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残照のテラス ─ 死ぬことは、敗北じゃない。ホスピスの看護師あゆみが、逝く人たちから受け取った言葉と、 渡せなかった言葉の、一年間 ─  作者: かーすけ


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第十四話 「第一筆、最後の筆」

 二月は、一年で最も夜が短くなる手前の月だった。


 冬至を過ぎ、日が少しずつ長くなっている。

 午後四時でも、窓の外がまだ明るい。

 その光の伸びを、一ノ瀬あゆみは毎日廊下の窓で確認していた。

 変化は微かだったが、確かにあった。

 夜明けが少しずつ早くなっている。

 夕暮れが少しずつ遅くなっている。

 冬の中で、次の季節の準備が静かに進んでいた。


 雑木林の梢が、二月に入って変わった。

 まだ葉はない。

 枝だけが、冬の空に向かって伸びている。

 しかしその枝の先端に、ほんのわずかな膨らみが出てきていた。

 芽だ。

 まだ芽とも呼べないほどの、小さな小さな点。

 でも確かにそこにある。

 冬の中に、春の種が宿っている。


 高橋徹が「できた」と言ったのは、二月の第二週の夜だった。

 夜の見回りをしていた一ノ瀬が三〇九号室の前を通りかかると、ドアが少し開いていた。

 中から光が漏れていた。

 消灯時間を過ぎているが、スタンドライトの小さな光だった。


 一ノ瀬がドアをノックすると「入ってください」という声がした。

 入ると、高橋はベッドに起き上がって、窓側のテーブルの前に座っていた。

 酸素カニューレ。

 スタンドライトの光の輪の中に、スケッチブックが開いていた。


「できた、と思います」高橋は言った。

「一度、見てほしい」

「見ていいんですか」

「見せたくないって言っていた、最初のころの話は、もう終わりました」

 一ノ瀬は近づいた。

 テーブルの前に立って、スケッチブックを見た。


 一枚の鉛筆画だった。

 女性の横顔。

 椅子に腰かけている。

 窓際で、光を受けている。

 顔の向きは右側面。

 光が左から当たっているので、右の頬に影が落ちている。

 目は伏せがちで、口元は少し閉じている。

 髪が耳の後ろにかかっている。


 線は、右手で描いたデッサンとは全く違った。

 震えがある。

 左手特有の不均等さがある。

 陰影の付け方が、右手のときほど精密ではない。

 輪郭が、ところどころ二重になっている。

 それでも。

 それでも、確かに女性の顔がそこにあった。

 光の方向がわかった。

 その人が窓の外を見ていることがわかった。

 静かに座っているその人の、静けさが——粗い線の中に、宿っていた。


「お母さんですか」と一ノ瀬は聞いた。

「そうです」

「右手で描いたものと、見比べましたか」

「見ました」

「どうでしたか」

 高橋は少し間を置いた。

「右手のは、うまかったです。左手のは、うまくない」

「はい」

「でも——」高橋はスケッチブックを見た。

「左手のの方が、なぜか、顔が、ある気がする」

 一ノ瀬は、その言葉を聞いた。

「描いてよかったですか」と、一ノ瀬は聞いた。

「描いてよかった」

 即答だった。

 右手のある頃も、ない頃も、「描いてよかった」と言えるまでに——高橋は約一年かかった。

 その一年分が、この一枚の中にあった。


 一ノ瀬はスケッチブックの横に立てかけてある二つ折りの紙を見た。

 画材ケースの裏に挟まっていた、右手最後のデッサン。

「並べてもいいですか」

「どうぞ」

 一ノ瀬は二つ折りの紙を開いて、スケッチブックの横に置いた。

 右手の、細くて確かな線。

 左手の、震えた、でも確かな線。

 同じ人物の、同じ角度の、同じ光の中の横顔。

 まったく違う線で描かれた、同じ顔。

 どちらにも、「描いた人」がいた。

 右手のそれは、自信があって、速くて、迷いのない人だった。

 左手のそれは、遅くて、震えていて、それでも止まらなかった人だった。

 高橋徹の、一年間がそこにあった。

「どちらも、あなたが描いた」と一ノ瀬は言った。

 高橋は答えなかった。

 でも、その沈黙の中に「そうです」が入っていた。


 一ノ瀬は部屋を出た。

 廊下に出て、夜の病棟を歩きながら、自分の手を見た。

 何かを持っているわけでもない、ただの手。

 鉛筆を持つ人間の手でも、筆を持つ人間の手でもない。

 でも、患者の手を握る手で、ボタンを押す手で、記録を打つ手だ。

 自分の手で、できることをしてきた。

 そのことの意味を、今夜は少し違う角度から感じていた。


 翌日の朝のケアで、高橋はいつもより少し声が出にくそうだった。

 バイタルを測りながら、一ノ瀬は「今日は具合はどうですか」と聞いた。

「昨日より、少し疲れています」

「眠れましたか」

「少し」

「昨夜は遅くまで描いていたから」

「そうです」


 一ノ瀬は血圧の数値を記録した。

 昨日より、少し落ちていた。

「外に出たい、と思ったことはありますか。最近」

 高橋は少し目を細めた。

「あります」

「テラスなら、今の状態でも行けます。車椅子と酸素ボンベがあれば。暖かい日を選べば」

「——そうか」

「もし行きたくなったら、言ってください」

「わかりました」


 二月の後半、梅の花が咲いた。

 中庭の端に一本だけある梅の木が、薄いピンク色の花を開いた。

 小さな花だった。

 桜に比べれば地味で、遠くからでは気づきにくい。

 でも近くに行くと、甘くて清潔な香りがした。

 雪の残る季節に咲く花の、静かな香りだった。

 その梅の香りが、廊下の窓から、かすかに届いた。

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