179
家に帰った日、最初に気づいたのは、湊の視線だった。
「段差あります。ゆっくり」
玄関を上がるだけなのに、手を差し出してくる。
「大丈夫だって」
そう言いながらも、私はその手を取る。
指先が少し冷たい。
緊張してるのがわかる。
退院してから、湊はほとんど座らない。
澪花が小さく息を吸うだけで、反応する。
「今、起きました?」
「まだ寝てるよ」
それでもベビーベッドを覗き込む。
角度を直す。
毛布を整える。
温度計を確認する。
過保護。
分かってるのに、止められないみたい。
夜中の授乳も、ほとんど湊が起きる。
「俺やります」
それが口癖みたいになっている。
「私やるよ」
「身体、まだ戻ってませんよ」
柔らかい敬語なのに、譲らない。
ミルクの温度はぴったり。
オムツ替えも無駄がない。
抱き方も、もう安定してる。
すごいなと思う。
頼もしいなって、
でも。
朝、洗面所ですれ違ったとき。
目の下が、少しだけ暗い。
「湊、寝てる?」
「寝てます」
嘘だ。
でも責められない。
一週間目の夜。
澪花がなかなか寝なくて、二人でリビングにいた。
私はソファに座って、ただ見ている。
湊は、静かに部屋を歩く。
一定のリズムで、澪花を揺らす。
「……大丈夫」
誰に言ってるんだろう。
私か、澪花か、それとも自分か。
少しだけ、胸がきゅっとした。
「湊、代わるよ」
そう言ったら、一瞬だけ迷う顔をした。
でも、首を振る。
「遥花さんは、座っててください」
その言い方が、優しくて。
でもどこか必死で。
ああ、この人、怖いんだなって思った。
守れないことが。
間に合わないことが。
ベッドに戻ったあと。
湊が隣に横になる。
「……ごめんね」
ぽつりと零れてしまった。
「何がですか?」
「私ばっかり休んでるみたいで」
一瞬、空気が止まる。
それから、ため息みたいな小さな笑い。
「それ、俺の台詞です」
手が伸びてくる。
私のお腹の上に、そっと置かれる。
もう何もいない場所。
でも、確かにあった場所。
「遥花さんが頑張ったから、今があります」
静かで、低い声。
その言葉が、真っ直ぐで。
涙が出そうになる。




