥は目を細めた。
「それだけで、なんか、十分な気がした」
一ノ瀬は答えなかった。
答えるより先に、遥の言葉を受け取ることを選んだ。
しばらく沈黙があった。
遥が、そっと手を伸ばした。
一ノ瀬の手の上に、遥の手が来た。
点滴のルートが繋がっている左手ではなく、右手。
細く、骨が浮いている手。
でも温かかった。
一ノ瀬は、動かなかった。
手を引かなかった。
「一ノ瀬さん」遥は天井を見たまま言った。
「はい」
「ひなたのこと、たまに——」
言葉が、そこで途切れた。
続きが来なかった。
遥の喉が動いた。
何かを言おうとして、言葉が来なかった。
一ノ瀬はしばらく待った。
続きは来なかった。
「わかりました」一ノ瀬は言った。
それだけ言った。
「たまに」の後に何が来るかを聞かなかった。
「たまに」という言葉に込められているものを、全部受け取った上で、「わかりました」と言った。
遥は、それを聞いて、小さくうなずいた。
それから少しして、眠った。
一ノ瀬は遥の手が緩むまで、そのままスツールに座っていた。
手を引き抜かずに、遥の手が自然に離れるのを、待った。
廊下の酸素濃縮器の音が続いていた。
どこかが呼吸している音。
この病棟の、夜の音。
翌日の午前中に、真壁が一ノ瀬に言った。
「遥さんの状態を、修二さんに伝えます。今日中に来てもらえるよう話します。ひなたちゃんも一緒に」
「わかりました」
「時間がかかるかもしれません。でも、近い」
一ノ瀬はうなずいた。
真壁の「近い」という言葉は、この仕事をしている人間の言葉だった。
日付を指すのではない。
感じるものを、一言で伝える言葉。
真壁がそう言うとき、それは正確だった。
修二が来たのは、その日の午後だった。
ひなたが横にいた。
今日のひなたは紺色のワンピースではなく、黄色いセーターを着ていた。
髪を修二がまとめたらしく、不揃いなポニーテールになっていた。
それでも遥が結んだときと同じ、二本のゴムの色。
一ノ瀬が三〇五号室の前まで案内した。
「今、眠っていますが、声をかけると目を開けることがあります。ゆっくりで大丈夫です」
「はい」修二は言った。
声が落ち着いていた。
でも手が、ひなたの手を強く握っていた。
ドアを開けた。
部屋の中は、静かだった。
遥が眠っていた。
呼吸が、ゆっくりで、浅かった。
点滴のポンプが小さな音を立てていた。
ひなたが、入り口で止まった。
修二がひなたの手を引いた。
ひなたは一歩、入った。
「ままー」
ひなたの声が、静かな部屋に入っていった。
遥の目が、かすかに動いた。
完全には開かなかった。
でも、まぶたがわずかに持ち上がり、光を感じているような、そういう動きがあった。
「ままー」
ひなたがもう一度呼んだ。
遥の口元が、かすかに動いた。
声は出なかった。
でも、口の形が変わった。
「ひなた」と読める形に、なったように——少なくとも、修二にはそう見えた。
一ノ瀬にも、そう見えた。
修二がひなたを抱き上げた。
ベッドの脇で、遥の顔の近くに、ひなたを持ち上げた。
ひなたは遥の顔を、すぐ近くから見た。
ひなたは何も言わなかった。
ただ、見ていた。
修二の目から、何かが流れた。
声を出さなかった。
顔を崩さなかった。
でも、目だけが泣いていた。
椎名遥が逝ったのは、翌朝の夜明け前だった。
午前五時二十三分。
夜勤のスタッフが確認した。
修二は病室の外の廊下に座って眠っていた。
ひなたは修二の膝の上で眠っていた。
知らせを受けて修二が目を覚ましたとき、ひなたはまだ眠ったままだった。
修二は部屋に入って、遥の顔を見た。
しばらく、黙っていた。
真壁が来て、死亡確認をした。
「午前五時二十三分。ご逝去を確認します」
静かな声だった。
揺れなかった。
修二は遥の手を、両手で持った。
今度は、遥が手を握り返すことはなかった。
一ノ瀬が三〇五号室に入ったのは、夜明けが来てからだった。
窓の外が白んでいた。
十一月の夜明けは遅い。
七時を過ぎても、まだ空が明るみきらない。
病棟の外が、まだ薄暗いうちに、一ノ瀬は遥の体を拭き、着替えをさせ、部屋を整えた。
遥の手が、冷たかった。
昨夜握った手は、温かかった。
その温かさを、一ノ瀬はまだ覚えていた。
今、その手が冷たかった。
一ノ瀬は作業を続けた。
手を動かし続けた。
遥の棚の上に、ひなたが面会のたびに持ってきた絵が貼ってあった。
クレヨンで描いた、女の人と女の子の絵。
女の人の頭に、紺色の丸が乗っていた。
帽子だ。
ひなたが、遥の帽子を描いた絵だった。
一ノ瀬はその絵を、棚の上に残した。
片付けは家族に任せる。
廊下に出ると、修二がひなたを連れて立っていた。
ひなたは目を覚ましていた。
事情はわかっていないかもしれない。
でも、空気が変わったことは感じているようだった。
修二の服のすそを、両手で持っていた。
ひなたが修二を見上げて言った。
「ままはどこへいったの」
修二は少し間を置いた。
長い間ではなかった。
でも、その間の中に、修二の二十四時間が全部入っていた。
「おそらの」修二は言った。
「すごくとおいところ」
ひなたは修二を見たまま、少し考えた。
「とおいの?」
「とおい」
「かえってこないの?」
「かえってこない」
ひなたは少しの間、黙っていた。
「でもね、ひなたちゃん」修二は言った。
声が、かすかに揺れていた。
「ままの声は残ってるから。聞けるよ。またいつか、一緒に聞こうね」
ひなたは修二を見上げたまま「うん」と言った。
それだけだった。
五歳の子どもには、それ以上の言葉はまだなかった。
でも「うん」という言葉に、何かが入っていた。
わかった、という意味ではないかもしれない。
でも、受け取った、という意味の「うん」だった。
一ノ瀬はその場面を、廊下の端から見ていた。
見届けて、ナースステーションに向かった。
記録を開いた。
手を置いた。
打ち始めた。
手が、止まらなかった。
昨夜、遥に「わかりました」と言った言葉の意味を、今この瞬間に改めて受け取っていた。
「ひなたのこと、たまに」——その続きを聞かなかった。
でも、わかっていた。
忘れない。
遠くからでも、時々、思い出す。
ひなたが知らなくても、誰も知らなくても、自分の中で覚えていること。
それが、遥から渡されたものだった。
その日の夕方、真壁が一ノ瀬の横に来て、珍しく何も言わずに窓の外を見た。
二人で少しの間、外を見た。
廊下から見える中庭。
枯れ葉が積もっている。
木の骨格だけが立っている。
空が、灰色で、高かった。
「十一月の空は」と真壁が言った。
「はい」
「高いですね」
「そうですね」
それだけだった。
それだけで、何かが伝わった。
真壁は廊下を歩いた。
一ノ瀬もまた、歩いた。
それぞれの、次の仕事へ。




