第十五話 「残照のテラス」
三月の光は、二月とは違う。
同じ斜めから来る光でも、三月のそれは少し温かみを持っていた。
冬の光が白かったとすれば、三月の光は淡い黄色だった。
空気が少し緩んでいる。
梅の花が終わり、雑木林の梢の先端に、膨らみが増してきていた。
芽が、確実に準備を進めていた。
まだ葉は出ない。
でも、出る直前の、内側に力を溜めた状態のものが、枝の先端にぎっしりと並んでいた。
光が長くなっていた。
午後五時でも、窓の外がまだ明るかった。
聖マリアナ丘の上病院の病棟テラスは、南向きだった。
丘の上にあるため、眺望がよかった。
晴れた日には、遠くの山の稜線まで見えた。
住宅地の屋根が続いて、その向こうに川が光って、さらに先に山が薄く見える。
テラスから見える景色は、ここで生きている人たちの世界だった。
高橋徹が「外に出たい」と言ったのは、三月の第一週だった。
朝のケアの後、一ノ瀬が「今日の天気はどうですか」と窓の外を確認しながら言うと、高橋は少し間を置いてから答えた。
「テラスに行けますか」
一ノ瀬は窓の外を見た。
快晴だった。
風はあるが強くない。
三月の午前の光が、中庭の梅の木の白い幹に当たって反射していた。
「行けます。今日、行きましょう」
「今日ですか」
「今日がいいと思います」一ノ瀬は言った。
「こんなに晴れた日は、しばらくないかもしれない」
高橋はうなずいた。
準備に三十分かかった。
車椅子を用意した。
携帯用酸素ボンベをセットした。
高橋に厚いカーディガンを羽織ってもらい、膝掛けを用意した。
三月の屋外はまだ寒い。
長袖一枚では足りない。
廊下を車椅子で進んだ。
一ノ瀬が後ろを押した。
高橋は前を向いていた。
いつも通りの、投げやりでも力んでもない、ただ前を向いているという姿勢だった。
テラスに出た。
風が来た。
三月の風は、冷たかったが、その中に何かが混じっていた。
土の匂い。
草の匂い。
まだ咲いていない花の、準備している何かの匂い。
春の匂いというより、春が来ようとしている匂い。
高橋は目を細めた。
風を、顔で受けていた。
テラスの手すりの前まで車椅子を進めた。
眼下に、景色が広がっていた。
住宅地の屋根が続いていた。
道路が走っていた。
小さな公園に、まだ葉のない桜の木が並んでいた。
川が光っていた。
その向こうに、薄く、山の稜線が見えた。
空は快晴だった。
雲がほとんどなく、どこまでも青かった。
高橋は、その景色を見ていた。
どのくらいの時間が経ったか、一ノ瀬にはわからなかった。
五分だったかもしれないし、十分だったかもしれない。
時間を測る気にならなかった。
「絵に描きたい」と高橋が言った。
一ノ瀬は何も言わなかった。
「でも」高橋は左手を見た。
「手が、今日は」
左手を、テーブルに置いているように、膝の上で広げていた。
震えていた。
体力の低下が、指先にまで来ていた。
「描かなくていいです」一ノ瀬は言った。
高橋が、こちらを見た。
「見ていてください」一ノ瀬は続けた。
「描かなくていい。今は、ただ見ていてください」
高橋は一ノ瀬を見て、それから、また景色を見た。
風が来た。
髪が揺れた。
膝掛けの端が、わずかに浮いた。
光が、西に傾きかけていた。
午後の始まりの光が、丘の上から住宅地に斜めに差し込んでいた。
その光が、屋根を橙に染め、川の水面をきらきらと乱した。
影が長く伸びて、道路の上を横切っていた。
残照だった。
沈もうとする陽の、最後の輝き。
燃え尽きる前の光。
その光が今、二十二歳の男と二十八歳の女が立つ丘の上のテラスを、橙色に満たしていた。
「きれいですね」と一ノ瀬は言った。
「きれいですね」と高橋も言った。
それだけだった。
それ以上のことは、必要なかった。
高橋は病室に戻ってから、しばらく眠った。
テラスでの時間が、体に応えていた。
でもその顔は、眠る前の一瞬、穏やかだった。
疲弊した穏やかさではなく——何かを見た後の、静けさを持った穏やかさだった。
一ノ瀬は、高橋が眠ったことを確認してから部屋を出た。
翌日の朝、三〇九号室から呼び出しが来たのは、夜明け前だった。
午前四時二分。
夜勤スタッフが確認した。
高橋徹は眠っていた。
目は閉じていた。
口元が、わずかにほどけていた。
苦痛の形ではなかった。
呼吸が止まっていた。
真壁が呼ばれ、死亡確認をした。
「午前四時十五分。ご逝去を確認します」
静かだった。
夜明け前の病棟は、静かだった。
廊下の酸素濃縮器の音だけが、どこかで続いていた。
一ノ瀬が三〇九号室に入ったのは、夜明けが来てからだった。
体を拭いた。
着替えをさせた。
部屋を整えた。
窓際のテーブルに、スケッチブックと鉛筆が置いてあった。
毎朝一ノ瀬が用意していたものだ。
今日も、一ノ瀬が昨日の朝に置いたまま、そこにあった。
高橋の母親に連絡がいく。
荷物が片付けられる前に、一ノ瀬はスケッチブックを手に取った。
開いた。
最後のページを確認した。
母親の横顔の絵のページ。
二月の夜に完成した、左手の絵。
その次のページ、白紙のはずのページに——線があった。
細い、かすかな線が、数本あった。
何を描こうとしたのか、はっきりとはわからなかった。
でも、斜めに差し込む光のようなもの——四角く切り取られた、窓枠と、その向こうの光——そういうものに見えた。
昨日のテラスで見た、残照の光を——帰ってきてから、ベッドの上で描こうとしたのかもしれなかった。
完成してはいなかった。
数本の線だけで、途中だった。
でも、途中であることは、描こうとしたことの否定ではなかった。
描こうとして、描き始めた。
手が止まるまで動かした。
それが、そこにあった。
一ノ瀬はそのページを、閉じなかった。
少しの間、その線を見た。
窓の外に、三月の朝の光が来ていた。
雑木林の梢が、その光を受けていた。
芽の膨らみが、今朝はさらに大きくなっているように見えた。
もうすぐ、また葉が開く。
また緑の季節が来る。
病棟は続いていく。
一ノ瀬はスケッチブックを、テーブルの上に戻した。
部屋を出た。




