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「遥花さんが頑張ったから、今があります」
俺がそう言うと、遥花さんは少し黙った。
「……それ、ずるい」
「何がですか」
「なんか、私だけすごいことしたみたいに言うの」
「事実です」
即答すると、彼女は小さく笑った。
「湊もずっとそばにいたじゃん」
「いただけです」
「それが大きかったの」
ベビーベッドから、澪花の寝息。
規則正しい、小さな音。
遥花さんが天井を見たまま言う。
「ねえ、湊」
「はい」
「本当はさ、怖かったでしょ」
「……何がですか」
「出産のとき。顔、真っ青だった」
誤魔化そうとしたけど、無理だった。
「怖かったです」
素直に言う。
「澪花が生まれる時、苦しむ遥花さんをみて
なんで遥花さんがって思いました」
遥花さんが、こっちを見る。
「代わりたいって思ったんです」
部屋が静かになる。
「でも、代われなかった」
喉の奥が少しだけ詰まる。
「俺、何も出来なかった」
「そんなこと――」
「あります」
被せるみたいに言ってしまう。
怒ってるわけじゃない。
ただ、事実だと思っていた。
「手を握ることしか出来なかった。
声をかけることしか、出来なかった。無力でした」
遥花さんは、何も言わない。
ただ、聞いている。
「だから退院してから
出来ることは全部やろうと思いました」
「だからあんな過保護なの?」
「過保護ですか」
「うん。ちょっと」
少し笑う声。
俺も息を吐く。
「でも、今なら俺にも出来ることがあります」
「……うん」
「夜中に起きることも
ミルク作ることも、抱き上げることも」
「分かってるよ」
「遥花さんを、寝かせてあげることも」
遥花さんの目が少し揺れる。
「確かにしんどい時もあります」
「眠いですし、仕事もありますし」
「やっぱり無理してるじゃん」
「でも」
少しだけ、声を落とす。
「これが、欲しかった生活です」
言った瞬間、自分でも驚くくらい、すとんと落ちた。
遥花さんが、ゆっくり息を吐く。
「……そっか」
「はい」
「湊、変わったね」
「そうですか?」
「うん。なんか、落ち着いた」
少し考えてから答える。
「変わりたいとは思ってました」
「え?」
「でも、多分。変わったのは俺の優先順位です」
澪花が小さく身じろぎする。
二人同時にそっちを見る。
顔を見合わせて、少し笑う。
「湊」
「はい」
「ありがとう」
その一言が、思っていたより重い。
俺は首を振る。
「こちらこそ」
「何が」
「家族にしてくれて」
遥花さんが、また泣きそうな顔をする。
「……ずるいよ」
「そうですか?」
「うん」
ベビーベッドから、すう、と寝息。
静かな夜。
俺は立ち上がる。
「どこ行くの」
「一応、様子見ます」
「ほら過保護」
小さく笑い声が落ちる。
俺はベビーベッドを覗き込む。
胸が、静かに満ちる。
守る。
出来ることを、全部。
それが、今の俺の役目だ。




