風の行方⑤
会が終わり、観客たちは一様に戸惑いを残したまま、次々と帰路についていた。
「一体……何だったんだろうね、あの人…」
「さあ……でも、なんだか全部論破された気分だよ」
ひそひそと交わされる声は、混乱と畏怖を滲ませていた。まるで一陣の風に巻き込まれたような空気が、会場を包んでいる。
その中を、新堂はまるで何事もなかったかのように、壇上からゆっくりと降りてきた。悠然と歩く姿は、まるで舞台から去る俳優のようでもあった。
「お邪魔しました」
控えめな一言だけを残し、彼は会場の出口へと姿を消した。
「……どういう男なんだ、あいつは」
川端が呟いた。
「さあ……」と田嶋教授も同じ言葉を返す。
美咲は、いてもたってもいられず新堂のあとを追った。
「新堂さん!」
廊下に出て声をかけると、新堂はゆっくりと振り返った。
先ほどまでの冷徹な印象とは異なり、今は柔らかい笑みを浮かべていた。
「はい?」
「今日はありがとうございました」
「いえ、私はただ……学会でこちらに来たついでに、知的好奇心を満たしたかっただけです」
ふっと笑みを消し、新堂の目が真剣になる。
「ただし、沢村さん」
「はい?」
「あなたも文系でしょう?」
「え?」
一瞬、美咲の眉がぴくりと動いた。
「……確かに、経済学部出身ですが、それが何か?」
「議論の焦点が、騒音やバードストライクなどの『枝葉』に偏り、『根幹』に触れていなかった。それゆえ、立花教授の質問に詰まった。違いますか?」
その鋭さに、美咲は言葉を失った。
「……違いません」
「円は、平面上のある定点から等しい距離のひとつなぎの点の集合と定義される。定義がなければ、半径も円周率も存在しない。考察は常に『定義』から入るべきです。定義を曖昧にして感情に頼っても、議論は成立しません」
淡々と話すその言葉に、美咲は反論できなかった。ただ、その表情に、どこか言い知れぬ孤独も見て取れた。
「では」
新堂が背を向けて歩き出す。
「……あの!」
美咲は思わず声を上げていた。
「はい?」
今度は少し怪訝な顔で振り返る。
「……今日、来られたのは……お見合い絡み、だったんですか?」
一瞬、新堂の表情が止まった。
「お見合い?何ですか、それは」
「えっと、私との……そういう話があったのかと」
「知りません」
ばっさりと切り捨てるような口調だった。
「親が勝手にあちこちに写真を送るんです。私はいつも、事後報告で知るだけです」
「そうでしたか……」
美咲の胸に去来するのは、安堵と、少しの失望、そして妙な胸騒ぎだった。
新堂は再び歩き出す――しかし、数歩進んだところで、また立ち止まった。
「でも……」
振り返りもせずにそう呟いた。
「え?」
「沢村さん。あなた、神奈川県立川奈高校出身ですよね?」
驚いて、美咲が見つめ返す。
「……はい。どうしてそれを?」
「高校時代に地学を専攻していたのでは?」
「……そうです。そこまで分かるなんて、まさか……」
「私も、違う学校ですが、あなたと同じ……朝永先生の教え子です」
一瞬、美咲の心に火が灯った。
「朝永先生……!」
その名前に、胸の奥から記憶が蘇る。授業の最後に、文学や哲学の言葉を添えてくれた、あの地学の先生。
「じゃあ、あのサン=テグジュペリの言葉は……」
「『友情とはお互いを見つめ合うことではない。同じ方向を見ることだ』――朝永先生が、よく口にしていた言葉です。私の、座右の銘でもあります。そして、朝永先生は、私に科学の道を開かせてくれた恩師であり、科学者として、教育者としての、私の目標です」
新堂が静かに息を吐いた。
「ご存じかどうか……朝永先生は、昨年、癌で亡くなられました」
「……そうでしたか」
胸が締めつけられるようだった。
「私は、毎年先生に会いに行っていました。あなたの話も何度か伺いました。『分かりやすく丁寧に、科学を伝える力がある』と、とても誉めておられましたよ」
涙が、滲みそうになった。
「……ありがとうございます。それは、本当に嬉しいです」
新堂は背を向けながら言った。
「……一番難しい科学は、人の心だ」
「え?」
「少なくとも、私にはそうです。沢村さん――あなたは、それがとても優れている。現地の人々に寄り添い、言葉を選び、思いを伝えている。今日も、あなたがいなければ、会は収拾がつかなかったでしょう」
「新堂さん……」
彼は、まるで独り言のように呟いた。
「あなたとは……同じ方向を見てみたかった……」
「えっ?」
美咲の頬が、微かに赤くなった。
「今、何と……?」
「何でもありません」
新堂はくるりと踵を返し、美咲の前で一礼した。
「本日は、ありがとうございました」
新堂はそう言って、廊下を歩き出した。
(これは何?憧れ?敬意?それとも……)
すたすたと歩き去っていく新堂の背中を、美咲は茫然と見送るしかなかった。
その日の夕方。
福岡市内のホテルの一室。柔らかなオレンジ色の夕日がレースのカーテン越しに差し込み、室内に温かな陰影を落としていた。沢村美咲はワイシャツのボタンを緩め、ベッドサイドの椅子に腰かけたまま、スマートフォンを耳にあてていた。相手は、アトモス気象研究所の上司であり、良き理解者でもある玲奈だった。
