第2-22節 あたしも覚えちゃった。変でしょ?
「あたし、三浦海岸駅のそばで、1人で暮らしています。
お父さんは、自分がいなくなった後でもあたしが独りでやっていけるようにって、生きるためのすべてのことを教えてくれました。
あたしの体に、生きるための技術を叩き込んでくれたんです。
家の中のあちこちにDIYしてくれて、片腕で着替えたり料理をしたりしやすいように、細工をしてくれた。
お皿を洗う時だって、シンクの底にゴムマットを敷くだけで、片手で洗って流すことができる」
貴子ちゃんの話に、うなずくイブと歩夢。
「それに、普通の子が体験することを、あたしにも体験させてくれた。
公園のターザンロープだって、つかまって滑らせてくれた。
喧嘩しても男の子に負けないように、空手も習わせてくれた。
サッカーもやったけど、危ない時は空手の方が役に立った。
口で言わなくても、左手の拳を見せるだけで、喧嘩にならずに済んだから。
あたしが高校に入って、本当に自分で何でもできるようになると、お父さんがお酒に溺れるようになっちゃった」
歩夢がいぶりがっこを1つつまみ、口に入れた。
「もともとお酒は好きだったみたいだけど、あたしと2人暮らしだったから、職場の飲み会も断ることが多かった。でも、それが、断る理由がなくなっちゃったんですね。
バリバリ仕事ができるようになって、飲み会も最初は1次会までだったけど、2次会3次会にも行くようになって、帰ってくるのが夜中。金曜日の夜なんかは朝帰りするようになった。
深酒をして帰ってくると、鞄がない。どこかに忘れてきちゃうの。
道路で拾った近所の人が届けてくれたこともある。
タクシーから降りた後、家の玄関の前で倒れて寝てたこともある。その時も、近所の人がドアホンを押して教えてくれた」
イブがいぶりがっこを1つつまむと、音を立てないようにゆっくり噛んだ。
「体からお酒がなかなか抜けなくて苦しがってあばれることもあったし、起き上がれなくて、ズボンを履いたまま漏らしたこともある。
寝たまま吐くと、口から50センチくらい中身が飛び上がって、全部自分の顔とか体とかを汚すのよ。
喉につまらないように首を横に向けて、それから綺麗にしてあげて、片づけて。
口を開くと『ごめん、ごめん』と謝るけど、深酒が治ることはなかった。
ある日、寝たまま出勤しないもんだから、職場の人が心配して家まで来てくれた。
そして、アルコール依存症だとわかって、横須賀の野比の病院に入院したのが去年の秋。
でも、入院してくれてた方がお互いにいい。
生活費は、あたしが働けば、なんとかなります」
空になったシラス丼の白い丼を前に、歩夢がつぶやいた。
「北条さん、えらい。
ぼくが何か言える立場じゃないけど、北条さんが北条であることの理由が、よくわかった」
歩夢を見上げる貴子ちゃん。
「イブさんね、ぼくはね、北条さんと会って、自分の考えが間違っていたことを知らされたんだ。
少なくとも、ぼくの心の中に、ブレイクスルーのイノベーションを起こしてくれた。
ありがとう。
今日は、その感謝の印の夕食会なんだ」
はにかむ粘土さん。
イブが、お茶を一口すすった。
「風は、吹かないと、その存在に気づけないよね。
少し強く吹いた位の方が、フネ〔ヨット〕がよく走るのよ」
貴子ちゃんの目が輝く。
「でも、どうしたら、あなたみたいに、自分の気持ちに、そんなに正直に生きられるの?」
「ボロボロです」
貴子ちゃんが笑うと、つられて2人も笑った。
「最初はすごく傷つくんですけど、だんだん耐えられるようになった」
そう言って、首を右に少し傾ける。
「フォークギターを弾くと、最初は指が痛くてたまらないけど、弾いてるうちに指の皮が厚くなるじゃないですか」
両目が大きくなるイブ。
「貴子ちゃん、ギター、弾けるの?」
粘土さんの両方の目尻が下がる。
「Fのコード、得意です!」
白い歯を見せる歩夢。
「お父さんがあたしを膝に乗せてくれたあと、あたしがフレットでコードを押さえると、お父さんの右手が弦をはじいてくれるの。
お父さんが歌うと、お父さんの胸の響きがあたしの背中に伝わってくる。
あたしがメロディを歌うと、お父さんがハモってくれる。
途中で指の先が痛くてたまらなくなるんだけど、やめないの。
お父さんは『見上げてごらん夜の星を』が大好きで、『いつでも夢を』とか『虹と雪のバラード』とか、昔の曲をたくさん歌ったから、あたしも覚えちゃった。
変でしょ?」
そう言って笑うと、貴子ちゃんの下がった左の目尻から、小さな思い出の粒がこぼれた。(つづく)




