外伝 イェルギルスの遺言状 / 第一章 血の代償
夜空に御座す蒼光神の化身、明月も、今宵ばかりは灰色の霧に埋もれ、薄暗く見えました。世間では国王の急死が騒がれていましたが、ゲート魔呪大習院では話題にさえ上りません。千年近い歴史を誇るこの学府で、人々の関心を集めるものは、今も昔もただ一つ――魔術学の研究だけでした。
時刻は深夜に差し掛かり、ほとんどの講義が終わりに近づく中、なお熱い議論が交わされているところがありました。不定期に講義が行われる中央大講堂の方です。
中央大講堂は数ある大習院の建築物群の中でも特に歴史が古く、魔術学が確立された当時に建てられたものと伝えられています。先の戦乱で魔属の略奪に遭っていたため、もはやその立証は不可能という点はなんとも残念でなりませんが、長い年月を経た今でも実用可能な設計は魔術の粋を集めていたからにほかなりません。定期的に天蓋部に埋め込まれた水晶に魔力を注ぎ込めば大講堂は自己修復をし、扱い方次第では半永久的な使用も理論上では可能とできあがりています。
大講堂は魔術師の誰もが夢見る究極のひとつ、永久機関の雛型であると位置付けられています。講堂の技術原理を専門に研究している学者も徐々に増えてきており、ここで講義を受けられるということは、魔術学における能力が認められた証でもあります。
もっとも、魔術学の最高学府での勉学を許されたこと自体、学生たちの大いなる励みとなっています。それでも大習院の三千近くの院生の内、大講堂での受講を許された者は百人もいないと申しますから、まさにエリートの中のエリートを養成するための「聖域」ともいうべき場所であります。
ゲート魔呪大習院の門戸は一般大衆に開放されていません。魔術学研究のエリートかそれに準ずる者が各国首脳の推薦を経て、入学試験で能力測定に合格しない限り、世界最高峰の魔術体系を学ぶことはできません。それだけに院生一人一人の実力は並みの魔術学導師をもしのぐといわれています。そんな天才たちの指導に当たるのが、院長以下、大習院の導師陣であります。全員魔術界の最高称号、魔道士号を持つ実力者ばかりです。魔術を駆使して最前線で数々の修羅場をくぐり抜けた実戦の雄も決して少なくありません。人材の育成はもちろん、技術の革新も彼らによって日々研鑽されています。
大講堂の方の声が一段と高まりました。議論が激しさを増したようです。最前列では質問を繰り出した女子院生が立ち上がって抗議の意を訴えています。講師の答えに不服しているのは明らかでした。年齢の割にかなり幼い抗議の仕方ですが、頬を精一杯膨らませています。よほどの不満を募っていたのでしょう。眉間にしわを寄せて、エメラルドグリーンの大きな目に涙を浮かばせています。
大人っぽいと思ってわざわざオールバックにそろえた髪の乱れを手のひらで整え、なんとか「学者らしい」口調を維持しつつ、院生は口を開きます。かわいらしい外見とは裏腹に、声に皮肉や不服がたっぷりと滲んでいました。
「ソフィア先生。もう一度伺います。なぜ、あの戦いで死霊召喚術を使ったのですか」
「では、もう一度答えます。私は今日まで、一度たりとも禁呪を使ったことはありません」
こちらも苛立ちをあらわにした声でした。しかし抗議する十代の女子院生ならともかく、院生を導くべき講師の声にしては些か威厳にかけているような気もします。院生の少女に負けず劣らず、若若しくかつ感情的な音色が講壇より発せられていたのです。
壇上にいる「ソフィア先生」は今に飛びかかって来そうな生徒を一瞥すると、再び手にしているチョコレートをがつがつかじりだしました。薄汚れた深青色のつなぎに白衣を羽織っただけの、なんとも不格好な姿でありますが、彼女の容姿はそれを補うに余りあるものでした。黄金色の髪は長く伸ばされていて、チョコに齧り付くたびにゆらゆらと靡いています。透き通るような肌は麗しく、端麗な容姿をより一層と引き立てています。年齢はせいぜい二十歳前後でしょうが、深い湖の底のような瞳はなんとも言い知れぬ力強さを醸し出しています。表情は怒りを宿っているとも、笑みを浮かべているとも見えますが、魔道士クラスともなれば呪文なしの自然干渉をも簡単にこなしてしまいますので、痩身美顔の少女に見えても実年齢は見た目のそれに伴うものだとは限りません。
