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第2-23節 少防所でトラブル?

 ゴールデンウィーク明けの5月7日水曜日の午後3時、庁舎2階の自治研究所。

 イブの机の電話が鳴った。

「はい、自治研担当、佐藤です」

 内線電話からの呼び出し音なので、キーボードからゆっくり手を下ろして答えると、受話器を耳に当てる前から怒鳴り声が聞こえてきた。

少防所(しょうぼうしょ)の浜子ですけど、子供が暴れて困ってます。日本語が通じません。

 急いで英語のできる人を連れてきて下さい!」

 受話器を握り直し、手短かに答える。

「わかりました。5分でそちらにうかがいます。

 なんとか(つな)いでいて下さい」

「お願いします!」

 ガチャン!

「相手が切ってから下ろせよ」と左耳をさすりながら、1階窓口係の加山英子主任に架電する。

「A子さん、お仕事中申し訳ないんですが、隣りの少防所で外国人の子供のトラブルが起きて、英語のできる方を要請されました。

 ご一緒して頂けませんか?」

 少防所は、道路を挟んで向かいに建つ小学校の空き教室を使って、平日の昼間、青少年の家の機能を果たしていた。

 専門の指導員の管理のもと、新たに設置された遊戯室に加え、図書室と授業の利用が終わった後の体育館で子供や幼児が遊んでいる。

 その運営は、自治研究所からふかい未来塾に委託されていて、加山浜子さんは未来塾に雇用された指導員のひとりだ。

 未来塾は神奈川県の認定NPOで、連絡先は不動産業を営む理事長・原栄衛の事務所になっているけれど、緊急の重大事件や人命に関わる問題が生じた場合は、最初に自治研に連絡して良いことになっていた。

 ところが、期待に反し、受話器の向こうのA子の声が低い。

「ごめん。今、出生(しゅっしょう)届の処理中で、手が離せないの。

 おまけに『30条の46』なのよ!」

「が、が〜ん!」

 頭に響いた音を自分で発音した。

「住民基本台帳法第30条の46」というのは、外国人の海外からの初転入のことで、国内の別自治体からの転入のように住民基本台帳ネットワークから既存データを引き出せるわけじゃないので、1から住民データ作る必要があり手間なのだ。

 入国と同時に出産。早産なのか?

「どうしよう?」

 受話器を握るイブの手が汗で濡れる。残り3分50秒。

 A子が続けた。

「えーと、今年採用された会計年度さんにマルチリンガルの人がいるって聞いたわよ。

 観光産業課のインバウンド担当の人」

 観光産業課は研究所と同じ2階で、庁舎の反対側だ。行った方が早い。

「あざーす!」

 ガチャン!

 A子が切る前に受話器を投げ捨てると、そのまま駆け出した。

「係長、後で説明します!」

 振り返って走りながら叫ぶと、係長が右手を挙げる。

 疾走10秒。観光産業課のカウンターで叫んだ。

「自治研ですが、マルチリンガルの方、お願いします!」

 ただならぬ音量に、観光係長と話をしていた背の高い青年が振り向いた。

「ぼくですか?」

 明らかに日本人じゃないのに、落ち着いたクリアな日本語だ。

「隣りの少防所でトラブルです。

 この方、お借りします!」

 右手の人差し指で自分の鼻先を指している青年の左腕を鷲掴みすると、強引に事務室から引きずり出した。

 呆気にとられている職場を後に、中階段を走り降りながら電話で聞いたことを説明する。

「わかりました。とりあえず状況をみましょう。

 ぼくはチャパリトといいます。」

「ありがと!」

 道路を渡り、校庭脇の通用門から入ると、職員室の隣りにある少防所事務室を目指した。

 事務室の手前には教頭先生がいて、興味本位に集まってくるランドセル姿の1、2年生を追い払っていた。

 腕時計を見るとちょうど5分経過。

「セーフ」

 イブが事務室の前でつぶやくと、中から怒鳴られた。

「遅いじゃないの、まったく!」

 恰幅(かっぷく)のいい歳上のおばさんの形相に(ひる)んで、反論できない。

 中を見ると、元消防士の屈強なおじさんに羽交(はがい)い締めにされた子供が1人。

 5歳? いや、もしかすると学齢児かもしれない。

 頭髪はモジャモジャで顔の色は黒い。少しダブついたTシャツとGパンを着せられて、黒いスニーカーが泥でさらに汚れている。

 口を真一文字に結び、鋭い眼光で2人を睨みつけ、肩で息をしていた。

 最初にイブが優しく声をかけた。

「Are you OK?〔大丈夫かな?〕」

 返事をしない。

「ぼくが話しましょう」

 チャパリトが1歩前に出ると、子供の前に右足の膝を突いて目線を同じ高さを合わせ、ゆっくりとスペイン語で話しかけた。

「No te preocupes. Estoy de tu lado.〔心配しなくていいよ、ぼくはきみの味方だよ〕」

 雲が晴れるようにその子の眼に光が戻り、口元が弛んだ。

「椅子を下さい。

 もう、腕を離しても大丈夫です」

 慌てて元消防士が腕を離すと、出された椅子に座る。

 チャパリトも並んで椅子に腰を下ろし、2人はスペイン語で静かに会話を始めた。

 その様子を見て、室内の全員が腰を下ろす。

 しばらくするとイブが立ち上がり、子供に囲まれた教頭先生に質問に行った。


「何か、食べ物があったら、少し頂けませんか?

 それと、飲み物もお願いします」

 チャパリトが首を回して頼むと、浜子さんが自分の机の引き出しを開け、中からどら焼きを1つ差し出した。

 チャパリトがそれを貰って彼に渡すと、何も言わずに袋を破る。

 中身を半分に割り、袋に残った片方をズボンのポケットにねじ込むと、もう半分を急いで食べ始めた。

 それを見たチャパリトが質問すると、小さな声で二言三言答えた。

 うなずいて、彼を見守るチャパリト。

 その様子を見ていた浜子さんが、コップを持って小走りでトイレに行き、水を汲んで戻ってきた。

 どら焼きを食べ終わり、コップの水を飲んでいると、廊下の下級生を追い払い終えた教頭先生が事務室に入ってきた。

 先生が浜子さんに話しかける様子を見た途端、その子が立ち上がり脱兎(だっと)のごとく一目散に逃げ出した。

 あっと言う間もなく、後ろ姿が小さくなる。

「逃しちゃダメじゃないか!」

 教頭先生が椅子に座ったままのチャパリトを叱ると、涼しい顔で言った。

「大丈夫です。

 行き先は、聞きました。

 それと、理由も」

 彼は暗い顔をしたまま椅子からゆっくり立ち上がると、「帰りましょう」とイブに言った。

「事の顛末(てんまつ)は、どうするんだ?」

 教頭先生の強い言葉に、イブが代わりに返事をした。

「後で、役場で話をまとめたら、お電話します。

 少し、お時間をください」

 2人して頭を下げる。

「あの子は、しばらくは来ないでしょう」

 暗い声のままでチャパリトが言い、2人は学校を後にした。

 事務室の前で立ち尽くす3人の大人たち。

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