「それは大変だったね」
電話の向こうで、玲奈がくすりと笑う。
「笑い事じゃないですよ」
美咲は苦笑を浮かべた。
「会場、完全に新堂さんのペースでした。煙に巻かれたっていうか……あの人、話し方も上手なんです」
「でも、良かったじゃない。おかげで、あなたの立ち位置もはっきりしたし、今後の議論も進めやすくなったでしょ?」
「……それは、そうなんですけど」
言いながら、美咲は窓の外に目をやる。沈みゆく夕日が、どこか胸の奥を焦がすようだった。
ふと、玲奈の声色が変わった。どこか探るような、けれど優しさを含んだ響き。
「ねえ、その乱入した新堂先生って、神奈川科学大学の新堂翔さんじゃない?」
美咲の指が、スマートフォンを持つ手の中でぴくりと震えた。
「……そうです。玲奈さん、お知り合いなんですか?」
「いえ、直接は。ただ……一昨日、うちに電話があったの。あなた宛に。ごめんね、いい忘れていた」
「えっ、私に?」
「そう。『私、神奈川科学大学の新堂翔と申します。沢村美咲さんはいらっしゃいますか?』って名乗ってきてね。私が『今出張中ですけど、ご用件をお伺いしましょうか?』って答えたら、『いえ、またかけ直します』って。それきり」
美咲は目を伏せた。胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなったような、でもくすぐったいような不思議な感覚に包まれる。
「あなた、何か話したんじゃない?」
「はい。高校時代、同じ地学の先生に教わっていたことを少し……」
「それだけ? 電話の声、すごく真剣だったよ。まるで……大事な人のことを聞くときみたいな」
「……本当に、それだけです」
言いながら、美咲は自分の声に、わずかに嘘が混じっていることを自覚していた。
心のどこかで、それ以上を望んでいる自分がいた。
「では、また明日、ご報告しますね」
そう言って、玲奈が何か言いかけるより早く、美咲はそっと通話を終えた。
深呼吸をひとつ。
スマートフォンを置き、すぐにまた手に取り直す。九州中央大学のウェブサイトを開き、今回の会合の案内ページを表示する。
そこに記された自分の名前。その情報に、新堂が気づかないはずがない。
――気づいて、来てくれたんだ。
会っていないはずの彼が、お見合い話で名前を聞いたとき、恩師の言葉の中から過去を手繰り寄せ、偶然を装って現れてくれた。そして、自分が追い込まれかけたあの場面で、迷いなく助けてくれた。
あの瞬間の、彼の真っすぐな眼差し。
会場の誰よりも、優しく、自分を理解しようとしてくれたその姿。
(あなたとは、同じ方向を見たかった……)
心の奥に、彼の言葉がふわりと浮かぶ。
それは理屈じゃない。ただ、静かに、やさしく胸を打った。
「……新堂さん」
思わず口から漏れた名を、誰が聞いているわけでもない。けれど、そのひと声だけで、自分の中の何かが静かに変わったような気がした。
窓の外に目をやると、福岡の街に灯りがともりはじめていた。遠く、ゆっくりと瞬く光の中に、彼の姿を探すように、美咲はまぶたを細めた。
東京に戻った美咲は、研修所の一角にある自分のデスクで、静かにスマートフォンを手に取った。
神奈川科学大学の代表番号を検索し、一呼吸おいてから発信ボタンを押す。胸の奥がわずかに高鳴る。
保留の音楽の後、聞き覚えのある声が受話器越しに届いた。
「はい、新堂です」
「沢村です。先日は、本当にありがとうございました」
「ああ、どうも。あの場は……なかなか大変でしたね」
苦笑が交じった新堂の声に、美咲もわずかに肩の力を抜いた。
「実は、お願いがあってお電話しました。お忙しいところ申し訳ないのですが、今後の話し合いに、ご協力いただけませんか?」
一瞬、受話器の向こうが静かになった。そして、
「いいですけど……私が入るとまた話がややこしくなりそうですよ。表に立つより、事前の打ち合わせに助言するくらいでよければ」
「もちろんです。それで充分です。本当に、助かります」
言葉にこめた感謝が素直に届くよう、美咲は丁寧に言った。
「では、また日程が決まったら連絡を」
新堂がそう告げたとき、美咲の中で何かが引っかかった。
「――あの」
思わず口をついて出た声に、自分で少し驚いた。
「はい?」
「……新堂さんが、あのとき言ってくださった言葉を聞いて、私も思ったんです。私、自分の立ち位置ばかり見ていたなって。同じ方向を見て、話し合わなくては、って……本当に、ありがとうございました」
小さな沈黙の後、新堂の声が返ってきた。
「……どういたしまして」
それはどこか、感情を抑えたような、一定の距離を保つ声だった。
電話が切れた後、美咲はスマートフォンを見つめたまま、そっとため息をつき、しばらく動けなかった。胸の奥に、まだ言い足りない何かが残っていた。
「同じ方向を見て話し合わなくては」
その言葉が胸の内で反響する。
――けれどそれは、誰と? 新堂さんと? 反対派の研究者たちと? 自分自身と?
ふいに、わずかな混乱が心を揺らした。
それでも、美咲はそっと微笑んだ。