ただし、この女性魔道士の場合、正真正銘の、「本来の若さ」であります。
ソフィア・ヴァン・ヘレンは七歳にしてゲート魔呪大習院の門をくぐった天才児であり、幼くして名を上げていたのです。さらに入学した翌年にはライン帝の国内征伐に加わり、十一歳で太古の魔術を駆使してフロズパレスを消滅させています。先の大戦時より魔術界の最高称号、高位魔道士号を取得し、名実ともに魔術界の頂点におられる魔道士の一人なのです。
女子院生はさらに何かを言おうとしましたが、ソフィアの方は残りのチョコバーをかざしてそれを制止しました。
「セフィリア君。本校が死霊召喚術を研究しているのは、怪物を作るためではありません。召喚術がどれほどの危険を伴うか、専攻している君が一番よく分かっているでしょう」
一息ついて、彼女は院生に向き直ります。口元にチョコの屑がついているものの、表情は真剣そのものです。
「死霊召喚は、いつの時代も、どこの国でも禁じられています。ゲート魔呪大習院も例外ではありません。ライン帝の戦争で私が使ったのは、強力な雷電系の破壊術です。精神力を鍛え、魔力の絶対量を高めれば、君にも同程度の威力は出せる。禁呪が自殺行為だということくらい、君ほど賢くない私にも分かります」
軽い口調で講堂に笑い声が起こりましたが、セフィリアと呼ばれた少女の顔はいよいよ真っ赤に膨らみました。今日のためにわざわざ新調した水色のローブを握る手も少し震えていました。
「雷電系? それなら、なぜ跡地では穀物も育たず、家畜も飼えないの? 建物さえ建てられない。人間以外の生き物は近づこうともしない。魔王が支配していた頃のほうが、まだ命があったはずよ。禁呪でなければ、どうして“死の大地”が生まれるの!」
言葉を重ねるにつれ、セフィリアの顔は少しずつ青ざめてまいりました。ソフィアの方も、表情に翳りが見られます。自分の生徒が何を言わんとしているのか、察していたのでしょう。
予想の通りに、セフィリアの口から魔術を志すものなら誰しも、苦痛を感じずにはいられない響きが漏れました。
「私の父、タナトス・ハルフォードは、ネーヤ皇帝のもとで戦い、国土の回復に尽くしました。けれど、父はあの戦争で死んだ。剣聖と呼ばれた父がです。だから分かる……禁呪が使われた。“大剣聖ハルフォード”は、戦うことさえできずに敗れた。そうでしょう?」
「……わたしは……」
ソフィアは言葉を詰まらせました。ネーヤを発祥地に持つ魔術学ですが、源流は神々の力を借りる法術にあるといわれています。法術の驚異的威力に着眼した一部異教徒が、法術の長期にわたる修行や信仰を排除し、誰もが扱える力、破壊力のみを追及した結果、魔術が生まれたといいます。
世界中に普及し、法術と並ぶ一大学問として成長を成し遂げた今でも、戦の烽火が上がる場所に必ず魔術の光がともされるといいます。権力に狂うような卑しい人間に魔術は振るえないと伝えられていますが、魔術そのものに、人を狂わせる力を持ちあわせていたのかもしれません。魔術を扱うもののみならず、周りの人間にまでおよぶ厄介な病のように。
魔術が歴史に姿を現して以来、戦乱はまるで伝染病のように世界中のどこにでも発生し、絶えることはありませんでした。そのたびに、拭い切れないほどの血が流され、人が死んだのです。
魔術の最高位にいるソフィアは、そのことを熟知しています。
最終戦争のために開発された恐怖の呪文も、たくさんあります。それらのほとんどが禁呪としてゲート
