第十三話 「冬の部屋」
十二月に入ると、世界が静かになった。
葉の落ちた雑木林は、骨格だけをさらしていた。
コナラもケヤキも、幹と枝の形だけが残り、その向こうに空が透けて見えた。
十二月の空は青いが、温かみのない青だった。
光が斜めから来て、影が長く地面に伸びる。
朝九時でもまだ光が傾いている、そういう季節になっていた。
廊下の窓ガラスの内側に、朝だけ結露が出るようになった。
一ノ瀬あゆみは朝の巡回のたびに、結露した窓の向こうに白い息を吐きながら、その日の景色を確認した。
霜が降りた朝は、中庭の芝が白く固まっていた。
凍っている。
踏めば割れる。
世界がそういう硬さを持つ季節になった。
高橋徹が作業療法室への移動を「難しい」と言ったのは、十二月の初旬だった。
移動できない、ではなかった。
難しい、と言った。
その言葉の選び方に、高橋らしさがあった。
できない、と言うことへの抵抗が、まだ残っていた。
肺転移の進行で、少し歩くと息が上がるようになっていた。
酸素の流量が上がっていた。
廊下の突き当たりまで歩いて、鍵を開けて、部屋に入って、作業をして、また戻ってくる——その往復が、体に対して重くなっていた。
一ノ瀬は高橋の言葉を聞いて、翌日の朝、真壁に話した。
「部屋に画材を持ち込めるか、検討しています」
「問題ありません」と真壁は言った。
即座に、迷わずに。
「感染管理の面では」
「清潔を保てれば問題ない。ケアの妨げにならない配置にすれば許可します」
「高橋さんに伝えていいですか」
「どうぞ」
一ノ瀬が三〇九号室に入って高橋に伝えると、高橋はしばらく黙っていた。
「部屋で描いていいんですか」
「はい。窓際にスペースを作れば」
「——わかりました」
高橋は少し間を置いてから、言った。
「画材ケースを棚から下ろせますか。自分では——」
右腕のない方の肩が、少し落ちた。
一ノ瀬は何も言わずに棚に手を伸ばして、木製のケースを下ろした。
ベッドサイドのテーブルに置いた。
「一つお願いがあります」
「なんですか」
「毎朝、窓際のテーブルの上に画材を出しておいてもらえますか。描くかどうかは、そのときによるので——でも、出ていれば、描けるから」
「わかりました。毎朝出しておきます」
高橋はうなずいた。
一ノ瀬は翌朝から、毎日その約束を守った。
朝の巡回が終わると、一ノ瀬は三〇九号室に立ち寄って、窓際のテーブルに画材を出した。
スケッチブック、鉛筆、消しゴム。
それだけ。
絵の具は試したが、高橋が「今は鉛筆だけでいい」と言ったので、鉛筆だけになった。
高橋がそれを使うかどうかは、一ノ瀬には見えなかった。
ケアに入ったときに使われている形跡があれば、使ったとわかる。
消しゴムのかすがあるか、ページが変わっているか。
十二月の間、毎日ではないが、使われていた。
年が明けた。
一月の病棟は、静かだった。
正月の間は面会が増え、それが終わると反動のように静かになる。
廊下に人が少ない日が続いた。
窓の外、雑木林に雪が降った日があった。
積もるほどではなかったが、枝の上に白が乗って、翌朝の光の中でそれが輝いていた。
一ノ瀬は高橋の朝のケアをしながら、窓の外の雪の光を見た。
「きれいですね」
「そうですね」高橋は言った。
酸素カニューレを鼻につけたまま、窓の外を見ていた。
「描ける」
「今ですか」
「今じゃなくてもいい。描けると思う、という話」
一ノ瀬は、それを聞いて、少し安心した。
描けると思う、という言葉。
否定でも諦めでもない言葉。
一月の中旬、高橋が一ノ瀬に言った。
「完成させたい絵があります」
「どんな絵ですか」
「人物」
「誰ですか」
高橋は少し間を置いた。
「母親の横顔」
一ノ瀬は、あの画材ケースの蓋の裏に挟まっていたデッサンを思い出した。
入院から数日後、高橋が夜中に画材ケースを開けて見つけた、右手で描いた最後の絵。
「右手で描いたものを、左手で描き直すんですか」
「同じものにはならない。でも——」高橋は窓の外を見た。
「それでいいと思ってる」
「わかりました。何か必要なものがあれば言ってください」
「今は鉛筆だけで十分です」
その夜、高橋はスケッチブックの新しいページを開いた。
画材ケースの蓋を開けて、中の裏側に挟んである二つ折りの紙を取り出した。
開いた。
母親の横顔。
右手で描いた、三十分の作品。
細くて、確かな線。
右手の自信が宿っている線。
それを、ベッドサイドの棚に立てかけた。
スケッチブックに鉛筆を当てた。
左手で、始めた。




