エピローグ
翌年の四月、雑木林に新緑が戻ってきた。
コナラとクヌギが葉を広げ、朝の光を受けて、病棟の北側の廊下に木漏れ日を落としていた。
濃い緑ではまだない、光を透かす若々しい緑——黄緑と金緑の中間のような色——が、廊下の白い床の上で揺れながら、消えながら、また揺れた。
風が吹くたびに、葉の擦れる音が窓から低く届く。
海の波音に似た、あの音。
聖マリアナ丘の上病院の緩和ケア病棟は、今年の春も、新しい患者を迎えていた。
入院受付に、新しい名前が記された。
六十代の男性、胃がん末期。
長い間、一人で暮らしてきた人だった。
入院の日、荷物は少なかった。
付き添いの人もいなかった。
自動ドアを自分の足で通り抜けて、受付に来た。
足は確かだったが、顔に、どこか迷子のような表情があった。
一ノ瀬あゆみが受付から出て、声をかけた。
「いらっしゃいませ。今日からここで、お世話になる方ですか」
男性は、一ノ瀬を見た。
一ノ瀬の顔に、ごく自然な微笑みが浮かんでいた。
作られた微笑みではない。
患者がここに来た、という事実を、自分が歓迎している、という感情がそのまま顔に出てしまっているような——感情の漏れ、とでも言うべき表情。
一年前と、変わっていない表情だった。
変わっていないが、その奥にあるものは、変わっていた。
午後のカンファレンスが終わった後、廊下で真壁俊介とすれ違ったとき、真壁が言った。
「慣れましたか、この仕事」
一ノ瀬は歩きながら、少しだけ立ち止まった。
「慣れましたか」という問いを、どういう意味で真壁が使っているか、一ノ瀬には伝わっていた。
仕事の手順に慣れたか、という問いではない。
この病棟の仕事が自分の中で何になったか、という問いだった。
「慣れない方がいいと思っています」
一ノ瀬は答えた。
「慣れたら、軽くなる気がするから。軽くなりたくない」
「そうですか」
「でも——」一ノ瀬は少し間を置いた。
「前より少しだけ、ちゃんと立っていられます。前は、扉を開けるたびに、ちょっとずつ倒れそうになっていたから」
真壁はうなずいた。
「それでいいと思います」
それだけ言って、廊下を歩いた。
回診へ。
止まらずに。
一ノ瀬も歩いた。
次の患者の部屋へ。
廊下の突き当たりの部屋の鍵は、今は使われていなかった。
高橋徹が使い終えてから、また空き部屋に戻っていた。
テーブルが一つ、椅子が一脚。
窓から北の光が入っている。
白い壁。
何もない部屋。
一ノ瀬はその部屋の前を通るたびに、鍵穴を見た。
次に誰かがここを使うかどうかは、わからなかった。
使う人が来るかもしれないし、来ないかもしれない。
でも、準備はできていた。
鍵はある。
窓はある。
光はある。
四月の夕方、一ノ瀬は窓から外を見た。
丘の上から見える景色が、一年前と同じだった。
住宅地の屋根が続いていた。道路が走っていた。
小さな公園の桜が、今年も満開だった。
川が光っていた。
その向こうに山が薄く見えた。
夕暮れが近づいていた。
残照の光が、斜めから差し込んでいた。
浅野徳三郎が見た景色だった。
椎名遥が、車椅子で中庭から見た景色だった。
高橋徹がテラスで見た景色だった。
そして今、一ノ瀬あゆみが見ている景色だった。
光は、誰のものでもなかった。
光は、みんなのものだった。
窓の外の雑木林で、シジュウカラが鳴いていた。
春の、よく晴れた、夕方の声。
一ノ瀬は窓を少し開けた。
四月の空気が入ってきた。
草と土と、新しい葉の匂い。
この匂いを、自分はまた来年も、ここで嗅ぐだろうと思った。
再来年も。
その次の年も。
患者は変わる。でも、この匂いは毎年戻ってくる。
それが、この仕事だった。
丘の上の病棟は、また一年を始めていた。
静かに。
止まらずに。