魔呪大習院に封印されていますが、いくつかの禁呪は各国家に隠匿され、いつでも実戦投入できるよう、密かに用意されているのでしょう。
権力争いの巻き添えに父親を失った少女が、目の前にいます。今年で十五になったばかりの、まだあどけなさの残る少女です。
ソフィアの口調は、ますます弱気になりました。
それは生徒に対する配慮の不足を悔やんでいるというようにも、己の無力さを嘆いているようにも見えました。
「君の父については……確かに、まともに戦ってタナトスを倒せる者などいなかった。でも、フロズパレスの跡地は禁呪によって生まれたものではない。私自身が調査した。それだけは確かよ」
「それは、“あなたが使っていない”というだけでしょう?」
セフィリアはついに声を張り上げました。技術と理論の向上以外に疎いゲート魔呪大習院ですが、ここ中央大講堂では永久機関研究のため、声高な発言や建物を傷める可能性をもついかなる行為も禁止されています。他の講師なら間違いなく院生を叱責するところでしょうが、ソフィアは気にする様子すらなく、ただ呆然と天蓋部の水晶を眺めているだけでした。
議論に決着を見出したのでしょう。ソフィアの口調は一気に機械的になりました。
「セシル。その話は――」
「ジークデュースは、どうなの」
ざわめいていた講堂は、その一言に静まり返りました。正確には、その名前、というべきでしょうか。
ジークデュース。四十歳の若さで高位魔道士となり、「六道士」にも数えられた大魔道士でありました。とりわけ召喚術を得意とし、呪文なしで魔王を召喚したとか、サウザンドドラゴンを召喚したとか、没後十五年がたった今でも彼の伝説は絶えません。二十七年前突然行方不明になり、そのときの、彼の肩書きはゲート魔呪大習院院長でありました。
ソフィアは水晶からゆっくりと視線をセフィリアに落としました。頬杖をついた顔に表情が見られません。無言のまま、セフィリアを睨み付けます。底知れない青い瞳に、殺気に似た光をちらつかせていました。
「どうしたの、先生。古代魔術の権威である“あなたたち”なら、死霊召喚くらい何でもないでしょう?」
セフィリアはソフィアをにらみ返しました。師匠の反応はいかにあろうとも、自分は徹底して究明するつもりだ、という強い意志の表れなのでしょう。言葉にも激しさを増していきます。
「南方の港町を滅ぼし、膨大なアンデッドを操った張本人。魔王の代弁者。それとも、旧神聖ネーヤ帝国を滅ぼした“死者の皇帝”と呼びましょうか」
「セシル! その話なら、私の授業に出るたび何度も聞かされている。アンデッドは土系統の魔術に属する。君だって昨夜、私の部屋でゾンビの召喚を試したでしょう。魔力の絶対量さえ増えれば、骸骨の一体や小さな火を生み出すくらい、ここにいる誰にでもできる。それでも禁呪と結びつけたいなら――」
ソフィアはセフィリアから視線を再び天蓋の水晶に戻しました。なるべく気丈に、足を組み替え、嘲るような笑みを作ります。
「――それは君の自由よ。でも、私たちは伝説をありがたがる大魔道士でも、法術を盲信する教徒でもない。魔術という学問を追究する研究者です。究極魔術など、しょせんは伝説にすぎない。いつか、想像するだけで誰もが魔道士になれる術が生まれるかもしれないけれど、私が副学長でいる限り、そんなくだらない研究に予算は回さないわ」
ソフィアは残りのチョコバーを口へ放り込み、視線を水晶の下にいる生徒全員に向けました。
「セフィリア君の貴重な意見に感謝します。今回のこの特別講習で死霊召喚術を取り上げたのも、皆さんの禁呪に対する危機意識の向上が最大の狙いでした。予想以上の反響に満足しています。でもこれだけは言っておきますが、どんな術でも努力しなければ習得できません。では、明日の授業もありますので、他に質問がなければこれで終わりにしたいと思います。」
「待ってください、ソフィア先生!」
「この百年、禁呪を使った者はいない。そして、これからも現れない。だから安心して」
傍に駆け寄った少女に、ソフィアはやさしく宥めの言葉をかけました。セフィリアの方も営業用のおしとやかな表情を取り戻していましたが、眉間のしわはますます深まっていくばかりです。声を潜めて、ソフィアにいいます。
「今回はうまく逃げたけど、次はないからね。師匠が禁呪を使ったこと、絶対に突き止めてみせる。だから、私にも調査をさせて」
「調査は十年前にしたし、私も散々受けたわよ。ここの図書館は焼かれて記録が残っていないけど、ネーヤの王家図書館なら写本があったはずよ。でも、どうしても気になるのなら、私にねだらないで閲覧状を申請して学部長に提出することね。」
ソフィアはセフィリアの体をかわして出口に向かいました。
ついこの間まで一人でトイレにも行けなかったのに、いつの間にか自分と肩を並べるまでに成長したかわいい「姪っ子」を、すこしだけ愛しく思えた。
「待ってよ!師匠!」
「この間召喚学部長のバルティア先生はあなたの研究をほめてたわよ。古代魔術もいいけど、自分の専門も忘れずにね」
早く教室を出るために思いついた出まかせでしたが、先月の講義でも同じ言い訳を使ったため、セフィリアは口を尖らせます。 「……バルティアと師匠は犬猿の仲って、みんな知ってますからね。」
「『先生』くらいつけてやりなさいよ。事実だけど余計なお世話。あんたはせっせと勉強に励めばいいの!それと――」
振り返らずにソフィアはいいました。
「それから――何度もタナトスを持ち出すのは、やめてちょうだい」
冷たい一言を残して、儀式的な拍手も、真っ赤になったセフィリアにもかまうことなく足早には講堂から飛び出しました。一刻も早く、この場から離れたくてたまりませんでした。小走りで研究棟にむかいながら、おもわず自嘲の笑いを漏らしてしまいました。
「……安心して、か」
セシルにかけた言葉、はたして誰に聞かせているのだろうか。
十七年前、内乱の真っただ中にあった神聖ネーヤ帝国にジークデュースは突如姿を現した。南の商業の要、サノヴァーで男は一夜にしてアンデッドの大軍団を作り、北の王都に兵をむけた。土系魔術を用いたのなら、四万とも五万とも言われる数の、しかもそれぞれに人間並みの戦闘力を持たせた精密なアンデッドを生むには、いかに高位魔道士でも力不足と言わざるを得ないだろう。精神力をとやかく言う前に人間の肉体自体、それほど長時間にわたって魔力を提供できるものではないし、第一、そこまで強力な呪文は禁呪にすら存在しない。
ジークデュースが魔王と接触したのはとうに明白だ。
セフィリアはそれに感づいているのに違いない。
だが、どうすれば良いだろうか?あの子を魔都の跡地に入れて禁呪の正体を探らせるか?それとも高位魔道士を集めて中和呪文を昼夜問わずに放ち続けておけば、あるいは一月やそこいらで死の大地は回復するかもしれない。それからじっくり証拠を隠蔽するといい。
中央大講堂からそれなりに離れて、周りに人影もいないと確かめると、ソフィアは大きなため息をついてしまいました。涙が今にも溢れ出さんばかりです。
魔王の宮城を破壊した日から今日に至るまで、自分は償いのつもりでせっせと努めてきたけれど、結局何も変わらなかった。
死の大地は日増すごとに命が宿る場所を蝕みじわじわと膨らんでいくが、自分には止めることも中和することもできない。
そもそも、死の大地の存在を認めさせてくれない理由が、ありすぎた。
空を見上げてみた。何を見たいともなく、ただ漠然と見上げただけだった。
霧は濃く、一面灰色に染まっていたので、景色は周りとさほど違わなかった。
「……これもネーヤのため、ね。よく言うわ」
誰に聞かせるともなく、ソフィアは呟きました。
ミシェルの奴も今ごろどうしているだろうな……。
まぁいい、今夜は自分のために、もう寝よう。
ローブの内ポケットに手を突っ込みチョコを探りながら、ソフィアは久々に第二研究室にむかいました。




